第2話


 翌日。佳乃はキッチンから聞こえてくる音で目を覚ました。


 とんとんとんとんとん


 じゅーじゅーじゅー


 聞いているだけで心が明るくなる家庭の音がする。それは灰崎家ではとんと聞かない。鳴ったとしても料理をするのはもっぱら佳乃であったから彼自身が聞くことはない音だった。


「姉さん、部屋から出てきたんですか」


 佳乃は意外の感に打たれながらドアを開けて、しかし台所に立つ姉の姿を認めてわずかに緊張した。


 姉を直接見るのは実に2ヵ月ぶりであった。最後に見たのが佳乃がこのマンションに越してきた時だから、4月以来の邂逅かいこうとなる。今年で19になる姉だが、まあ2か月程度では何も変わらない。ただ髪は少し伸びたようだ。


 姉は寝起きなのだろうか寝ぐせだらけの頭に右手を突っ込んで「うん、おはよう」と、彼には関心が無いようだ。


 佳乃は、なぜ急に部屋を出てきたのか疑問に思ったけど、尋ねようとして、やめた。


 佳乃は姉が引きこもる事になった経緯を詳しくは知らないが、大学入試の失敗が大きなきっかけであることは知っている。しかし、両親と彼女の間にどんな秘密があって実家を追い出されることになったのかは知らない。だいたい、姉は謎の多い人だった。


 かつては天才と呼ばれて将来を有望視されていた姉は、厳格な両親の期待に応え続ける事を生きがいとしているように、人と関わる事を嫌がった。両親に認められればそれだけでいいというような、どこか人生を捨てたような生き方をしてきた。その反面、自分の興味を持った事もまたよく研究した。物理学、生物学、脳科学、芸術などなど、多岐に渡るジャンルをざっくばらんに渡り歩き、知識を吸収して満足したら別のジャンルに足を延ばすのである。けれどそうやって得た知識を人に吹聴したりはしない。自分が満足したらそれで終わりなのである。今は量子力学と魂の問題に熱中しているようだった。


 姉の自室には小難しい本が集められているが、佳乃がそれらを読んだことはない。


 姉は、自分の事を話すのが嫌いなのだ。たとえそれが家族であっても。


「研究はどうですか。昨日の本は役に立ちましたか」


 佳乃はテーブルにつきながら聞いた。姉はまた「うん」と答えた。


「いまは……なんでしたっけ。魂の……えっと?」


「魂の量子力学的不確定性に基づく空想次元体『ボイド』の存在の証明」


「ああ、そうだった。……その、ボイドというのは目に見えるものなんでしょうか。量子力学と聞くとなんだか気後れしてしまって僕にはよく分からないのですが」


「見えるよ。いまも、ほらそこに」


「えっ?」佳乃は驚いて姉の指さした方を振り向いた。しかし風呂場に続くドアが湿気を逃がすために半開きになっていただけだ。「何もありませんが」


「いたらボイドじゃなくなるからね」


「そういうものですか……」


「うん」


「………………………」


 会話はそれっきりで打ち止めになった。姉はこうやってよく佳乃をけむに巻いた。


 手持ち無沙汰になった佳乃は、手の置きどころを求めてテレビのリモコンを手に取る。適当にテレビのニュースを切り替えてみて、これといって面白い内容でもなかったから、流すままに流しておいてまた俯いた。


 姉と面と向かって言葉を交わすことがなかったせいか佳乃はなんと声をかけたら良いか分からなかった。どんな言葉をかけてもお決まりの「うん」で終わってしまいそうで。そう思うとどんな言葉にも意味がないように思えた。


 姉は生まれついての気難し屋であった。自分が興味がないことにはとことん興味がない。機嫌が悪いときに話しかけようものなら怒って部屋に帰ってしまうこともしょっちゅうだ。今は考え事に集中しているのか、傍目から見たらボーッとしているようにも見える呆け顔だけど、下手なことを言ってしまえば烈火のごとく怒り出すのだから佳乃は何も言うことができない。ボイドというのが何なのかも彼はよく分からなかった。


 するとそこへ、意外なことに姉が話しかけてきた。「昨日は遅くまで起きていたようだね」


「え、……はぁ。少し気になる事を調べていて。うるさくしたつもりは無かったんですけど」とおっかなびっくり答えた。


「むしろ静かすぎたね。喉が渇いたから冷蔵庫にコーヒーを取りに行ったんだけど、そのとき佳乃の部屋に明かりがついていたから」


「はぁ……。言ってくれたらコーヒーくらい僕が淹れたのに」


 姉は呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。


「ラインを入れたんだけどね。返事が無かったから自分で取りに行ったよ」


 佳乃はスマホを開いてラインアプリを立ち上げた。すると確かに姉からラインが来ている。「すみません。気づきませんでした」


「いいよ。佳乃が気になる事は心行くまで調べるといい。人は知的好奇心に突き動かされてこそ生きていると言える。何を調べていたのかは知らないが結構なことだ」


「はぁ」


 朝食ができたらしい。姉は慣れていない手つきでテーブルに料理を並べていくが、なんだか手伝う事が佳乃にははばかられて、食客しょっかくのように縮こまって待った。


「姉さん、これは……」


「うん、自分でも分かっているくらい料理は下手だ。まあ食べられればいいじゃないか」姉はそう言って手を合わせた。


 いただきますはするらしい。


 スクランブルエッグ、トースト、サラダ、そして人参大根白菜入りお汁粉(洋食には少々合わないしお汁粉と呼んで良いのかも分からないが文句は言うまい)。ラインナップを見れば姉の料理もまともそうに見えるが、しかし、姉は生粋の料理下手であった。炒め過ぎたスクランブルエッグは天かすのようにコロコロと皿を転がり、トーストは生焼け。サラダはレタスとミニトマトを乗せただけ。お汁粉だけは意外と美味しかったが、嬉しくない。これがはたして人間に食べられるのかどうかが佳乃には疑問だ。


 卵は完全栄養食だと言って、スクランブルエッグが口の端からボロボロこぼれるのも構わずにお汁粉の汁で流し込む。表情を一切変えずに食べ続ける姉の姿は、我が姉弟ながら理解しがたい所がある。研究者も行くところまで行くと人間味を失うのかと、佳乃は恐ろしくなった。


「学校に行くんだね。頑張ってきたまえ」


 姉はそう言って、残った料理を乗せたお盆を持って自室に引っ込んでいった。おそらく研究の合間につまむのだろう。お汁粉が用意されたのは研究で疲れた頭を癒すための糖分補給のためらしい。研究者の食べ合わせはよく分からない。


 佳乃は姉の後ろ姿を見送るとため息をついて、トーストにかじりついた。生暖かいイースト菌の味がして、思わず「うえっ」と咳き込んだ。



 ところで、佳乃が夜更かしをしたのには理由があった。それは昨日の千鶴と思しき謎のコスプレイヤーが言った『ゆな』という名前とその投稿の事。


 よくこういうコスプレをしていると彼女は言っていた。あんなエッチな恰好をよくしていて調べろとまで言うのだからそれはおそらく裏アカウントの事を言っているのであろう。


 裏アカウント。略して裏垢。決して表には出せない恥ずかしい投稿をしたり、探したりする、文字通り後ろめたい目的のために作られるアカウントの事である。佳乃には縁がないものとばかり思っていたがまさか千鶴が手を出すとは……。


「ふわぁ……結局、見つからなかったな。胸のホクロ……」


 脳内に昨夜の奮闘が思い出された。


 それはかつてモンゴルフィエ兄弟が初の気球フライトを成功させた時の衝撃に似て、またコロンブスが発見したアメリカ大陸がごとき新世界だった。


 これが本当に現実なのか。これもまたある種のフィクションなのではないか。そう思われたが、しかし、そこには剥離はくりし難いリアルがあった。女性への淡い理想がバリバリとむさぼられた気分だった。


「なくて良かったと言うべきか。ちょっと見たかった気もするけど。うむ。あれは僕の妄想だったのだ。白昼夢でも見たのだろう」


 佳乃はそう結論づけてまた大きなあくびをした。


 マンションから道なりに歩くこと15分。曲がりくねった一本道を行き、民家が見え始めてきたところで交差点を右に曲がる。そのままコンビニ、ドラッグストア、釣り具店を右手に捉えたままさらに右折すると上谷かみや駅が見えてくる。トタン屋根の古びた外装に反して中はタイル張りの小綺麗な内装だった。ブックラックには上谷町や阿坂市の観光案内の冊子が並べられている。もっとも、誰かが手をつけた様子はない。


 奥の隅にかけられたモニターには、これまた観光案内のPV動画がループ再生されている。狭い構内には数人の高校生らしき子供がいて、みな、佳乃と同じ制服を着ていた。


 プラットホームに入ると、ちょうど電車が来たところだった。

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