第四幕
目が覚める。
カーテン隙間からは陽の光が見える。いつでも目覚めて対応できるよう浅く眠るつもりだったが、すっかり熟睡していたようだ。
私の身体には毛布がかかっていた。西園寺邸は全部屋暖房が効いているから仮眠の際に布団を使わなかったので、毛布は私が寝てからかけられたのだろう。
ゆっくりと身体を起こす。
「アリス」
一晩、ひたすら監視を続けていてくれた助手は、彼岸花模様の和服を着たまま私の枕元でクッションの上に座り、足を伸ばして座っていた。
「おはようございマス、ソウジさん」
「ああ、おはよう。この毛布、お前がかけてくれたのか?」
「ハイ。オフトンは快適な睡眠に必須だと聞いていマス。ワタシは寝ることができないので、その気持ちはわかりマセンケド、快適な睡眠を得ることはできマシタカ?」
「ゆっくり眠れたよ。ありがとう」
本当は熟睡したくなかったので快適な睡眠を避けたかったのだが、彼女の好意に対して苦言を呈する事はできない。それが人形故の苦悩混じりならば尚更である。
それに、昨日は車の運転でそれなりに疲れていたのだから、熟睡して疲れが取れたのはありがたかった。
「昨日から気になっていたんだが、そのクッションはなんなんだ?」
「これはワイヤレス充電器デス。この上に座ることでワタシのバッテリーを充電できマス」
「充電の仕方が無駄にオシャレだなあ」
てっきり首の後ろの接続端子に充電コードを差し込むのかと思ってた。
「それはさておき、一晩中監視していましたケド、カンナちゃんの部屋に異常はありマセンデシタ」
「わかった。ご苦労だったな。俺は念の為に閑奈ちゃんの部屋に言って無事を確かめてるから、アリスはゆっくり休んでいてくれ」
「それでは、お言葉に甘えマス。疲れる事はありマセンガ、連続稼働は機械の寿命を縮めマスカラ」
そう言ってアリスは左目を閉じる。
「スリープモードに入りマス。30分経つか、大きな音や振動で解除されマス」
カクン。と頭を下げ、ピクリとも動かなくなった。それこそ、まるで人形のように。
「ありがとう、アリス」
私は再び彼女を労うと、部屋を出る。
雪はやんでいたが、その積雪は想像以上だった。腰まで雪に埋もれたバーリィさんが、キャシーさんと一緒に家の周りを雪掻きしている。
私が閑奈の部屋をノックすると、中から「はい」と声が聞こえた。
「おはよう閑奈ちゃん。朝の挨拶に来たんだけど、どうかな」
どうかなというか、おっさんが朝早くから少女の部屋を訪ねる事がどうかしている気がしてきた。
扉が開かれ、閑奈が顔を出す。すでに部屋着に着替えており、胸には相変わらずフランス人形を抱きしめている。
「おはよう、七崎さん。アリスお姉ちゃんは?」
「あいつはちょっと疲れててまだ寝ているんだ」
スリープモードだし。
尤も、私達人間の睡眠と違い、疲れが取れたり夢を見たりする事はないのだろう。
彼女からすれば、映画の場面が突然切り替わったかのように目覚めるのかもしれない。
「そっか……」
そう言って残念そうに人形を抱きしめる。
「昨日は何か変わった事はなかったか?」
「変わったこと……?」
可愛らしく首を傾げる少女に、なんと説明したものかと悩む。
「例えば誰かが尋ねてきたりとか、変な物音がしたりとか」
「ううん。何もなかったよ」
「そうか。それは何よりだ」
今日の午前中が法事で、それが終わればみんな帰宅するはずである。なので、何か仕掛けてくるならば昨晩かと思ったが、どうやら何事もなかったらしい。
弁一の杞憂だったようだ。尤も、昨晩の夕食の光景を思い出せば、あながち無駄な心配と切って捨てる事もできないだろうが。
「七崎さん」
「ん?」
閑奈が上目遣いでこちらを見てくる。
「七崎さんとアリスお姉ちゃんは、お父さんの法事が終わったら帰っちゃうの?」
「それは……」
寂しそうな顔を浮かべる少女に対し、私は言葉に詰まる。西園寺家のみんなが帰れば私の仕事は終わりである。ここに残る理由はない。
しかし、人里離れた屋敷で一人過ごす少女と、もう少し一緒にいてもいいのではないかと思わなくもない。
そもそも私は自由業のようなものなのだ。どうせ事務所に戻ったところでさほど仕事の依頼は来ないので、極端な話、ここで一ヶ月くらいのんびりしても構わない。
だが……それがこの子の為になるのはかわからない。
私が閑奈の教育的模範になるわけでもないし、アリスはキャシーさん達と同じ機巧人形。
我々がここに残ったところで、閑奈の成長を促せない。
両親を亡くした少女にとって酷な言い方だが、寂しいのならば、彼女が自分の意思で屋敷をでなければいけないのだ。
「ごめん。大事な仕事があるから帰らないといけないんだ」
「フリーターなのに?」
「明日はっ! 大事なっ! 音楽のオーディションがあるんだっ!」
小学生相手についムキになってしまった。帰ったところで切迫した仕事が無いという点で同じなので、図星を突かれたからである。
声を荒げてしまったので彼女を怯えさせてしまったかもしれないと思いきや、意外にも閑奈はクスクスと笑っている。
「七崎さん、アリスお姉ちゃんの教えてくれた通りの人だね。テンパった時の反応が面白いって」
昨日、アリスの運転を止めさせたりうどん屋のおばちゃんに通報されかけた時の事を思い出す。確かに色々とテンパった。
「あいつ、そんな事を言ってたのか……」
「ううん。アリスお姉ちゃんは見聞きした事を全部録画してるから、パソコンに繋いで見せてくれたよ」
「映像付きで⁉︎」
私が愕然としていると、閑奈は再びクスクスと笑う。いい年こいたおっさんが小学生に笑われているわけだが、その無邪気な笑顔を見ていると、恥ずかしい気持ちが失せて照れ臭くなってくる。
「七崎さんもアリスお姉ちゃんも、この家に住んでくれたらいいのになあ」
少女の寂しげな言葉に私は気の利いた言葉を返す事ができなかった。私は相手の気持ちに沿う事が苦手なのである。
探偵は謎解き屋ではない。事件を解決してこその探偵。
事件の解決には時に相手の心を救済する必要がある。
如月探偵のようになるには、まだまだほど遠い。
「閑奈ちゃん。住むことはできないけれど、一週間くらいならここに滞在して……」
突如、廊下の電気が消えた。
「え……なに?」
閑奈の目に怯えが走り、人形を強く抱きしめる。
「停電か?」
廊下の曲がり角から、割烹着を着た青年――料理人機巧人形、ロック――が現れた。
「閑奈お嬢さん……と、高野博士のご友人の、七崎霜二さんですね」
「ああ。よろしくロックさん」
短く挨拶すると、閑奈がロックを上目遣いで見つめた。
「ロック。何があったの?」
「朝食の準備をしていたら、厨房の電気が消えて電子レンジも使えなくなったので、ブレーカーを確かめ行くところなんです」
「そう、お願いね」
閑奈に頷き、ロックさんは廊下を進み物置の中に入っていった。
しばらくして電気が点き、ロックさんが物置から戻ってきた。
「ブレーカーは上がったままでした。どうやらこの雪で倒木か何かで電線が切れたようです。今、物置の地下にある発電機を起動させてきました」
「ありがとう、ロック」
「それじゃあ、自分は朝食の準備に戻りますね」
ロックさんは一礼して去っていき、私と閑奈が残される。
停電前に滞在を伸ばそうかと言いかけていたが、機会を失ったために今更提案しづらくなった。
「それじゃあ、また後で七崎さん」
閑奈は部屋に戻っていく。
廊下に残された私は、玄関に行き昨晩設置したアリスの右目を回収する。
そして電話機に手をのばす。受話器に耳を当てるも、何の音もしない。どうやら、電線と共に電話線も切れたらしい。
スマホを見る。圏外の表示。
西園寺邸は、外部と連絡がとれなくなった。
部屋に戻ると、アリスはスリープモードのままだった。
彼女を起こさないよう私は座布団に座って本を読む。
しばらく読書に耽っていると、アリスが目を覚ました。
「オハヨウゴザイマス」
「ああ、おはよう」
先ほどのやり取りを再び交わし、何となくスマホで時間を確認する。朝の七時過ぎ。
「そういえば、ほら」
私はアリスに右目を差し出す。
「アリガトウゴザイマス」
目を受け取ると、右の瞼を開いて指を突っ込み、手探りでコードを掴み取ると、眼球に接続して眼窩に押し込んだ、
「……」
「どうしたんデスカ、じっと見つめて。ワタシに惚れマシタカ?」
「いや、もうちょいスマートなやり方は無いのかと思ってな」
ホラーチックな光景に顔を顰めていると、扉がノックされた。
アリスに目配せをする。彼女は頷くと皮の手袋と足袋を取り出した。
それらを装着して関節を隠した事を確認し、扉を開けると、そこには不安げな顔をした和真が立っていた。
「おはよう、和真君」
「オハヨウゴザイマス」
「おはようございます、お二人とも。あの、うちの父はおじゃましていませんか?」
「寅吉さんが? 来てないが、どうしたんだ?」
「それが……父に朝の挨拶をしようと思って部屋をノックしたんですが、一向に反応が無いんです」
ぞわっ。と背筋に悪寒が走る。とうとう起きてしまった。心の片隅で呟きそうになるも、目を閉じて平静を保つ。まだ何か起きたと決まったわけではない。
「まだ寝ているんじゃないのか?」
「父は毎朝6時に起床します。それは休日でも変わりません。この時間になっても部屋から返事がないのはおかしいんです」
和真の切実な言葉に、私も焦燥感が募りそうになるが、冷静になろうと努める。
「他の部屋にいるんじゃないのか? トイレとか談話室とか」
「いえ……どこにもいませんでした。他の方の部屋を訪ねても知らないと言われて、残りはこの部屋と海円さんの部屋だけなんです。もしそこにもいなかったら、もしかしたら部屋で倒れているかも……父は心臓の病を抱えているので、心配で」
「確かに、心配だな」
私は部屋を出て、隣の海円さんの部屋をノックする。
「どうかしましたかな」
作務衣を着た海円さんが扉を開けた。
「海円さん。寅吉さんは訪ねて来ていませんか?」
「いえ。拙僧の部屋には誰も訪れていません」
私は身を翻すと寅吉さんの部屋に向かった。遅れて和真とアリスと海円さんがついてくる。寅吉さんの部屋の前には不安げな顔をした美月が立っていた。
「七崎さん、アリスちゃん」
挨拶をする余裕もなく、私は部屋のドアノブを回す。鍵がかかっていてびくともしない。
「和真君」
廊下の向こうから亥久雄さんがやってきた。寝起きだからだろう。ネクタイを緩めている。その後ろからはバーリィさんと、フランス人形を抱いた閑奈がついてきている。
「家の人を呼んできたよ」
「扉の向こうから返事がないって? 病気か何かで倒れてる可能性があるな」
バーリィさんがドアノブをガチャガチャと回す。鍵がかかっているのか、開かない。
「マスターキーは?」
「そんなものは無え。閑奈嬢ちゃん。緊急事態だ。扉をぶち破っていいか?」
バーリィさんの問いかけに、閑奈はこくりと頷く。
既視感に頭がくらりとする。この流れはまるで、二十年前に弁一と共に初めての殺人事件に遭遇した時とそっくりなのだから。
「バーリィさん。俺も手伝います」
「お、ありがてぇ」
バーリィさんと共に二人で扉に体当たりする。一回。二回。
三回目で扉は破られた。
「お父さん!」
私は入り口を塞ぐように立って部屋に飛び込もうとする和真を遮る。
そして部屋の中を見て、溜息をつきそうになった。
最悪の想像が当たった。
部屋の中心には、苦悶の表情を浮かべた寅吉さんが倒れていた。
見開かれた目からは、すでに息がない事は明らかだった。
「七崎さん、お父さんはどうしたんですか⁉︎」
純真な少年に、私は辛い言葉をかけなくてはならない。
私は振り返り、屈んで和真と目線を合わせる。
「見ない方がいい……寅吉さんは、君の父は亡くなっている」
和真君が目を見開き「そん……な……」と呟く。亥久雄さんと美月と閑奈も、兄が、叔父が亡くなった事実にショックを受けたようで青ざめている。
「七崎君……本当なのかい?」
いち早く立ち直った亥久雄さんが、震える声で尋ねる。
「亥久雄さんは医者ですよね。俺一人の判断だけでは心許ないので、診てもらっていいですか?」
「あ、ああ……」
亥久雄さんが私の横を通り抜けて部屋に入る。しかし一目見ただけで首を振る。
「診るまでもない……息もしていないし瞳孔も開いている。寅吉兄さんは、死んでいる」
「何の騒ぎかしら?」
廊下の向こうから眠そうな目をした卯月さんが現れた。
「寅吉兄さんが、死んでいる」
一瞬で眠気が吹き飛んだようである。目を見開いて手で口元を覆っている。
「バーリィさん。キャシーさんとロックさんを広間に呼んできてください……いえ、キャシーさんには警察を呼ぶよう頼んでください。亥久雄さんと卯月さんは子供達を連れて広間に。一旦、全員集まりましょう」
私は指示を出すと、ポケットから常に持ち歩いている絹の手袋を取り出した。
「ソウジさん、何をするんデスカ?」
「少し気になる事があってな」
本来は現場保存の為に警察が来るまで現場に踏み込むことはしたくないが、どうしても確かめなければいけない事があるので、やむを得まい。
この部屋の扉は施錠されていた。鍵は机の上に置いてある。鍵を手に取り扉に差すと、しっかりと回った。
鍵を元の場所に戻し、掃き出し窓の施錠を確認する。クレセント錠はかかったままであり、窓は動かない。
部屋の構造は私の部屋と同じである。床の間に飾られた人形の着物の柄だけが異なる。
机の下、押入れの中、浴室、トイレと人間が隠れられそうな場所を全て確認する。誰もいない。
内側から施錠された部屋で殺された死体。中には誰もいない。
現場は密室だった。
◯
「電話は繋がりません。車が麓に辿り着けるくらいに雪を掻くには、私とロックとバーリィの三人がかりでも明日の昼までかかりそうです」
キャシーさんが広間に入って報告する。
「なんて事だ……」
亥久雄さんが頭を抱える。その言葉は我々全員の感情を代表したものだった。
「父は……どうして亡くなったのでしょうか」
顔を俯けたまま、和真が呟く。
「寅吉兄さんは心臓の病を抱えていたんだ。発作を起こし……」
「ねえ。寅吉兄さんは、病死じゃなくて、殺された可能性はあるのかしら?」
亥久雄さんを遮って呟いた卯月さんの言葉が、場の空気を凍らせる。
「それは調べない事にはわかりません」
まだ死亡を確認しただけで検視もしていない。
「本当はこのまま現場保存して警察に調べてもらうつもりでしたけれど、連絡がとれないのならば仕方ありません。もし寅吉さんが他殺であれば、我々の取るべき行動が変わってきます。亥久雄さん、検視に協力してもらえませんか?」
立ち上がって亥久雄さんを見ると、彼は怯えたように顔を逸らした。
「すまない……僕は医学部出身ではあるけれど事務仕事ばかりに従事していたから、検視ができる自信は無いんだ」
仕方あるまい。医者といっても死体と関わることはあまりないだろう。それも、実の兄の遺体なのだ。二の足を踏んでも仕方ない。
「わかりました。俺達で調べます。行くか、アリス」
アリスが立ち上がると「ちょっと待って!」と卯月さんが叫んだ。
「あなた、そんな小さな子を死体に近づける気?」
「いえ、ワタシは立派なレデ」
「そもそも、あなたに検視ができるの?」
ここまで来たら隠す必要も無いだろう。むしろ明かした方がこれからの行動がやりやすい。
「すみません。ミュージシャン志望のフリーターというのも、アリスが姪っ子というのも嘘です。俺の本当の職業は探偵です。そしてアリスは探偵助手です」
「探偵……?」
美月が目を丸くする。
「探偵……」
亥久雄さんが胡散臭い人物を見る目を向けてきた。
「普段は人探しや調査を行っていますが、時折殺人事件に携わる事もあります。検視の経験はそれなりにあります」
「おいおい、素人探偵に一体何が……」
「ちょっと待って」
卯月さんが目を閉じてこめかみに指を当てる。
「七崎……そう、思い出したわ。もしかして貴方、七崎菜緒弁護士の息子さんじゃないかしら?」
「母を知っているのですか?」
七崎菜緒。ズバリ私の母の名前である。
「ええ。日弁連での会合で話した事もあるわ。旦那が検事で、長男が刑事で次男が探偵だって聞いた覚えがある。言われてみればあなたの顔、七崎弁護士の面影があるわ」
なるほど。道理で昨日、私の事を知っているかのような発言をしたわけである。
「探偵の次男は殺人事件を幾つか解決した事があるって聞いたんだけど、まさか貴方がその探偵だったなんてね」
亥久雄さんは、眉間に皺を寄せて腕組みをした。
「君が探偵である事はわかったよ。それで、どうして探偵が龍彦兄さんの法事にやってきたんだい? 殺人予告でも届いたのかい?」
その質問に私は「探偵には守秘義務がありますので」と簡潔に答えた。
「それじゃあ遺体の様子を見てきます」
「見てきマス」
私はアリスと共に広間を出ると、廊下を渡って寅吉さんの部屋の前に行く。
指紋を残さないよう再び手袋を装着すると、扉を開いた。
部屋の中央には寅吉さんが先ほどと同じ状況で横たわっている。彼の服装や周囲に乱れた様子はなく、争った形跡は無い。
周囲の状況を撮影するためにスマホを取り出そうとして、その手を止める。
「アリス、お前は見聞きしたものを全部録画しているんだったよな」
「そうデスケド、誰に聞いたんデスカ?」
「閑奈ちゃんに。お前が俺の醜態をパソコンで見せたって事をな」
私がジロリと睨みつけると、目を逸らして口笛を吹いて誤魔化そうとする。するもヒューヒューと空気が通る音がするだけだった。人形に口笛が吹けるわけがない。
「まあいい。この現場と遺体を、色んな角度から見て記録しておいてくれ」
「ワカリマシタ。その前に」
アリスは部屋に入ろうとする私を手で留める。
「足跡を調べマス」
そう言って青い瞳を輝かせると、目からライトが照射される。
「こうして見ると、なんだかバットマンみたいだな」
「小さな足跡が幾つか……これは多分ネズミデスネ。人間の足跡は……」
「人間の足跡は?」
「……一種類しかありマセン。これはつまり」
「つまり?」
「よくよく考えたら屋敷にいるみんな同じスリッパを履いているので、複数人いても足跡は一種類しか無くて当たり前という事デス」
私はずっこけそうになった。
「まあいい。とりあえず遺体を調べようか」
気を取り直し、遺体に近づく。アリスはキョロキョロと首を動かして辺りを撮影しながらついてくる。
寅吉さんの遺体の手には、私がしているような白い手袋が装着されている。そして包丁を手にしハンマーやロープを腰のベルトに挟んでいる。
「アリス。AIの客観的判断としてこの状況をどう判断する?」
「んー。今から何かしらの犯罪を起こそうとしたところで死んだように見えマス」
「ああ。俺も同意見だ」
どう好意的に解釈しても犯罪準備中にしか見えない。
閑奈がいる西園寺邸でどんな犯罪をしようとしたのか。推して図るべしである。
アリスが遺体を撮影し終わるのを待って寅吉さんの遺体に触れる。遺体に触れるのは何度経験しても慣れない。体温を失い、硬くなった身体は、まるで人形に触れているようである。見た目は明らかに人間なのに、その感触は人形。これが無気味の谷というものだろうか。
外傷を調べようとした結果、すぐに見つかった。首にどす黒い跡があるのだ。
「これは……おそらく毒物を注射された、あるいは毒が塗られた針を刺された跡だな」
「ハイ。ワタシも同意見デス」
わざわざ他人の家にやってきて犯罪を犯す準備をしてから自殺するとは考え辛い。そして事故死でもないだろうし、病死でもない。
つまり、他殺である事が確定しまったわけである。
「ただ、毒物の種類は不明だな。入手法が限られていれば犯人特定の役に立つかもしれないんだが……」
「あ、それならワタシに任せてクダサイ」
そう言ってアリスは首の痕に指で触れると、その指をペロリと舐めた。
「何をしてるんだ! 毒の危険が――」
無いのか。
人形だから。
「ワタシは舐めたものの成分を分析できるんデス」
「……もう少し心臓に悪くない形でやってくれ」
本気で焦った。いまだに心臓がバクバクと鳴っている。
「注射痕からはバトラコトキシンが検出されマシタ」
「パトラッシュ……なんだって?」
仕事柄、毒物には詳しいが、初めて聞く名前だった。
「バトラコトキシン。中央アメリカの熱帯林に生息するヤドクガエルの持つ毒で、致死量は0.002mgデス」
「フグ毒のテトロドキシンの致死量が0.01mgだから、もはや比較にならん強力さだな……」
それを注射されたのならば、おそらく寅吉さんは即死だっただろう。
「それにしても、ここまで毒がマイナーすぎると入手方法が想像もつかないな」
とりあえず毒については後回しにし、続いて死亡推定時刻を割り出す。
体温を感覚で測り、死後硬直の進行具合、角膜の濁り、死斑を調べる。それから気温を考慮して。
「死亡推定時刻は昨晩の午後二十三時から午前三時といったところか」
本当ならもう少し絞り込みたかったが、正確な体温と気温がわからないので仕方ない。
「ちょっと待ってクダサイ」
アリスが寅吉さんの遺体に触れる。
数秒間手を当てたのち。
「正確な体温がわかりマシタ。そしてこの部屋の気温とさっきの角膜等の情報を、ワタシの中にある検視データに照らし合わせた結果、死亡推定時刻は午前一時時から午前三時と判明しマシタ」
「うちの助手が有能すぎて閉口しそうだよ」
現場の撮影から足跡の調査、毒物の成分分析、死亡推定時刻の割り出しに指紋の調査と、鑑識の行う仕事を全て一人で行なっている。正直、私一人ではここまで正確な捜査はできなかっただろう。
「ところでルミノール反応とかで血痕を調べたりもできたりするのか?」
「もちろんデス」
頬を膨らませて何かを口から吹きつけるような体勢をとったので、この後の行動の想像がついた私は慌てて止めた。
有能なのはいいが、どうしていちいちビジュアル面に難があるのだろうか。
「とりあえず指紋の捜査を頼む」
「ワカリマシタ」
アリスが寅吉さんの指紋をスキャンし始めたので、私は部屋の中を調べる。
出入り口は扉と掃き出し窓だけ。丸いドアノブは外からも内からも鍵を使わねば施錠、解錠はできない上に机の上に鍵が置いてあったので、糸を使ってツマミを回すようなトリックは使えないだろう。
掃き出し窓はシンプルなクレセント錠だから、糸を結んで真上のカーテンレールに通し、さらに扉の隙間から引っ張る形で鍵をかける事ができるかもしれないと思ってクレセント錠を調べたが。
「む……」
鍵が随分と固い。よくよく考えたら客室は普段使われていないので、老朽化しているのだろう。これでは糸で引っ張るのも難しいし、無理をすれば跡が残る。しかしそれらしき跡は無い。
何かの機械的なトリックで毒針が射出された可能性を考え、寅吉さんの倒れている位置と首の跡から射出された方向を逆算してみたが、そこはただの壁。調べるまでもなく機械などないし、よく調べても穴の一つもない。そもそも動いている人間に機械的なトリックで毒針を当てるの難しい。
密室の謎はなかなか解けそうに無い。
まあいい。私は探偵。謎解き屋ではない。
事件を解決するのが第一である。密室の謎を解く必要が無ければ、解けなくても構わない。
「指紋の調査が終わりマシタ。扉の外側のドアノブにソウジさんと正体不明の指紋が幾つかある以外は、全てトラヨシさんの指紋デス。拭き取った形跡はどこにもありマセン」
「外側の指紋は多分ドアを開けようとした和真君達の指紋だな」
犯人は指紋を残さないよう手袋をしていたのだろう。パラなんとかなる毒物を用意していたくらいだから、そのくらいの事前準備をしていても不思議ではない。
だからこそ、少し調べれば死体は他殺だと判明するにも関わらず、現場を密室にした理由が気になる。
尤も現場を密室にする理由は、他殺の可能性を否定する事で、自殺や自然死だと思わせる以外にも幾つか理由がある。
「アリス。お前の中のデータには自殺、自然死に見せかける以外の理由で密室にする事例は幾つある? ミステリ小説を含めても構わない」
「597件デスネ」
つまり無闇に理由を考えたところでキリがない。もう少し手掛かりを得てから、考える事にしよう。
「他殺が判明した以上、みんなに知らせないといけない。一旦戻ろうか」
「ハイ」
部屋を出て広間に戻る。扉を開けると、待ちかねたみんなの視線が私に集中した。
「寅吉さんは他殺です。バラライカで殺害されました」
「バトラコトキシン。毒殺デス。弦楽器で殺されたわけではありマセン」
「どなたかこの毒物に心当たりがある方はいますか?」
全員、首を横に振る。
「確か、ヤドクガエルの毒だっけ。病院でも扱わない代物だよ」
「あの、現場を調べて犯人はわかったんですか?」
美月の問いに私は腕組みをして唸る。
「残念ながら犯人はわからない。それどころか現場は鍵のかかった密室だったんだが、その方法もわからない状況だ」
「本当に密室だったんですか? 例えば犯人は殺害後も部屋に潜んでいて、私たちがここにいる間に逃げ出したとか……」
「それはない。その可能性を考えて俺は遺体発見後、すぐに部屋の中を調べた。どこにも犯人の姿はなかったよ」
美月は押し黙る。
「まだ手がかりは少ないので、皆さんから話を聞こうと思います。その前に、まず確認しておかなければいけない事があります」
そう。それは最も大事な事。
「犯人がこの中にいるのか、外部犯なのか。です」
その言葉に、和真君が拳を強く握る気配が伝わる。
今広間に集まっているこの中に、自分の父親を殺した犯人がいるかもしれない。そんな緊張を抱いているのだろう。
「キャシーさん。この屋敷のセキュリティはどうなっていますか?」
広間の隅で立っていた和服姿のメイドが答える。
「この屋敷を囲う塀の上にセンサーが取り付けられています。塀を乗り越える者が現れた場合、警報が鳴る仕組みになっています」
意外とシンプルだった。てっきり庭中に赤外センサーみたいなものが張り巡らされているのかと思ったのだが。
「昨日から今にかけて、警報は鳴っていませんよね?」
「はい」
「つまり外部からの侵入者がいない以上、犯人は僕達の中にいるって事か」
眉間の皺を深くして亥久雄さんが呟く。さほど意外そうにはしていない。
「待って、亥久雄兄さん。そう考えるのまだは早いんじゃないかしら」
「卯月?」
「そのセンサーだって無限に上に伸びているわけじゃないでしょう? 例えばパラググライダーみたいなものでセンサーの届かないほど上から侵入したり、ヘリから降下したりした可能性があるんじゃないの?」
「ふむ。さながらパラシュートでボトムズが降下するようなものですか」
「ボトムズ……?」
海円さんとアリスのやり取りに付き合う人間は誰もいない。
「そいつは無理だ卯月の嬢ちゃん。昨日は豪雪だった。ヘリを飛ばすこともパラグライダーで飛んでくる事も不可能だ」
バーリィさんが否定すると、プライドが傷ついたのか、卯月さんは露骨に機嫌を悪くした。
「そんな事はわかってるわ。あくまで例を挙げただけよ。もしかしたら昨日よりもっと前に侵入して潜んでいた可能性もあるし、もっと別の手段で侵入した可能性もあるじゃない。それに、私一つ気になる事があるの」
「気になる事?」
「今朝の停電よ。あれはもしかしたら、犯人がこの屋敷から脱出する為に電線を切ってセンサーを切ったかもしれないじゃない」
「その可能性は無きにしもあらずですが……」
確かに今朝の停電は気になったが、仮に犯人がその意図で電線を切る場合、何も早朝に行う必要はない。深夜に行えばいいのだ。
停電は自然に起きた可能性が高い。早朝の停電は不自然だが、その不自然さこそが自然である証ともいえる。
「卯月様。この屋敷のセンサーは、外部の侵入者に電力をカットされてその隙に侵入される事を防ぐため、屋敷内に別電源を用意しているのです。ですから、電線を切断されたところでセンサーは稼働したままです」
「けれど犯人はその事を知らなかったから電線を切ったかもしれなわけで……」
そこまで言って卯月さんは口をつぐみ、顔面蒼白になる。
「電線を切ってもセンサーは稼働したままだ。そのセンサーが警報を鳴らしていないって事は、犯人はセンサーが稼働したままである事に気づき、脱出しなかった。つまり、まだこの屋敷内にいるって事じゃないか」
亥久雄さんが頬を引き攣らせながら後を継ぐ。
「とりあえず屋敷内を調べてみましょう。これで誰も見つからなかったら外部犯の可能性は消えます。大人達が二人ペアになって屋敷内を……」
私がそこまで言いかけた時、横から腕をくいくいっと引っ張られた。
「アリス?」
「屋敷内の捜索はワタシとソウジさんで行うので、皆さんはここで待機してもらえマスカ? 決して単独行動はしないでクダサイ」
そう言って私の腕を引っ張ったまま部屋を出た。
アリスの小さな手に引かれ、彼女の部屋へと入る。
「どうしたんだアリス。複数人で探索した方が効果的だろう」
「ふふふ。実はもっと効果的な方法があるんデス」
不適な笑い方をしながら自分のトランクを漁る。
「なあ、その中には何が入ってるんだ?」
「ワタシの充電器と予備のバッテリーと、あとはレディの秘密デス。あ、ありマシタ」
トランクの中から機械的なデザインの猫耳のついたカチューシャを取り出す。
「なんだ、犯人を見つけても猫耳で油断させて捕える作戦か?」
そんな推理漫画を読んだことがある。
「違いマス。これはレーダーになっていて、ワタシが装着する事で半径百メートル以内にいる生物を探知できマス」
「それはもう軍事産業並じゃないのか……?」
「実際、某国から手に入れた軍事用の強力なマグネトロンを使っていマス」
色々と大丈夫なのだろうか、弁一の奴。公安に目をつけられてもおかしくない気がする。
「ちなみに装着すると……」
アリスが猫耳を頭に装着する。耳が青白く発光した。
「自動的に語尾に「にゃん」が付くようになるにゃん」
あざと過ぎて鳥肌が立った。
旧スク水やブルマを履いた、狙い過ぎの女の子の萌え絵を見た時のような嫌悪感に、怖気が走る。
「可愛いかにゃん?」
両手を招き猫のようにして片足を上げるポーズに、顔が引き攣るのが自分でもわかった。
「腹立つから俺の自制心が効いているうちにさっさと済ませてくれ」
「むう。おじさんにはこの可愛さが、わからないみたいだにゃん」
アリスを口を尖らせながらも、目を閉じた。
「小さな反応が多数……これはネズミだにゃん。そしてすぐ側に人間の反応が一つ。これがソウジさん。離れたところに人間が六人。サイオンジ家の皆さんと、カイエンさん。他に人間の反応は無いにゃん」
「なるほど。となると外部犯の可能性はないだろう」
「それにしてもネズミが多すぎるにゃん。この耳を齧られないよう、駆除して欲しいにゃん」
「この国を代表するキャラクターを気取るとは図々しいやつだな……おいアリス!」
私は立ちくらみをしたかのように、ふらりと倒れかけたアリスを抱き止める。相変わらず軽い。
「どうしたんだ⁉︎」
「この機能を使うと……バッテリーの消耗が、激しくなるにゃん……」
私は忌々しい猫耳を外し、アリスを抱えたまま自室に戻ってワイヤレス充電器型のクッションに座らせた。
「ふー。生き返りマス」
「そのカタコトの喋り方が初めて愛おしく思えてきたよ」
恍惚の表情をしているアリスを見ていると、充電をして生き返る心地良さというのはどういうものなのか、少し気になってきた。
「早く戻っても怪しまれるだろうし、少し事件の整理をしようか。アリス、昨晩の映像の記録をくれ」
「わかりマシタ」
アリスが人差し指を振る。スマホを取り出してアプリを起動すると、動画ファイルが送られてきた。
腰を据えて動画を検証しようと思い煙草を咥えると、アリスが右手の指先で火をつけてくれる。
煙草をふかし、動画を早送りで眺める。右目の映像は閑奈の部屋の前を、左目の映像は目の前――私の寝顔――を映している。
閑奈の部屋の前の映像記録は、時折キャシーさんが廊下の見回りにくる以外、特に異常はない。
「俺とアリスのアリバイは完璧だな。という事は容疑者は西園寺家の五人と、海円さん、機巧人形の三人か」
「いえ、機巧人形の三人は除外できマス」
「なんで犯人じゃないって言い切れるんだ。ロボット工学三原則が滴用されているのか?」
ロボット工学三原則とは、確かSF作家が考えた有名なロボットのルールだ。
第一原則。ロボットは人間に危害を加えてはならない。
第二原則。第一原則に反さない限り、ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。
第三原則。第二原則に反さないかぎり、ロボットは自分の身を守らなくてはならない。
ロボットが人間に反乱することができなくなる為のルール。
余談だが、これには第零原則があり、それは「ロボットは人類の危機を看過してはいけない」というもの。当然、第一原則より優先される。
「いえ。ワタシ達にロボット三原則はありマセン。ですが、決して生物に危害を加える事ができないようにプログラムされていマス。人間どころかペットの犬にも危害は加えない安心安全人形。それがワタシ達デス」
あいにくとSF映画では安心安全と思われるロボットが反逆するものである。
「そのプログラムは書き換えたりハッキングしたりできないのか?」
「絶対に不可能デスネ。このプログラムはワタシ達を構成するプログラム全体に広がって密接に関わっていマス。それを書き換えたり消去したり乗っ取ったりしたら、そもそもワタシ達は機能停止になりマス」
人間でいうと、脳細胞全てに影響を与えているプログラムという事だろうか。
そこまで徹底して人間に手出しをできないようにするのは、弁一の平和主義の徹底なのだろう。あいつは昔から他人を傷つける事に酷く抵抗を覚える男だった。
「だがもしかしたら、人間の脳をコピーして電子化した擬似人格みたいなやつをAIの代わりに搭載しているヤツがあの三人の中にいる可能性があるんじゃないか?」
「面白い推理デスネ、探偵さん。小説家になったらどうデスカ?」
アリスのほっぺを引っ張った。
無駄によく伸びる。
「その可能性は二つの理由から除外できマス。昨日言った通り機巧人形の動作はプログラムの癖のせいで、動きの細かい周期、タイミングが同じデス。人間が真似できるわけがありマセン。ワタシが分析したところ、三人ともその動きをしていマシタ。それに、仮に人間の脳をコピーした擬似人格がAIの代わりに機巧人形を動かそうにも不可能デス。具体的な説明は省きマスガ、ワタシ達のAIが体を動かす原理は、人間の脳が神経に信号で指令を送る原理と全く異なりマス。人間の脳では指一本動かす事ができマセン」
ぐうの音も出なかった。そもそも昨日、機巧人形の動きについて説明を受けていたにも関わらず、それに思い至らなかったのは不覚である。
「ちなみに他に機巧人形がいて別の人間が開発したAIが制御している事もありえマセン。この身体を動かすには高度なプログラミングが必要なので、設計者のタカノ博士にしか作れマセン」
「わかった。機巧人形は絶対安心設計。俺は弁一とアリスを信じるよ」
となると容疑者は五名。
現場を調べても手掛かりがなかったので、事情聴取で手掛かりを得るしかない。
「もういい時間だし戻るか。アリス、これから事情聴取をするから、映像の記録は頼んだ」
「任せてクダサイ。真実を暴きマショウ」
部屋から出ようとした私は足を止め、振り返る。
「アリス。真実はさほど大事じゃない」
そう告げると、意外そうに目を丸くする。
「探偵の仕事は真実を暴くことではないんデスカ?」
「探偵は謎解き屋じゃない。事件を暴くのではなく、事件を解決する事が仕事だ」
私は密室の謎を解くことすらなく犯人を見つけ出し、事件解決のために自首を勧め内々で処理しようとした探偵を思い出す。
「真実は真相とも言うだろ? 真相の「相」は、形相や手相、様相などの、形が色んな姿をもつものに使われるんだ。つまり、真相もまた、色んな姿を持つ」
「真相が、色んな姿を持つ?」
小首を傾げる。
「ああ。例えばAさんがBさんに殺されるという事件があったとする。その一つの出来事に対し、Aさんの身内からすれば身内を殺された痛ましい事件が真相となるかもしれない。だがBさんの動機……例えば大切な人の復讐等を知る人からすれば、Bさんが悲願を果たした悲しい事件が真相になる。動機次第なら胸のすく事件となる人がいるかもしれないし、その人にとってはそれが真相だ」
「ふむ。人によって事件への思いが変わっていくんデスネ」
「ああ。一つの出来事に対して、それぞれ思うところがある。それに対して己の中で事件と向き合わなければいけない。その落とし所こそが真相という形だ」
「となると、真実は一つというのは間違いなんデスネ」
「いや、それは違う」
アリスが怪訝そうに眉を顰める。
「さっき、真実は様々な形をとると言ったじゃないデスカ」
「ああそうだ。だがある場合において真実が一つになる時がある」
それは。
「探偵が現れた時だ」
「探偵が……?」
「さっき、己の中で事件に向き合わないといけないと言ったが、それは事件というものが犯人を中心に行われ、犯人に対する感情が真相を左右するからだ。だが、探偵が現れると事件の中心は主人公である探偵になる。そして、探偵はみんなに自分の中の真相を披露し、聴衆の真相を一つに纏め上げる」
だからこそ、如月探偵は皆の前で犯人を明かす事を嫌ったのだろう。
皆んなが己の中に持つ真相を、自分が独りよがりで纏め上げる事を忌避して。
「それなら、真実までもが胡乱なものなら、探偵は何を信じればいいんデスカ?」
「探偵は全てを疑う事が仕事だ。例え俺が言った事でも信じるな。それでも何かを信じて縋りたいのなら――」
信じるものは自分で決めろ。
そう言って私は振り返る事なく部屋を出た。
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