第21話 自分にできること

 狼は声を出した人間に興味を持ったのか、レクトの方へやって来る。そして、ルーラにやったのと同じようににおいを嗅いだ。

 恐い、なんてものじゃない。生きた気がしなかった。全身から冷や汗が出る。

 しかし、その時間はルーラ程に長くなく、なめることもしない。すぐにルーラの方へと戻る。

 ほっとしたのも束の間、レクトはカチンときた。

「てめっ……このやろう、女の方がいいのかよ。狼のくせに、人間に色目使っても無駄だ」

 狼はちらりとレクトを見たが、フンと鼻を鳴らしてルーラにその鼻面を押し付ける。その仕種は、まるでなついているようにさえ見えた。

「てめぇ、俺をバカにしてんのかっ。狼のくせに、フンだと。人をなめんのも大概にしろよ」

 自分が身動きできない立場を忘れ、狼にケンカを売る無茶苦茶なレクト。ルーラのことを無謀だ何だと笑えない。

「えーい、この縄、邪魔だな。くっそぉ、こいつがなかったら、てめぇとサシで勝負してやるところだ。狼にフンなんて言われて、黙ってられっか」

 必死にもがいた。でも、きつく縛られた縄はゆるまない。

 狼は気が変わったのか、のどの奥でうなりながらレクトに近寄って来た。うるさい奴だ、とでも言いたいのだろうか。

 その口元から、白い牙がのぞく。あの牙でのどに噛み付かれれば、ひとたまりもない。

 せめて……せめて腰の剣に手が届けば。こんな縄くらい、すぐに切って相手してやるのに。

 悔しさに歯がみする。この状態では丸腰以下だ。

 たとえ剣がなくても自由に動けさえすれば、組合いになった時に投げ付けてやることだってできただろうに。

 わざと恐怖を増幅させようとしているのか、狼の動きはゆっくりとしたものだ。

 しかし、その眼に隙はなかった。じっとレクトを見据えたまま、視線を外さない。

 睨み合いかよ。上等じゃねぇの。こっちだって自由に動く部分って言ったら、首から上と足だけなんだ。睨み合いくらい、いくらでもやってやらあ。

 のろのろと近付く狼の眼を、レクトも睨み返す。満身の力を込めて。その瞳で射殺すつもりのように。

 少しでも長引けば……。この異様な空気を察して、ルーラが目を覚ますかも知れない。

 頭の隅でそんなことを考えるが、半分以上どうでもよかった。

 今、レクトの頭にあるのは、この狼に負けたくない、という気持ちだけだ。自分のこの体勢で勝てる見込みはほとんど……いや、全くなかったが、それでも戦わずに負ける、というのは自分自身が許せない。

 だから。レクトは瞳だけで戦っていた。

 やがて、狼の顔がレクトの顔のすぐ前まで近付いて来た。狼が舌を出せば、なめられる距離。

 かなり大きい狼だった。現れた時から、それにさっき嗅がれた時も大きいとは思っていたが、ここまで時間をかけた状態で真正面から近付かれると、その大きさに圧倒される。

 また全身に冷や汗が流れた。でも、その大きさのために負けたくない。

 狼はその大きな口を、ゆっくりと開けた。いや、レクトにはゆっくりに思えただけかも知れない。

 本当はスッと開けたのだろうが、妙にスローモーションがかっていた。そのせいで、狼の口の中がやけによく見える。

 厚めに切られた肉片のように、大きい舌。ズラリと並んだ白い牙。全てが鋭く光る。レクトの頭など、簡単に噛み砕かれそうだ。

 狼の上あごと下あごが大きく開かれ、レクトの頭をはさむ。わずかに牙に触れただけでも肌が切れそうに思えた。

 形は違うが、ギロチンにかけられている気分だ。

 狼の息が顔にかかった。もう首を動かして逃げられる範囲ではない。

 真っ黒なのどの奥を睨み、そしてレクトは目を閉じた。

 どうしたって、反撃はできない。これまで、とあきらめる。

 とても満足できるような勝負ではなかったが……そもそもできるとは思っていなかったが、少なくともモルに有無を言わさず突き落とされたことを思えば、気持ちの上で戦えただけでもよかったと思う。

 俺も色々とやらかしてきたからな。こういう最期でも、文句は言えないか。

 じきに自分ののどに食い込むであろう、狼の牙をレクトは潔く待った。

「もういいでしょう」

 女の声がした。

 ルーラかと思ったが、彼女よりももっと大人びた声だ。恐怖のあまり、幻聴でも聞いているのだろうか。

 だが、その声に応じ、狼の口がレクトの顔から離れた。

 のどの奥ばかりで暗かった目の前が、またわずかに明るくなる。元々明るい場所ではなかったが、口の中よりずっと明るい。

 狼はレクトから離れると、後ろへ下がった。主人が現れるのを控えているように見える。

「今の……誰だ?」

 レクトは、周りを見回した。相変わらずルーラは気を失ったままで木に縛られている。他に誰もいない。

 でも、確かに声はした。

「ふふ……ここよ」

 レクトの前に、白い衣を着けたきゃしゃな美しい女性が現れた。木の上にでもいたのだろうか、フワリと降りて来るような格好で。

 その身体の動きに合わせ、衣のすそもひらひらと花びらのように舞う。金色の長い髪も同じように広がって。羽はないが、妖精だろう。

 ただ、今までレクトが見た妖精よりもずっと大きくて……つまり普通の人間のサイズだ。

 狼は、女性の後ろに付き従うように座った。やはりこの狼は彼女の従者、だろうか。

「人間がここまで来るのも驚きだけど、この子にあそこまで近付かれて悲鳴一つ上げないなんて、もっと驚きだわ」

 自分のことをほめられたように、彼女は嬉しそうに笑う。

「私、強い者は大好きよ」

 明るい緑の瞳が、レクトの姿をしっかりとらえる。

「そりゃどうも……」

 何度か妖精を見たのでどうにか慣れてきたものの、こうも美人の妖精に話しかけられ、レクトはどう対応していいのかわからない。

 ザーディのことを教えてくれた妖精も、話していたのはルーラであって、自分ではなかった。

 魔法使いでもないレクトが妖精と話すなんて、今までにあるはずもない。

「あんた……妖精だよな」

 わかっていることを聞いてから、レクトは自分が狼と対峙していた時より緊張しているのがわかった。

 狼は所詮、動物。姿形を見慣れた存在。そこにいる狼はサイズが普通ではないが、形は同じだ。

 でも、妖精は。

 話すことはおろか、この森へ来るまで見たことなんてなかったのだ。どう扱えばいいか、わからない。

 ただ、目の前にいる妖精は、少なくとも人間のような姿とサイズ。妖精という要素を無視すれば、どうにかできるかも知れない。

 レクトは細かいことは深く考えないようにした。目の前にいるのは魔法使いの女性だ、ということにしておく。それなら、おかしな緊張もしないだろう、と。

「ここを守っているドリーよ。いつもと違う生命いのちをずっと感じていたから、メイルに様子を見に来させたんだけど。これといって危険はなさそうね」

 メイルというのは、あの狼のことなのか。姿の割に、かわいらしさすら感じる名前である。

「この格好でどう危険になれるってんだ」

 なりたくってもなれない。文字通り、手も足も出ない状態だ。

「ふふ、そうね。不自由そうだし……そのいましめを解いてあげるわ」


 解いてあげるわ


 その言葉と同時に、腕が楽になる。レクトを縛り付けていた縄が消えたのだ。

「え……すげぇ。ありがとうっ」

 自分が自由になったと知るや、レクトはすぐにルーラのそばへ駆け寄った。腰にあった剣で縄を切り、ルーラを助ける。

「おいっ、ルーラ、目を覚ませ。いつまでも寝てんじゃないっ」

 怒鳴りながら、レクトはルーラの頬を軽くピタピタたたく。

「ん……」

 かすかにうめいた。死んでいる訳ではないらしい。ひとまず安心した。

「ねぇ、その、あなたの恋人なの?」

 レクトの様子をしばらく見ていたドリーは、面白そうに尋ねた。

「え? こいつ?」

 レクトは目を丸くして、ドリーの方を振り返る。

「そう」

「そ、そんな訳ないだろ」

「あら、だってすごく心配そうだし、愛してなきゃ、そんなに心配しないでしょ」

 レクトは心持ち赤くなったが、すぐに笑い飛ばす。

「冗談、やめてくれ。俺がこいつの恋人って……。俺にだって好みはあるんだぜ。こんなガキじゃなくて、もっと色っぽい女の方がいい。おしめもとれてないガキなんか」

「誰がおしめしてるってぇっ!」

 いきなりルーラが、レクトの胸ぐらを掴んだ。レクトは反射的に後ずさる。

「うわっ、急に起きるな。びっくりするだろうが」

「なーによ。失礼なことばっか言ってぇ」

 よく見ると、ルーラはまだ寝ぼけたような表情。完全に起き切ってない様子だ。

「ルーラ……お前、大丈夫か? 俺が誰か、わかるか?」

 レクトがルーラの目の前で手を上下に振るが、あまり反応しない。

「ほら、やっぱり心配そう」

 後ろでドリーがくすくす笑う。

「恋人でなくっても、心配する時はする。なぁ、こいつ、魔法とかかけられてないか?」

「どうして?」

「俺達が木に縛られてたのは、魔法使いにやられたからなんだ。俺は先に眠り薬で眠っちまったんだけど、こいつは何でやられたかわからない。そいつにおかしな魔法でも使われてたりしたら」

「ふぅん」

 ドリーは色白の顔をルーラに近付けた。ルーラはまだ寝ぼけた目で、ドリーを見ている。

「……誰? あなた」

 ルーラは夢見心地、といった表情。

「ん……ちょっとかかってるわよ。でもこれ、何をしようとしたのかしら」

「どういう意味だ?」

「眠らせようとするのと、ここにいる目的を忘れさそうとしているのと、半々にかかっているの。だから、半分起きて半分何があったかわかってない。単に寝ぼけてる状態になってるだけよ」

 やはりノーデのかける魔法だ。いい加減で腕が悪いくせに、二つも同時にかけようとしたのである。念には念を入れて、ということか。

 この場合、ちゃんとかからなくてよかったかも知れない。下手すれば、ずっと眠りっ放しか、全てを忘れてしまうかになっていたはず。

 しかし、このままでも困る。これでは、意思があってないようなものだ。

「何とか……できないか? こいつの連れのガキを、この魔法をかけた奴がさらったんだ。放っておくと、その子が殺されるかも知れない……ってか、殺される」

「ふーん、大変ねぇ」

 ドリーは興味なさそうに聞いていた。

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