僕、明日へ向かう、

望月夕炉

第1話

 気持ち悪いほど無機質に澄んだ快晴の夏空の下、アスファルトの上で蟲の死骸が灼かれていくさまを想像する。その焦げた匂いが窓から流入してくる気がした。


「お前宿題やった?見せてくんない?」

「別にいいけど」

「どうもどうも。お前と友達でよかったよ」


 こんなやりとりはもう体感で無限回した。”学校”などという、主義・思想を異にする人間らを無理やり押し込めた小さな匣に通うたびにうんざりするほどしてきたコミュニケーション。学生の本分は学業とはよく言うが、可もなく不可もない成績を無難に維持し続け、「生活」という波形に可能な限り振幅を与えないようにする。この会話も、n+1回目として繰り返された、ただの空気を媒介した音の伝達に過ぎない。

 

「翔太君ってさ、土日なにしてるの?」

「いや、特になんもしてない」

「えー、じゃあどっか遊びに行こうよー」

「今週は遠慮しとく」


 これも果てしなくしてきたと思われる不毛な意思疎通のバリエーションの一つだ。「今週は」という枕詞をつけることにより、来週はもしかしたら行くのかもしれないという淡い期待を抱かせる。冷たい人間という集合に僕をカテゴライズされないように調整する。こうやって、僕、伊吹翔太は生活をやり過ごしてきた。少なくとも女子から誘われる人間を演じられているという意味で、もしかすると一部からは羨望の眼差しを向けられる対象なのかもしれない。だがそれが何だというのか。いつの間にか青空の中に湧いて出てきた微量のすじ雲に目をやりながら考える。



 僕のここ最近の興味は、会話対象となる相手には露聊もなく、もっぱら「天使」にしかない。

 「天使」とは、半年前、富士山の裾野で見つかった、生命体めいた人間ではない何かである。およそ「人間であるための条件」の常識の外にあるこの「何か」は全国的、いや世界的に瞬く間に話題になった。まず、「天使」発見の経緯を説明しておこう。

 「天使」を発見したのは、群馬県在住、伊藤和夫さん(59)だった。和夫さんが妻である圭子さん(56)と一緒に静岡県と山梨県のちょうど県境あたりにある須走ルートから富士山へ登ろうとしていたところ、地面から2メートルほど突き出す紡錘形の片割れのような何かが目に入った。それは生命が纏うことを許容されていないような暗紅色をしていて、木々の緑、地面の茶色とは一線を画すほど際立つコントラストだったという。その何かは心臓の拍動のごとく波打っていることが遠目からも嫌というほどわかり、定期的にランダムな場所から濃い翠色の瘴気とも言うべき気体を随意的に放出させていた。なによりも鼻腔を劈くほどの異臭が周囲に立ち籠めていたのがその不気味さに拍車をかけていた、と圭子さんは言う。

 好奇心というさがによってその何かに近づいてしまった和夫さんは、突如として眼前に現れたあなから噴出した得体の知れない気体を幸か不幸か顔面に浴びてしまう。幸か不幸かと評した理由は後述する。その瞬間、和夫さんは膝から崩れ落ちて倒れ、魂を抜かれたように動かなくなった。圭子さんは狼狽しながらも一心不乱に助けを求め、気づいた時には病院に運ばれていた。のちに和夫さんの遺体を確認した圭子さんは、某TV局の取材に対してこう語っている。

「夫は、今まで一度も見たことのない、恍惚とした表情で死んでいました」

 この出来事が報道されて以降、SNSなどで急速にこの事実が拡散された。とある界隈では「これは死に対する神からの新たな啓示だ」、「神が我々のもとにその御使いを顕現させられた」などという荒唐無稽な言説が罷り通り始めた。これをきっかけにして、「御使い」をより具体偶像化した「天使」が、発見された「何か」の呼称として一般的に使用されるようになった。



「翔太君さ、今度どっか行こうよ」

 

 ああ、またこれか、と思った。漫然と続いていく毎日。日常。ところが、次に発せられた言葉を聞いて僕は考えを変えた。


「天使、見に行かない?」



 「天使」発見以降、その全容の解明が政府主導で急速に始まった。政府が「天使」の周辺を封鎖する前は、新興宗教団体や自殺志願者の間で安楽死の道具として積極的に利用された時期があった。死にたい人間たちが「天使」の周辺で満悦顔とともに倒れている現実は、この社会の終わりを暗示させた。この状況がこれからも続くことを危険視した政府は、速やかに「天使」を中心として半径10キロメートルを管轄下に置き、国有財産とする異例の措置でこれを防ぐとともに、「天使」をめぐる大規模な施策を開始した。



「天使?」


 僕は興味がないことを装って返事をする。


「そうそう、やっぱあれ気になるよね」


 どうやら僕が「天使」という存在に惹かれていることはすぐに露呈したようだ。僕という人間が「興味を持つ」ということは、心臓が止まった人のバイタルサインの中にピークとなるQRS波を見出すようなものなのだろう。そんな変化であれば、興味がないふりをしても隠し通すことはできない。死んだ人間が生き返るようなものなのだから。


「行きたい」


 そう言って僕は教室を後にした。



 結論から言えば、初めて見つかった紡錘形の「何か」は「天使」の一部であり、足趾であった。その指を起点にゆっくりと慎重に発掘が続けられた。「慎重に」というのは、先述した「天使」の皮膚表面から断続的に奔出されるガスが、人類の開発した道具では完全に防ぎきれないことが理由だった。このことから、政府はやむを得ず規格外の額で作業者を雇う以外の選択肢がなかった。保護具として最高レベルの気密性防護服であっても、この気体はどこからか保護服の境界を超えて侵入してきて、人体に影響を与える。ただし、致死量というものはあるようで、大量に肺に吸い込みさえしなければ健康被害はもたらさないというのが、半年足らずでおぼろげに構築された定説ではあった。とはいえ、地球上で今までに発見されているどんな元素にも当てはまらない有害物質であることもわかっており、作業中、不意に死者が出るということが少なからずあった。そしてその死者はいつも笑っていた。



「天使って結局何だと思う?」

 

 「天使」へ向かう道中、クラスメイトの女子が言う。何だその質問は。それがわからないからみんな苦労しているんだろう。そんな禅問答になりうる問いを投げかけてなんの意味があるのか。


「んーなんだろう。わかんないな」

「でも翔太君が何かに興味を持つのって珍しいよね」


 

 僕の関心は「天使」そのものにあるのではない。そして「天使」が生み出す致死性のガスにあるのでもない。訳の分からないものが発見されたからといって僕の生活に影響を及ぼすことはないし、この世界のことわりが書き変わるわけでもない。僕もこんなことで舞い上がって我を忘れるほど子供ではない。波風立てずにこれからも生活を続けていくだけである。

 政府の天使発掘プロジェクトが始まって約5ヶ月が経ち、「天使」の8割が地中から姿を現した。「天使」は、頭、胴体、四肢と呼べるものを持ち、宇宙を見上げるように仰向けで横たわっていると発表された。広い意味では人間と同じ造形をしているものの、その巨軀は1000メートルを超えており、異様に長くて細い腕と脚が、人間ならざる何かと皆に言わしめるものだった。皮肉にも「天使」という呼称は的を射ていたのかも知れない。

 「天使」の左腕に三日月型の痣があると政府が報告したのは、それから3日後のことだった。



 僕は富士山の五合目あたりから「天使」の全体を俯瞰していた。政府は「天使」の周辺を完全に観光地化していたため、僕たちのような一般人も「天使」を間近で見ることができるようになっていた。富士山の澄んだ空気の中に臥しているどこか禍々しさを孕んだ巨神。その光景は、僕の脳を少し混乱させた。


「これが天使かぁ、でっかいねー」

「そうだね」


 腕時計の下に隠した細長い痣をそっと指で撫でながら、できるだけ感情を込めずに相槌を打つ。

 「天使」と僕との共通点。同じ三日月型の痣が僕にもあったのだ。それが判明してから急激に僕は「天使」に魅了されていった。「天使」のことを考えない日はなかった。”地中に隠されていた異形の者”と”つまらない時間ときの流れを生きる僕”を接続するなにかがあるかも知れないと思うだけでゾクゾクした。天使について知りたくて、聖書なども読み漁った。これは今まで感じたことのないおもいだった。このままn+1のnを無限に近づけていくだけの生活を送るはずだった僕のもとに、「天使」が文字通り舞い降りたのである。

 しかし、この共通項は何を意味するのだろうか。「天使」と「僕」は運命を共にしているとでもいうのか。もしかしたら「天使」は———。


「ちょ、なに…あれ?」


 という声に「天使」の方を見やると、ちょうど「天使」の心臓があるあたりの500mほど上空に、凄まじい輝度の真白な光球が浮かんでいた。見たと言えるだけの時間なのかもわからないが、1秒ほど視界に入れただけで虹彩上に小さな白円が焼き付けられた。直視できないほどのその光球が徐々に輝度を下げるにつれて形を変え、槍のような姿に変貌していくのがかろうじてわかった。


「えっ?なになに?」


 「危険ですので、すぐに避難を」という政府関係者の声が響いたのとほぼ同時くらいだった。槍と化した光球が、急速に「天使」の心臓に向かって降下していくのが見えた。ああ、これは「天使」が死を迎えるときなのだと直感でわかった。そして、「天使」と繋がっている僕という人間の終わりも表しているのかもしれない、と。

 「天使」の断末魔だろうか。全身を震わすほどの音塊が耳朶を貫く。そう思って僕は目を閉じた。瞼の裏に光芒の残滓を感じながら、逃げていく群衆の中でひとり、短い人生の終焉に相対する準備をしていた。



 心地よいとさえ感じるほどの曇天の秋空の下、アスファルトに少量ずつ染み込んでいく雨粒。そこから立ち籠める有機的で湿った匂いが窓から流入してくる。


「お前宿題やった?見せてくんない?」

「別にいいけど」

「どうもどうも。いつも悪いね!」


 というn+2回目の会話を今日も繰り返した。


 「天使」はもうこの世界に存在しない。




 

 


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