第3話
佳乃は運転席に近いドアに陣取るとカバンを下ろして車内を見渡した。昨日も利用した電車。しかし今日は学生服の生徒がちらほらといるだけで昨日のような人混みは無い。がらんとした車内はむしろ
「昨日はここで見たんだよな」
昨夜は大変エネルギッシュであったが、認めがたい劣情でもあった。
「……………………」
「…………ん?」
誰かに見られている気がして佳乃は隣を振り返る。
「……うわぉ」
そこには織姫千鶴がいた。
整った眉根を不愉快そうに中央に寄せて佳乃を睨んでいる。着ているのは破廉恥な魔法使いの
「うわぉ、とはご挨拶じゃない? 朝の挨拶くらいはちゃんとしてほしいものだけど」
千鶴の怪訝そうな声音は、きっとさっきの佳乃の言葉を聞いていたからだろう。品行方正を体現するような彼女にとって性的な事柄は忌避すべきものなのだ。佳乃を不潔の塊と
昨日は彼女こそが性的だったのだけれど、そのギャップはむしろ千鶴の清廉性を高めるようだった。
「裏垢だなんて不愉快極まりないわ」
「一応聞くけど……千鶴は実在してるよな?」
「はあ? なんだか実在してない人に会った事あるような言い草ね。なんでそんな事を聞くの」
「別に……」
この反応を見るに彼女は昨日の千鶴とは別人なのであろう。友達にあらぬ疑いをかけたことが恥ずかしくなった佳乃は顔をそむけた。
電車が走り出した。鈍行のような速度の動き出しだが、その徐々に速くなる速度が軌道に乗る前にもう次の駅に到着する。人を乗せて、また動き出す。その繰り返しの間、佳乃と千鶴はぽつぽつと言葉を交わしていた。
千鶴が不意に顔を覗き込んできた。
「ねえ、熱でもあるの? 顔が赤いよ」
途切れ途切れの会話に佳乃の変調を感じ取ったのだろう。ピトッと頬に触れる。吸い付くように冷たい、柔らかい指先。
佳乃は突然の事に驚いた。
「別に体調が悪いわけじゃないさ。ただちょっと寝不足でさ」
「寝不足。どうせその……裏垢とやらを見てたんでしょう」
「見たくて見てたわけじゃないぞ。変な白昼夢を見たんだ。その中でお前が裏垢をやっているというから心配でだな」
「私が!?」
千鶴が意外そうに叫んだ。
「うん。なんだか魔法使いみたいな恰好しててさ、ゆなって名前でやってるから調べてみろって言うんだ。千鶴がそんなことするはずないのにさ。笑えるよな」
いっそのこと笑い話にでもしてしまおうと佳乃は冗談めかしく洗いざらい話した。そうだ。彼女はこの手の話題が苦手な穢れを知らない女の子なんだ。裏垢なんてやっているはずがない。自分は何を疑っていたのだろう。
自分の中で悶々と抱えていても仕方がないし、あの忽然と姿を消した魔法使いの言う事を全て信じたわけでもなかった。ここで話して千鶴に怒られてそれで終わり。佳乃も立派な男であった。そういうくだらない日常の一幕にしてしまおうとしたのだが、しかし、千鶴の反応は、
「誰にも見せてないはずなのに……なんで知ってるの……?」
顔面蒼白であった。
「えっ?」
「いや、だって、アカウントだって作ったばっかで何も投稿してないし……魔法使いの……あ、やだ……」
まるで佳乃の言葉を裏付けるような反応だった。ヨロヨロと後ずさり、肩を震わせて胸元をシワができるくらい強く握りしめている。タイミング悪く電車が走り出し、慣性に置いていかれた千鶴の体がガクンと揺れて膝が崩れ落ちる。
言ってはいけないことを言ってしまったと理解するには充分な反応。
「危ない!」佳乃が素早くその手を取って引き寄せると、間一髪で間に合った。
できの悪い組体操のような恰好でしばし見つめ合う。しかし、千鶴はその手を振り払うと――彼女はその行動にも驚いているようだったが――血の気の引いた顔で「あの……あの、ごめんなさい! 追いかけてこないで!」
逃げ出してしまった。
佳乃はその後ろ姿と唖然として見送った。
あの悲壮な様子が雄弁に物語っていることは、アカウントの存在は本当であること。
いっそのこと彼女に笑い飛ばしてほしかった佳乃だが、あべこべに、千鶴の反応をもってして昨日ほのめかされた事が現実であったと認めざるをえなくなった。そして、知るつもりが無かった事を知ってしまった者の責務として、千鶴の味方にならざるをえなくなった。
学校が近づいてきて、電車の中には見知った顔も増えてきた。「今のなに?」「喧嘩かなぁ」「織姫さんだよね、逃げて行ったの」「灰崎が変なこと言ったんでしょ」「幼馴染だからって彼氏面されるのウザいよね」などと、なにやら不本意な評価がなされている気がするが、佳乃はそれをいちいち否定する気にはなれなかった。
ただ、アカウントの存在が本当だったという事は、それを伝えた魔法使いは千鶴本人の可能性が出てきたという事だ。しかし、いまの千鶴は周囲に見えていて、昨日の千鶴は誰にも見えていなかった。しかも昨日の千鶴は電車を出た瞬間に消えてしまったのだ。
おそらくあの千鶴は誰にも見えていない。声も聞こえていない。佳乃の認識している限りでは彼にしか見えていない存在だった。
どうにも矛盾しているように思える。
メビウスの輪のごとく表裏が繋がった真実など存在するのだろうか。
昨日の千鶴と今日の千鶴。その2人がどちらも本物の千鶴であることなどあり得るのだろうか?
佳乃の頬を嫌な汗が流れた。
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