本当に、あっけないほど簡単だった。自分より頭ひとつ分は小さい麓者ふもとものを、あずさは枯葉の積み重なった洞の中に放り込んだ。麓者は、ぎゃっ、と声を上げて伸びた――と思いきや、突然がばりと起き上がり、傍に降り立った梓に掴みかかってきたのだった。

「何、するんだねッ! このバケモノ! 物の怪ッ!」

 年寄りのわりに随分と元気なものだ。卯木うつぎのじじいといい、大声を上げる年寄りは好かない。梓は少し苛立って、麓者の額をガッと掴んで押さえた。

「身をわきまえろ、麓者。老い先短けえのならせめて大人しくしやがれ。それになんだ、ぎゃあぎゃあ騒ぎやがって。男の風上にも置けねえぜ」

 すると麓者は黙るどころか、ますます唾を飛ばすような勢いで食ってかかってきた。

「うるさいね、バケモノ! あんた、もしかしてあたしをじじいだと思って攫ってきたのかい!? 大間違いだよ、よーく見な!」

 言うなり麓者は、自らの白い頭を掴んで、千切るような勢いで引きずり落とした。ぎょっとする梓の目の前に現れたのは、美しく結い上げられた黒髪だった。ますます驚いて視線を落とせば、濁りのない黒い瞳がこちらを見据えている。頬は熟れた烏瓜からすうりのようにつるりと紅潮している。白い衣装から見える細い首筋にも皺はひとつとしてない。そのうえ華奢な線に柔らかさを兼ね備えたこの姿は、――これは、どう見ても。

「女! 女か! ――クソッ!」

「それも年頃の娘だよ、この節穴ッ! 数えで十五だ! 一体どうしたらあたしを年寄り男と見間違えるんだい、どうしたら! あんただって女のくせにさ!」

 気が抜けて、梓はがくりとその場に座り込んだ。麓者の娘は怒り心頭の顔で腕を組み、こちらを睨んでくる。溜息をついて片手に顔を埋めた。情けない声が出た。

「……れた」

「は?」

「背中が丸くて、頭の白いやつを攫って来いと、入れ知恵された……」

 梓の言葉に娘は、あああ、と声を上げ、きれいに結った頭を乱さんばかりに振った。

「あのねえ、あたしの頭が白かったのは、綿帽子を被ってたから! 背中が丸かったんだとしたら、それはでっかい帯の上から打掛けを着てたから! これはさあ、輿入れ用の衣装ってもんなんだよ!」

「こしいれ……」

 聞き慣れない言葉に戸惑い、そのまま繰り返すほかなかった。娘は苛立ったように白いもの――どうも被りものだったようだ――を振りかざした。

「嫁入りってことだよ。婚儀!」

 もう何がなんだかよく分からないので黙ることにした。娘もまた、はあ、と大きく息をついて、だらりと腕を下ろした。

「なんだか拍子抜けだ……天狗って、こんなに人のことを知らないもんなのかい?」

 娘の言葉に、梓は返事をしなかった。麓者たちが梓らのことを時に『天狗』と呼ぶことは知っている。『狗』とはまた随分ではないか。自分らでは絶対に使わない呼び名だ。梓たちからすれば、こいつらの方が何も知らない『麓者』だ。そもそも梓らの大半は、山の存亡に関わることでない限り、麓者にはあまり関心を持たないのだ。

 余談ではあるが、麓者どもが梓らの姿をいかに思い描いているかも、小耳に挟んだ範囲からすれば、相当偏っていると思う。梓自身は麓者らがよく絵に描くらしい修験者の格好をしているが、これは梓の育ての親が修験者と縁の深い男だった影響でしかない。梓も親も、この格好が山に生きるうえで実用的でなければ、わざわざ選んだりしなかったはずだ(梓の親は、この装いは元々麓者の修験者らがこちらの真似をして、さらに自分らに合わせて改良したものだとまで言っていた。真偽は梓の知るところではない)。一方で、全く違う服を着ている者たちも大勢いる。

 だがこの小娘にそこまで答えてやる必要はないと思ったので、黙っていた。その沈黙をどう取ったのかは分からないが、娘はまた問いを投げかけてきた。

「そもそもだよ。なんだってあんた、年寄りを攫ってくる必要なんかあったんだい?」

 今度こそ梓は答えに窮した。娘の真黒い瞳は格段に落ち着いた様子で、じっと梓を見つめている。それを見るともはや、隠し立てや突っ張りの元気も出なかった。

「……縁組みを、させられそうになった。それを防ぐために、麓者を捕まえたかった」

 娘は怪訝そうに細い眉を寄せた。

「麓者ってあたしらの――人のことかい? 縁組みってのはつまり嫁入りのことだろ? 嫁入りさせられんのを防ぐのに、あたしらがどう関係あるんだい?」

 娘は怪訝そうに細い眉を寄せる。梓もまた困惑に顔をしかめた。

「『嫁入り』というのが分からん……あんたの言う『嫁入り』とあたしらの『縁組み』はもしかして違うのか」

「さあね。ちょいと説明してみなよ」

 随分と肝の据わった小娘だ――もうすっかり落ち着いている。なんだか少しの間に流れを握られてしまったような感じを味わいつつ、梓はぽつぽつと説明を始めた。

「……男と女の間に縁を結ぶ儀式をして、霊力の脈をつくる。その脈を通じて、女が溜め込むけれども上手く使えない力が全部男に流れて、調和が取れる。とりあえず、そういうじじいどもは信じている。数少ねえ女が出てくりゃ、力の足りねえ男どものために、こぞって縁組みをさせたがるんだ。縁組みで作る脈は一度作っちまえばそれっきりだから、縁組みは一生に一度しかできない。……そういうもんだと、決まっている」

 娘はますます怪訝そうな表情で小首を傾げた。

「そいつは……あたしらとは似ているようで随分違うね?」

「そう、なのか」

「あたしらにとっては、お家を永らえさせるためのもんだもの」

「おいえ?」

「……ともかくあんたはそれが嫌だったんだ? 女天狗なら力を分ける側だもんね」

 梓は頷いた。

「……おまけに、山も男に奪われる。あたしが手塩にかけて育てて、守ってきた山が」

「そりゃまた、なんでさ」

「脈をつないで力を奪われちまったら、もう守れねえ。だから荒れ果てさせちまう前に、男に明け渡す。そういうふうに決まっている」

 ふうん、と相槌をうって娘は問うた。

「でも、本当にそうなのかい。女は力を溜めるとか、男の方が上手く使えるとか」

「知るか……あたしに言わせりゃとんだ眉唾だ。あたしは確かに霊力をよく溜め込むが、溜めた力は使いこなせる。正直、そこらのありふれた男より上手うわてだ。それに、力を溜め込む方に長けてる女は実際にいるが、それは男だって同じだ。全ての『女』がそうだと決めつけるには、あたしらの中には女の数が少なすぎる。あたしは他の女を片手に足りるぐらいしか知らん。大方、じじいどもがそう信じてえだけなんだろう」

 常日頃から抱えている怒りだった。しかしここまで詳細に言葉にしたのは初めてのような気がした。言葉にしたことで形を得た怒りが、またふつふつと胸の奥で滾ってきた。唇を噛んで黙り込んだ梓を娘はしばらく見つめていたが、やがて再び口を開いた。

「でも、それじゃ答えになってないよ。それとあたしらが、どうして関係あるんだい?」

「……縁組みは一生に一度だ。だから、あたしの力も山も本当に奪っちまえるような男と縁を結ばされる前に、適当な麓者を捕まえてきて済ませちまおうと思ったんだ」

「だから、なんで」

「麓者には、大した霊力の器がねえ。器のねえところに、霊力は流れていきようがねえ。そして霊力のないやつに、山を持つことはできねえ」

「……年寄りが要ったのは?」

「……どうせ、すぐ、死ぬから」

 しん、とその場が静まりかえった。だがそれも束の間、娘が突然ばし、と白い被りものを枯葉の上に叩きつけて立ち上がった。

「呆れた! とんだ考えなしだよ、あんた! 天狗さまってのはみんなこうなのかい!?」

 前触れなしの怒声に梓は虚を突かれた。一方の娘は握りしめた左の拳を振るわせ、右の人差し指を梓に突きつけ、髪を今度こそ振り乱す勢いで、さらに声を上げた。

「あんたは自分の人生を台なしにされたくなかったんだろ? それは他の人間にとっても同じだって、どうして分からなかったんだい? あんたのやり方じゃ、まるで自分以外を虫けらみたいに踏みつぶしてく具合じゃないか!」

「……それは」

「ましてや『すぐ死ぬ』だなんて……うちの里のじいさんばあさんは、あんたが勝手に使っていい道具じゃないんだよ! それともなんだい、天狗さまにとっちゃ、里の人間はモノなのかい? ああそうだろうね、きっとそうなんだろうね!」

 娘のふっくらとした頬が、夕焼けのように燃えている。こちらをまっすぐ睨み据える黒い瞳もまた、爆ぜる火花を抱いて燃えている。卯木の翁も烈火のように怒る男だが、この娘の燃やす炎は、安全な高みに座ったまま怒鳴りつけてくるあのじじいのそれとは全く違っていた。月の輪熊に食らいついていく幼い山犬のような、命知らずの炎だった。

 怒る女を、自分のほかに初めて見た。梓はそう思った。だが自分の鏡像、というのは、きっと言い過ぎだとも思った。言葉にならぬ怒りを数百年身内にくゆらせ続けてきた自分は、この燃えさかる夏日星なつひぼしのような娘とは、きっと似ても似つかない存在だった。

 言葉が口を突いて出た。

「……すまん」

 娘が動きを止めた。その娘に向かって少し――少しだが確実に、梓は頭を下げた。

「あたしが悪かった。今すぐあんたを、麓に返す」

 娘が握りしめていた拳を解いた。身体に合っていない長い袖がはたりと枯葉の上に落ちた。胡座を組み直し、梓は娘の返答を待った。すると、娘が突然膝をついた。驚いて顔を上げれば真正面に娘の顔があった。火花のような目で、娘はしばしじっと梓を見つめた。そして少しだけ口許を持ち上げたかと思うと、信じがたい言葉を口にした。

「――決めた。あたし、力を貸してもいいよ」

 耳を疑った。目を白黒させる梓に向かって、娘はもう一度繰り返した。

「聞こえなかったのかい? あたし、あんたに力を貸してもいい」

「……正気か?」

 やっとのことで絞り出した言葉を、娘はあっさりと肯定した。

「うん。あんたがあたしをモノみたいに攫ったのは腹が立つし、自分だけのために他のやつを踏みつぶそうとしたのは間違ってるさ。けど、あんたはあんたで困ってるようだし、反省もしてるみたいじゃないか。だから、ちょっぴりだけなら協力してやってもいいよ」

「おい……」

 なんだ、なんなんだ、この娘は。肝が据わりすぎているのか、どこかおかしいのか、それとも麓者というのはみんなこうなのか。急すぎる展開に混乱する梓をよそに、娘は平然と条件まで提示してきた。

「その代わり、用が済んだら、あたしを里に帰しとくれ。それから、その前にあたしを食ったり、おかしなものに変えたり、殺したりしないでおくれ。死ぬのは御免だからね」

「……あたしらは、ものは食わん」

 いや、本題はそこではないのだ。ふう、と深く息をついて、梓は片手を額に当てた。そしてしばらく思案をめぐらせてから、おもむろに答えた。

「――分かった、うまく卯木のじじいがごまかせてほとぼりが醒めたら、お前を麓に返してやる。その間、お前に何ひとつ手は出さん」

 そこまで言ったところで、少しぐらい牽制する必要も感じて、怖い顔で付け加えた。

「ただし、ここにいる間、やかましくすることは許さんぜ。意味もなくぎゃあぎゃあ騒ぐようなら即座に山に放り出す。あたしは元々、一人で過ごすのが一番好きなんだ」

「あたしが莫迦に見えるのかい? あたしゃ口数は多いかもしれないけど、無駄なことは一切喋ってないつもりだよ」

 ……つくづく、小揺るぎもしない娘だ。調子が狂う。胡座のまま娘にくるりと背を向けた。そこに娘の声がぽんと飛んできた。

「しかし、女の天狗なんていたんだね。天狗は男だけなのかと思ってたよ」

 梓は顔をしかめて答えた。

「フン。数は多かろうが少なかろうが、お天道さまの照らすところ、どこにだって女はいるぜ。覚えておきな、小娘」

「そっか……分かった」

 素直な返事だった。梓はもう一度フン、と鼻を鳴らして、今度こそ黙り込んだ。

 

 ※


「ああは言ったものの、だよ」

 翌日。大樹の洞の中で、寝転んで頬杖をついた娘が言った。

「どうやってあんたの方の年寄り連中を説得するか、算段があるのかい?」

 白い衣を脱いで梓の換えの着物に着替えた娘は、既に奇妙なほどにこの洞に馴染んでいる。それを横目で見やりながら、梓は顔をしかめた。

「……あまり、考えてなかった」

 だが娘の指摘はもっともだ。

「確かに――実際に縁組みをしてねえとなれば、卯木のじじいにはすぐ分かるだろう」

「分かるって?」

「言ったろうが、霊力の脈をつくると。それの有無はある程度感じられるものだし、何より身体に印が刻まれる。そこをどうやってごまかすかが問題だ」

 思わず表情が渋くなる。娘もつられたように身体を起こして座り、眉根を寄せた。

「何か、それらしいことしてごまかせないのかい?」

「縁組みは男と女の間でするもんだ。あんたとあたしにできるとは思えん」

 娘はしばらく考え込んだ。そして、ぽつりと思いついたように呟いた。

「ね、仮にだけどさ。あんたとあたしが縁組みしたら、あたしに不都合があるのかな」

 梓は顎に手を当てて眉根を寄せた。

「特に……ねえだろうな。あんたには大した霊力の器があるようには感じられん。昨日言ったとおり、器のねえところに、あたしの霊力は流れねえ。それに、どうやらあんたらの縁組みとあたしらの縁組みは全く違うもんらしい。あたしと一度縁組みしたところで、あんたが今後他の麓者と縁を結ぶには何の妨げにもならんだろう。いずれ別の山の主に惚れる予定があるんなら話は別だがな」

「そんなもん、あるわけないだろ」

 呆れたように言ってから、娘はしばし沈黙した。そしてまた、やおら口を開いた。

「……じゃあさ、いっそ試してみたっていいんじゃないかい?」

「何をだ」

「縁組みを、だよ。天狗のじいさんたちの言うことは大概眉唾だってあんたも言ってたじゃないか。誰も試したことがないだけで、案外女と女でもできるかもしれないよ?」

 やはり突拍子もない小娘だ――、と思った梓を、誰が責められよう。

「本気か?」

「力を貸すって言った手前でふざけるもんか。そもそもあんたとあたしの縁組みは全然違うんだもの、なんだかやったらできそうな気がするんだよね」

 この娘、何事もやるとなったらとことんまでやるたちなのだろうか。自分とはまったく違う部類のこの大胆さに、梓は昨日から少なからず戸惑い続けている。

「……あんたは、それでいいのか?」

 そう問うと、娘はきょとんとする。梓は自分の頭をわしわしと掻いて溜息をついた。

「確かにあんたがこれから先、麓者として生きていくには、なんの影響もねえはずだ。だがあんたの身体には印が残る。痛えわけじゃ全くねえが、見た目には痣みてえに刻まれて消えなくなるはずだ。それでもいいのか、と訊いてるんだぜ」

「そんなの――額の真ん中にできるってんでもないんだろ? 誰が見るんだい」

 まあそれもそうか。いや、本当にそれでいいのか、こいつは。それとも単に、この麓者の娘は縁組みという儀式を梓ほどには重く感じていないというだけの話なのだろうか。いずれにせよ娘は完全に意を決めたようで、渋い顔で黙り込む梓をさらに押してきた。

「一か八かで試してみようよ。どうすればいいんだい。難しいのかい?」

「いや……双方がその気なら、簡単なはずだ。片方が嫌がってるとややこしくなるが」

 詳細を伝えた。娘は頬を僅かに赤くしたが、やがて小さく頷いた。――本当にやってもいいと思っているようだ。ならばこちらもまた、覚悟を決めねばなるまい。

 ひとつ息をついてから、梓は娘の前に腰を下ろし、自分の着物の衿を開いた。露わになった梓の胸をみとめた娘が目をしばたたいた。

「わあ、でっかい」

「……うるせえぞ。同じようにしろ」

 そう命じれば娘は、ややためらいがちにではあるものの、素直に着物の胸をはだけた。その左の胸――心の臓の上に梓は右手を置いて、娘にもまた同様に促した。おとなしく従った娘が眉をひそめて問うてきた。

「これで、次はどうするんだい?」

「繋げ、と念じろ。それだけだ」

「それだけ、って」

 無視して、掌に全ての意識を集中する。すれば、自らの中の何かが掌を通って螺旋のように流れ出ていくのを感じた。そのまま刻め、繋げ、と念じる。瞬間、同じような何かが返ってくるのを感じた、ように思った。

 ふいにその流れが途切れた。娘の胸に当てた右手をずらすと、掌大の梅花のような印が、くっきりと赤く刻み込まれているのが見えた。自分の胸元に視線を落とせば、同じものが同じ濃さで、同じ箇所に刻み込まれていた。

「……できたのかい?」

「そのようだ」

 娘はしばらく自分の胸の印を見つめてから、腑に落ちない表情で衿を元に戻した。

「何か、流れている感じがするか。内にでも外にでも」

 梓が問うと、娘はかぶりを振った。

「ううん……なんにも感じない」

「そうか。そりゃあそうだろうな」

 これはいわば、水のない川底に土砂を積み上げて新しい水路を作ったようなものだ。作った水路はなくならないが、それだけがあったところで、源に水がなければ流れるものも流れない。案の定、梓の方も、こうして縁を結んだからといって、特に変わった様子は感じなかった。この娘の『存在』をより鋭敏に感じるようになったような気はしないでもないが、それはとりたてて不快でもなかったし、かといって別に快くもなかった。

「ほんとに痣ができただけなんだね。これなら確かに、何に響くこともなさそうだよ」

 娘のその言葉を聞いて、なぜあろう、梓は密かに安堵を覚えた。

この僅か二日後、梓が面会を願う使いの鳥を飛ばすのと入れ替わるように、卯木の翁からの呼び出しが来た。


 ※


 今日の卯木の翁の顔の赤いことといったら、毒もちの瓢箪木ひょうたんぼくの実のようだった。

梓山媛あずさやまひめ!!」

 いつにも増して音量のでかい、耳が本格的に莫迦になりそうな怒声を浴びせられる。広げた翼の付け根がびりびりと痺れた。梓は顔をしかめて卯木の翁を睨み返した。

「どういうことじゃ! 説明せい!」

「……言ったとおりだ。あたしはこいつと縁を結んだ。大楠おおくすのと結ぶことはもうできん」

 さっきも言ったことをそのまま繰り返す。すればまたも凄まじい大声が返ってきた。

「誰がにそのようなことをしろと言うた!!」

 翁の声の勢いのあまり、ごうと風が起こる。押し流されそうになったが翼を閉じて踏みとどまり、答えを返した。

「誰も言っていない。だが誰もするなとは言っていない。だから、あたしが決めた」

「生意気を! 大方、縁組みを避けたい一心で、好いてもおらん適当な麓者を拾ってきたのだろうが! 女を拾ってきたあたりにもういい加減さが見え透いておるわッ!」

 卯木の翁は怒髪天、今さっき突風を起こしたのにも気づいていないようだが、それでいてことの真実には辿り着いているのが憎らしい。どうすればうまくごまかせるかと梓は思案した。そのとき、宙に浮く梓の腕に抱えられていた娘が、突然に声を上げた。

「そんな、違います、卯木さま!」

「……おい」

 驚いて腕の中の娘を見下ろした。娘は唇の前で小指を立ててしッ、と梓を制し、それから卯木の翁に向き直った。

「惚れた腫れただとか、人前で言えなんてこのひとにお命じなさるのは殺生です! このひと、すっごく照れ屋なんですう!」

「なッ!?」

 驚愕して、娘の後ろ頭と、同じく唖然としているらしい卯木の翁の顔を見比べた。だが娘は気に留める様子もなく、凄まじい勢いでまくし立て始めた。

「偉くて優しい総領さまだってこのひとがいうから、あたしも一緒に会いに伺うことにしたんですよお。でもおかしいなあ、祝ってくださらないの? まさか、引き離そうとおっしゃるの? あたし、十五になるまで、ずっとこのひとと添えるのを待ってたのにっ!」

「お、おい、何言って」

「もうっ、あんたは照れ屋さんだから、あたしが代わりに言ってあげるわ。あんたはあたしが好きでしょ? あたしも、素敵なお山を守ってる働き者のあんたが好、きッ!」

「……っ!」

 生まれてこの方一度も言われたことのない言葉を投げかけられたあげくにきらきらとした目で見上げられ、口から出任せだとは分かっていても顔が熱くなった。そんな梓をよそに、娘は今度は卯木の翁に向かって畳みかけた。

「卯木さま、このひと本当にいいひとなんです! お山を守るために一所懸命働きながら、あたしが大人になるのをちゃあんと待っててくれたんだもの。ちょっと照れ屋さんで、卯木さまにもあたしにも素直になれないだけで! そんないいひとから、お山を取り上げるなんておっしゃらないですよね? まさか、ねっ、卯木さま!」

 翁の表情には混乱が露わだった。いつもの顔の赤さが少し失せてすら見える。娘は恐ろしいほどに回っていた口をぴたりと閉じて、じっと翁を見つめている。翁が腕を組んだまま顔を伏せた。その肩がぶるぶると震えていた。やがて唸るような声が聞こえた。

「うぬら……そうまで言うのならば、一年ともに山で暮らしてみろ。できるものならやってみるがいい――そうしたら認めてやる!」

「認める――って、あんたはあたしの何なんだ!」

「うぬらの縁組みを取り消すことはできんかもしれんが、うぬから山を取り上げる権は未だ持っておるぞ! 梓山を花盛りにして、この麓者も死なさず春まで生かしてみせろ。そうすればうぬの望みを呑んでやらんこともないぞ、梓媛あずさひめ!」

 またも予想外の方向に話が転がった。山をまた一年守るぐらい容易なことだが、これ以上この娘を巻き込むのか。そもそも、用が済んだらすぐ麓に返す約束だったのだ。焦って見下ろせば、娘と目が合った。娘は一瞬ふっと目元を和ませ、それから囁いた。

「……いいよ」

 その言葉の意味を、梓は掴みかねた。ところが梓に考える暇も与えず、娘は一段と高い声を上げ、卯木の翁に向かって手を振った。

「分かりました、卯木さまぁ! あたしたち、仲良く一緒に次の春を迎えてみせまーす! 見守ってくださいませねー!」

 そして極めつけに、梓の首筋にかじりついてきた。

「きゃーっ嬉しい、あんたーッ! 卯木さまもっ、ありがとーッ!」

「……ッ、よ、よせ!」

「やーだ、また照れてるのねー! あんたったらやっぱりかわいいー!」

 焦って娘から身をよじりつつ卯木の翁を見やると、翁の顔は再び毒の実のように赤くなっていた。目が合った瞬間、今日一番の大声で吼えられた。

「さっさと帰れ、この莫迦どもが!!」

 またも突風が起きて、梓はとっさに翼で自分と麓者の娘をかばった。風が過ぎ去ってから翼を開くと、翁の姿は消えていた。

「……っと、ひとまずなんとかなったみたいだね? 今すぐ山を取り上げられるってことはなさそうじゃないか」

 けろりとした表情で、腕の中の娘が見上げてきた。梓はすっかり困惑して、何事もなかったかのように平然としている顔を見下ろした。

「あんた……いいのか」

「乗りかかった船、って海の方じゃ言うらしいね。あたしが自分で力を貸すって言ったんだ、肝心のひとの前に来たところであんたを放り出すわけにもいかないじゃないか」

 言って、娘はニッと笑った。

「それに、約束は守ってくれるんだろ? 最後にはちゃんとあたしを里に帰すってさ」

 それに対しては素直に頷いた。すれば娘もまた笑って頷き返した。

「なら、いいよ」

 はあ、と梓は大きく息をついた。この麓者の娘と出会ってから僅か数日だが、驚くことが多すぎる。今まで麓者どころか仲間との接触も最小限にとどめてきた梓には、こういう類いの大胆さと情を備えた者は世に多いのか、それともこの娘が例外的なのか、判断がつきかねた。いずれにせよ、驚かされるという気持ちに変わりはなかった。

「ったく……あんたにはたまげるぜ、小娘」

 そう言うと、娘は得意そうに目を細めた。

「もっと褒めたっていいんだよ。ところで、一応里じゃ大人なんだ。小娘じゃなくて、はつって呼んどくれ」

「……はつ」

 聞き慣れない響きの名を繰り返す。娘はまじめくさった顔で頷いた。

「そう。初子だったからね。安易な名だろ。かわいい一人目の娘なんだから、もうちょい名づけに凝ってくれたってよかったと思うのにさあ」

 ああだこうだと並べ立てる。それを聞いているうち、なぜだか梓の口許はゆるんだ。

「似合いの名だと思うがな」

「なんだい、それ? あたしぐらいには地味な名が相応だってのかい?」

 眉の間に皺を寄せて、不満げな表情で娘――はつが見上げてくる。翼を広げ直して飛び立ちながら、梓は答えた。

「あんたは山犬の仔みたいなやつだ。けばけばしい名は似合わん」

「え? ちょっと、ねえ、どういう意味だい」

 向かい風にはためく袖を押さえながら、驚いたらしいはつが問いただしてくる。妙なところでの余裕のなさがおかしくなって、梓は笑みを返した。

「いい名だ、つってんだ。素直に聞いとけ」

 翁の前での口八丁ぶりへの賞賛はともかく、名を褒められることを彼女は一切期待していなかったらしい。頬をうっすら赤らめてはつは顔を伏せた。尖らせた唇が、そうかい、と動くのが見えた。はつ、ともう一度口の中で繰り返してから、梓は面を上げ、遠くに浮かぶ己が山の稜線を目でなぞった。

「あたしは――梓だ。梓山の主、梓」

 はつが顔を上げて微笑む気配がした。

「……梓。いい名じゃないか」

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