春はいつの間にか過ぎ、散った花に青葉が取って代わった。あずさの森はこの夏もつつがなく、明るい日差しを受けてきらめいていた。

 獣や鳥たちが、梓の棲む大樹の根元に捧げ物を置いていくようになった。梓は、麓者や獣のようにものを食わずとも生きていける。他の山の主には嗜好品として時たまものを食う者もいるが、梓にその趣味はない。いつもなら受け取るだけ受け取ってから山の大地に返している。しかし今年ばかりはありがたく全てそのままはつに与えた。

 はつは、本格的に梓と暮らし始めてからも、やはり逞しかった。毒のない草や実をすぐ覚えては集め回っていたし、彼女にはやや大きい着物の袖をたすき掛けにして、近くの谷川で魚を捕まえようとしているのもよく見かけた。そういう姿を見るたびに、こいつはいったいどういう育ちなのだろうと梓は疑問に思った。

 麓を離れた暮らしを、はつは楽しんでいるようだった。山の主たる梓の(少なくとも形式的に)縁組み相手であるはつを獣たちが襲うようなことは絶対になかった。それを良いことに、彼女はしょっちゅう森を歩き回っては、見つけたものを嬉しそうに梓に報告してきた。山を見回る梓についてくることもしばしばだった。梓がはつを腕に抱えて飛ぶことも何度かあった。必要なときには風を起こし、また必要なときには凪がせ、ほどよく雨を降らせ、獣や麓者ふもとものの活動を見守り、山全体の生気のめぐりを整えるという梓の仕事を、はつはいつも興味深そうに見守っていた。


 自分は一人でいるのが好きだ、という長年の信念を、梓は少し疑い始めていた。はつは確かによくしゃべる娘だったが、そのことが梓に不快をもたらすことは、不思議にもほとんどないのだった。卯木うつぎのじじいや他の偉い山の主は、いつもあらゆる意味で高いところから話す。だがはつはそれと違って、自分と同じ地平から、ちゃんと考えて話しているように梓には思われた。また、自分のしていることを誰かが莫迦にせず見守っているというのは、別段悪い感じはしなかった。


 夏はやがて去り、樹々が紅く染まった。山の実りは今年も豊かだった。栗鼠りすや鼠はしっかり木の実を溜め込んでいたし、熊や鹿の仔もよく肥えていた。卯木のじじいめ、これで働きが足りんとは言わせんぞ、と、大樹の上から山を見渡しながら梓は思った。はつもまた、鮮やかに色づいた森の姿にはしゃいでいた。しかしその色づいた葉が散り始めるにつれて、梓はなんとなくはつの様子が気になりはじめた。以前見せていたようなはつらつとした元気が、なぜか少しずつ失せていっているように感じたのだ。枯れ枝の間を北風が吹き抜ける頃になって、その疑いは確信に変わった。

 冷たい大風がどうどうと響く晩秋の夜、洞に篭もって草鞋を編んでいる梓の隣で、はつは蓑を羽織って縮こまっていた。日が暮れてからというもの、はつは一言も口をきいていなかった。夏の頃を思えばこれは異常だった。梓は手を止めて編みかけの草鞋を置き、足許をじっと見つめているはつに声をかけた。

「あと少しの辛抱だ。冬を越せば、あんたは麓に帰れるぜ」

 はつはちらと顔を上げて微笑んだ。

「そうだね」

 その返事と笑顔はやはりどこか弱々しかった。梓は眉をひそめた。

「どうした。元気がねえな」

「どうもしないよ。あんたのお山のこと、考えてただけさ」

「何を考えてたんだ」

「そりゃ……あんたのお山は、きれいだってことさ。春の花ざかりのときは極楽だし、夏の緑葉は宝の石みたいだし。秋も極彩色で、お姫さまが着る着物みたいだ。まったく、あの卯木のじいさまの目も節穴だよね。こんなにきれいなお山を持ってて、あんたが仕事をしてないわけがないじゃないか。もしかしてあのじいさま、直接お山を見に来たことないんじゃないかい? もし一度見に来たら、帰りたくなくなるんじゃないかな」

 白い指先で枯葉を掻き回しながらはつは言い、そして言うだけ言って黙り込んだ。そのはつに、梓はどうしても一言問いかけずにはいられなかった。

「あんたは、帰りてえんじゃなかったのか」

 はつは答えずに、また視線を落とした。なぜかその瞬間、彼女の沈黙の奥にあるものが初めて見えたような、そんな気が梓にはした。

 風がひときわ強く吹いた。二人の大樹が僅かに揺れた。微かな呼吸の音が風の唸りに混ざって梓の耳に届いた。はつが細い膝をきゅっと胸の前で抱きかかえた。色の失せた唇から、ふう、と深い息がこぼれた。

「なんていうか……あたしさ、どういう顔で家に帰ったらいいか、分かんないんだ」

 その言葉に梓は首を傾げた。はつはそれを見るでもなく、小さな声でぽつり、ぽつりと語り始めた。

「あたしの家はさ、一応武家の端くれなんだけど、傾きに傾いた田舎の郷士ごうしなんだ。普段はお百姓とあんまり変わりのない生活しててさ」

 はつの話には、梓には聞き覚えのない言葉がいくつもちりばめられていた。しかし意味を訊くことで話を邪魔してはいけない気がして、梓は黙ってそのまま耳を傾けた。

「暮らしは、あたしの覚えてる限り、ずっと苦しくて。あたしも畑を耕したり、炊事洗濯したりしてたんだ。いつだって忙しかったよ。ああでも、娘っ子のときは他の子らと一緒に川で魚を獲ったりしたっけ。あれは楽しかったなあ」

 だからやたらと生活力があるのか、と梓は内心納得した。だが、まだ話が見えてこない。生い立ちを語って、それでこいつはどうしようというのだろう。

「あんたがあたしを連れてきたとき、あたしが着てた衣装、覚えてるだろ?」

 梓は頷いた。今もこの洞の隅にたたんでまとめて置いてある。白い『綿帽子』とかいうものに、布をたっぷりと使った美しい着物。

「あたし、あの日、嫁入りすることになってたんだ」

 ――そう、婚礼の衣装だった。はつは確かに、そう言っていた。

「あたしの家の人間からしちゃ、望むべくもないような良縁だったんだ。あたしをどっかで見て気に入ったとか、いきなり話が来てさ。そんなところに長女が嫁げるんならそりゃこっちの先行きも開けてくるもんだってんで、話を受けることになったんだ」

 でも、と、はつは吐き捨てるように言って拳を握りしめた。

「嫌だったんだよ。いくら婚姻はお家を永らえさせるためのもんだからって。なんでもあたしは三人目か四人目の嫁だっていうじゃないか。前の嫁さんもその前の嫁さんも、すぐ死んでるんだ。あのじじい、嫁を殴ってるに違いないよ」

 梓は思わず顔をしかめて問うた。

「どんな下衆なんだ。その相手ってのは」

「卯木のじいさんを、もっと蛇みたいな感じにしたじじいさ」

 想像できた。苦い思いで梓は唇を噛んだ。一方のはつは小さく溜息をついた。

「でもやっぱりさ、あたしの嫁入りに、あたしの家の先行きがかかってたんだ。あたしがもらえりゃ、じじいがいろいろ口利きをしてくれるって話になってたんだ。父さまと母さまは一所懸命、準備してくれた。――だけどあたしは結局、嫁に行かなかった」

 梓の胸にずきりと痛みが走った。自分のしたことの意味が繋がって見えた。

「……はつ、あたしは」

 はつは顔を上げて梓を見、かぶりを振りながら弱々しく笑った。

「違うんだ。あんたを責めてるんじゃないんだよ、梓。帰らないことを選んだのはあたしなんだ。卯木のじいさんと話したあと、あんたにすぐ麓に戻してもらうことだってできた。でも、その気になれなかったんだ。だからあんたが困ってるのをいいことに、ごまかしたんだよ。あんたじゃない……あたしなんだ」

 自分のせいだ。そう言って笑うはつの顔は、痛くてしょうがない、と語っているようだった。こんな顔をしているやつをどうすれば慰められるのか、梓は知らなかった。

「……だが、あんたは得体の知れないもんに攫われたことになるわけだろう。あんたや、あんたの家の罪じゃねえはずだ。それぐらい、向こうも分かってるはずじゃねえのか」

「それはどうかな。あのじじい、自分の思うように事が運ばないと機嫌悪くするもの。あたしの家が千載一遇の機を逃したことには、きっと変わりがないよ」

 必死に紡いだ梓の言葉は、はつの表情を変えられなかった。

「あたしの家、今ごろどうなってるんだろう」

 はつは細い膝をさらに抱き込んで、顔を伏せた。

「あたし、逃げたんだ――」

 どう、と風が泣いた。梓ははつの細い項を見つめた。そして手を伸ばし、黒い後ろ頭をぐしゃりと撫でた。はつが驚いて顔を上げた。それを見返して梓は言った。

「……ずっとここにいるってんなら、あたしは構わん。そうじゃなく、戻る勇気が出たってんなら、いつでも、麓まで連れていってやる」

 蛇の口に戻っていく義務がこの娘にあるとは、梓は思わない。だがこの娘がそれを選択するなら、それでこの娘の胸の重荷が軽くなるのなら、梓はそれを支えるまでだ。

「だから、あんたの好きにしろ」

 玉のような瞳で、はつは梓を見つめていた。だがやがて、泣きそうな顔で微笑んだ。

「へへ、じゃあ、そうしようかな……。勇気が出るまで、あんたがいいっていう分だけ山のものを採って、この樹の上で寝て、つつましく暮らすよ」

「ん。好きにしろ」

 もう一度、はつの頭を撫でた。はつはほんの少しだけ、梓に身体をもたせかけてきた。

「ありがと……梓」


  ※


 そして、冬が来た。いつになく冷え込む冬だった。北から流れてくる空気が常より遙かに冷たいのだった。谷川は深く凍った。降り始めた雨はすぐさま重い雪に変わり、何本かの樹を押しつぶした。悪い冬だった。それは間違いなかった。だが山を滅ぼすような最悪の冬でもなかった。梓の力なら乗り切ることができる程度の冬だった。――そのはずだったのだ。

 異変は、深い雪が山を覆い尽くした二日後に起こった。はつが突然熱を出し、激しく咳き込むようになったのだ。梓は狼狽えた。だが狼狽える梓を見て、心配はいらない、ただの『風邪』だとはつは笑っていた。それがどういう意味なのか、梓には分からなかった。はつが笑っている理由も全く分からなかった。彼女が言うような些末事であるようには思えなかったのだ。果たして、その予感は当たった。はつの高熱と咳は、何日経っても収まらなかった。荒い呼吸には喘鳴が混ざるようになり、紅かった唇はあけびの実のように色を失った。元から華奢だった身体はさらに痩せ細った。山の寒さは、はつのような生身の麓者には身を切り刻む刃のようなものだったのだ。そのことを梓は甘く考えていた。また『病』というものについて他人事程度にしか知らず、打つべき正しい手も分からなかった。右往左往する梓の目の前で、はつは刻一刻と弱っていった。


「はつ……はつ」

 何日が経ったのか、昼なのか、夜だったのか。昼だったような気がする。大樹の洞の外が、ぼんやりと明るかったから。丸く儚く差し込むその灯りに照らされて、荒い呼吸を繰り返しながら横たわるはつの顔は、作り物のように白かった。その顔を両の手で支えて、梓は必死に呼びかけた。

「はつ。あたしが見えるか、はつ」

 何度目かの呼びかけで、はつの目がうっすらと開いた。

「どうしたらいい。何が欲しい」

 その目を覗き込んで梓が問うと、血の気の失せた唇から、弱々しい声がこぼれた。

「……水、のみたい」

「水。水か。わかった」

 そうはいえど、谷川まで凍りついてしまった山に『水』はない。洞を飛び出して大樹の枝を揺らし、落ちてきた雪を掌に溜めて戻った。やや固い雪を指先で崩して、紫色をしたはつの唇の間に少しずつ押し込む。二口、三口程度はうまくいった。だがさらに続けようとしたところで、はつが身体を丸めて激しく咳き込んだ。

「はつッ!」

 雪を喉のおかしなところに入れてしまったのか。焦って背中を叩けば、苦痛も露わな音と共に溶けかけた雪が吐き戻された。そのままひゅうひゅうと絶え入りそうな呼吸ではつは悶える。それを見る梓の心の臓が鋭く痛んだ。

 麓者との間に結んだ霊脈は枯れた川で、そこには何も流れない。そんなのは全くの嘘だと梓は思った。今まで当然のように心の臓に流れ込むのを感じていた、はつの生気。それがどんどん弱くなっていくのを感じる。はつという存在の欠落を感じる。痛いほどに――否、痛みとして、感じる。

「はつ……」

 気休めにしかならぬと分かっていながら、痩せた背中をひたすらに摩り、燃えるような額に雪の塊を宛がう。やがてはつの呼吸が少し――ほんの少しばかり落ち着いた。両の瞼が薄く開いて、輝きの失せた瞳がこちらを見た。かつて吠え猛る山犬のように力強かった声、今や高熱と咳ですっかり枯れてしまった声が、梓の名を呼んだ。

「あずさ……」

 その声を聞いて、また一筋、梓の心の臓から見えぬ血が流れた。その痛みを、喪失の痛みを噛みしめながら、梓はとうとう意を決めた。

「はつ……すまん、――あんたはもう、麓に帰ったほうがいい」

 はつの目が僅かに見開かれた。それを見返すのもつらくて、梓は頭を垂れた。

「このままだと、たぶんあんたは死んじまう。あたしには、何もしてやれねえ……」

 言葉にすればなお悔しさが募って、それでも真実には違いなくて、握りしめた膝頭に我知らず爪を立てていた。掠れたはつの声が、梓を悔悟の渦から引き戻した。

「でも……あんた、独りになるじゃないか……じいさんとの約束も反故になっちまう」

 ああ、こいつはこんなときになってもまっすぐだ。他人を裏切ることを許さない、裏切れば自分を許せない。そんな娘だからこそ、こいつはここにいてはならないのだ。

「あんたがお天道さまの下のどこかにいるなら、それでいい。ここであんたが死ぬ方が、あたしは嫌だ。あたしの山のことなら心配するな、何でもして守ってみせる。だがあんたのことは――あんたのことばかりは、あたしの力じゃもう助けられないんだ」

 すまん、と絞り出して、再び頭を垂れた。ふと、何かが手の甲に触れた。はつの指先だった。かそけきその感触を、梓は是と受け取った。


  ※


 ありったけの布に包んだはつを腕に抱き、梓は大樹を飛び立った。震えるはつの身体は異様に熱く、そして冷たかった。凍える風の吹き下ろす空は踏みにじられて濁った雪面の色だった。愛する山の光景に、今の梓はただ、うつろな色しか見出せなかった。

 そこに突然、声をかけられた。

「――そんな顔、しないでおくれよ、梓」

 驚いて腕の中を見下ろすと、はつがまっすぐこちらを向いていた。彼女の肌の色は失せに失せ、唇は青かったが、その唇には柔らかな笑みが浮かべられていた。

「春が来りゃ、あたし、また元気になるから。そしたら、また会えるんだ」

 春。そんな『春』は来るのだろうか。花はまた咲く、樹はまた芽吹く。だがこの娘がいなければ決して同じ『春』ではない。そんな疑いを押しのけるように、梓は囁き返した。

「迎えに行く」

 すればはつは、全てを見通しているような顔でかぶりを振った。

「迎えなんか、いらないよ。あんたのお山に春の花が咲いたら、あたし、歩いていくもの」

 冷たい指先が梓の頬に触れた。確かめるように、愛おしむように、頬骨を辿った。

「自分の足で、歩いていくよ。あんたの、いるところまで」

 何かが瞳の奥を押すのを堪えて、梓は前を向いた。見渡す限りに雪を抱いた山は、白い着物を広げたようだった。

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お山の天狗の縁結び ナサト @sato_nasato

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