第五話 響野憲造①
加害児童宅に聞き込みに行くか、それとも響野という名の菅原レーダーに引っかかった記者に会いに行くか。考える必要もないぐらい結論はすぐに出た。響野だ。響野憲造が先だ。
翌日午前中の講義を終え、昼休みに週刊ファイヤー編集部──今は
ともあれその、鵬額社の文芸編集部に電話をかける。昼休みに迷惑かなとは思ったのだが、コール3回で女性が受話器を上げてくれた。「お電話ありがとうございます、鵬額社文芸編集部でございます」低い優しい声に、一瞬言わなければならないことを見失う。ええっと。僕は。名前を名乗り、「響野憲造さんという方はいらっしゃいますか」と尋ねる。数秒の沈黙。「響野は……」と女性の声が明らかに焦りの色を帯びる。なんだろう。まずいのか。もしかして……もう死んでしまったとか?
『その……何か……弊社の響野が……』
と、電話口の女性はおろおろと続けた。
『ご迷惑を……あの……』
ああ、そういうことか。
響野憲造。顔を合わせたことも声を聞いたこともない、昨晩記名記事を読んだだけの間柄だけど、なんとなく分かった。
彼も厄介な人間なのだ。
クレームではない、何も迷惑はかけられていない、彼の記事を読んで伝えたいことがあるので連絡を入れた、という内容を十回ぐらい繰り返したところで、女性は納得してくれたようだ。その上で、
『大変申し訳ございません。響野は今席を外しておりまして』
雑誌記者だし、そういうこともあるよね。
『もしよろければ響野から折り返しを……あっでも……』
あっでも、って言われちゃうレベルなのか。なかなかだな。
別にスマートフォンの電話番号を伝えるのに抵抗はない。問題が起きたら機種変更をして番号も変えて、かかった金額を光臣に請求するだけだ。十一桁の番号を女性に告げて、いつでも良いので折り返しをください、と伝えて通話を終えた。
昼食を食べ終えたところで、見知らぬ11桁の番号から着信があった。書道同好会の友人たちには「仕事の連絡かも」と断った上で席を立ち、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、響野といいます。錆柄光臣さんの甥の方ですか?』
思っていた以上に明るい声だった。それに、話が早い。僕のことを『錆柄光臣の甥を名乗る不審者』だとは考えていない声音だ。「そうです」と応じてから名を名乗る。電話口の男性──響野憲造は「ご用件は、例の件ですよね?」などと楽しげに尋ねる。そうだ。例の件。いじめ加害児童が悪魔を見たと騒いでいるという例の、件。
『もし良かったら、どこかでお会いできませんか。情報交換しましょうよ』
本当に、異常に話が早いなと思った。記者というのは皆こうなのだろうか。相手の素性が分からなくとも一旦顔を合わせて情報交換を試みる。これぐらいのフットワークの軽さがなければ成り立たない商売なのだとしたら、僕は雑誌記者には向いていない。
念の為、同行者がいても良いかどうかを確認した。響野は「何人いてもいいですよ!」と笑い、待ち合わせ場所の住所を口頭で告げて通話を終えた。時間は本日夕刻。場所は、新宿。
菅原に連絡をし、夕刻、新宿の某喫茶店で昨晩発見した記事を書いた記者に会うという旨を伝える。
『私も参ります』
「助かる。僕は電車で行くから」
『バイクで参ります。坊ちゃんの分のヘルメットも』
「助かる。よろしく」
菅原は、僕と仕事をするようになってすぐ自動車免許を取得した。直後に大型二輪免許も。僕も菅原も自動車を所持していないから、主に活躍するのは大型二輪免許の方だった。
部室に少し顔を出して、先日の飲み会に参加できなかった件について詫び、これからまた仕事が重なるからあまり部室には足を運べなくなるかもしれないと部長の
「仕事って……例の、伯父さんの、だよね?」
爽谷
「大丈夫なの? その……」
「はい。いやほんとに、荷物持ち程度なんですけど。何せ伯父と血が繋がってる人間で、こういう仕事を引き受ける人がいないものだから……」
先輩が何を心配しているのかは分かるのに、僕にはうまく言い訳ができない。光臣は偽物だって、暴露できたらどれほど良いだろう。本当に仕事をしているのは僕と──菅原なんだって。世の中に知らしめることができたら。
(──いや)
物騒なことを考えるのはやめよう。そんなことをしても何の意味もない。光臣に対する世間の信頼がなくなったりペテン師呼ばわりされたりするのは全然構わないけれど、今光臣が引き受けている厄介な案件が全部まとめて僕らのところに流れてくるようになったら最悪だ。光臣が偉そうにふんぞり返っているお陰で、幾らか救われている面もあるのだ──大変不本意な話ではあるが。
大学の正門まで走り、最寄り駅までの直通バスに飛び乗る。運転手のおじさんと、僕と、それに女子生徒が何人か乗っているだけで車内はガランとしていた。デニムの尻ポケットに突っ込んだままのスマートフォンが震える。菅原からだ。「いまから向かいます」という連絡に「了解」とだけ返す。雑誌記者。響野憲造。いったいどういう男なのだろう。
電車に乗って、帰宅時とは違う方向へ。新宿に出るのに30分かかった。記者・響野憲造が指定した喫茶店は、歌舞伎町のど真ん中にあった。それも雑居ビルの地下一階。一階にはいわゆる『案内所』、二階は雀荘、三階は──
「坊ちゃん、あまり凝視してはいけません」
背中から声がかかった。目隠しもされる。菅原だ。
「そんなに見てない」
「いいえ。いけませんよ、おっパブなんて」
「おっパブってそんなにハキハキ発音するの、歌舞伎町中探してもおまえしかいないと思うよ菅原」
ものすごくどうでもいい会話をしながら、地下に向かう階段を降りる。菅原が先導した。地上に置いてある鉄製の看板には『純喫茶カズイ』と書かれていた。純喫茶。この、やたらとごちゃごちゃした新宿歌舞伎町で、果たしてその生業は成立するのか?
「お邪魔します!」
「失礼します、待ち合わせで〜す……」
菅原は今から合戦に出る武士のような声を上げる。その背後で待ち合わせを強調する僕を、カウンターの中で洗い物をする白髪の老人──おそらくこの店のあるじだろう──がじっと見ていた。
「いらっしゃい。憲造! 待ち合わせの相手が来たぞ!」
「はあ〜い……」
僕たちはカウンターではなく、店内にふたつしかないテーブル席の片方に陣取った。菅原の脚がものすごく余っている。1メートルぐらいあるからだ。いや本当に。憲造、と呼ばれた人間が、店の奥から姿を現した。トイレにでも入っていたのだろうかと菅原の肩越しに店の奥を見たが、トイレとは別に扉があるようだということしか分からなかった。
菅原ほどではないけれど、背の高い、若い男が立っていた。今まで眠っていたのだろう。髪の毛には寝癖が付き、頬には畳の跡がくっきりと。灰色のTシャツに黒いジャージ姿の男が、右手に眼鏡、左手にノートパソコンを掴んでこちらに近付いてくる。一瞬、菅原が殺気立つのが分かる。いつもこうだ。相手に敵意があるとかないとか関係なく、こういう風に雑に距離を縮めてくる人間を菅原は警戒する。
「どうもどうも。週刊ファイヤー編集部の響野憲造です」
丸テーブルの上にノートパソコンを置き、別のテーブル席から椅子を引っ張ってきながら男は名乗った。
「錆殻光臣さんの甥っ子さんにお会いできるなんてびっくりだなぁ」
「それは……」
「ああ、いいんですよ、事情はだいたい想像できます。俺もね、実は出禁食らってるんで」
「はい?」
菅原の殺気が霧散する。僕も完全に虚をつかれていた。
響野憲造、何者なんだ?
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