第30話
モニカは夜明けまで仮眠を取るよう、客室を与えられた。部屋を悟られないよう部屋に明かりを持ち込まず、窓からの月明かりを頼りに部屋を歩いた。部屋には机があり、机の上にペンを見つけた。ペンの隣にあったメモ用の紙に急いで文字を綴り、まだ乾ききらないまま小さく折りたたむと、ポケットのハンカチの内側に挟んでいつものようにハンカチを折り、もう一度ポケットの奥深くに隠した。
眠りに落ちてしまいそうなほど疲れていた。しかし、眠る訳にはいかない。手にしていた瓶の破片を握り、痛みで眠気を散らし、屋敷が静まるのを待った。
夜の闇の中、モニカは窓から外に出ると厩舎に向かった。
誰もいないはずがない。あの男、エギルは必ず誰かを近くに潜ませている。見ただけで信用できない男だと感じた。モニカを道具にするか、それができないなら殺すこともためらわないだろう。
連れて来た馬がどれかわからなかったが、一匹の馬がモニカの頭に鼻を擦り付けてきた。その馬を選ぶと、厩舎の柵を開けて入り口を開放し、音を立てると数頭いた馬は驚いて外に飛び出した。それに紛れて鞍も手綱もつけない馬の背にまたがり、首にしがみついて馬を走らせた。
遠のいていく屋敷が騒がしくなった。
「畜生、あの女、逃げやがった」
「追いかけろ!」
知っている道は一つ、一度通っただけだ。満月まであと二日。月影は明るかったが充分ではなく、鞍も手綱もつけていない馬は不安定だったが、馬にいたわられるように道を進む。それでも帰りつけるとは思っていなかった。
捕まってはいけない。殺されてはいけない。
誰にも自分を戦いの口実にさせない。
どれくらい走ったか、あの木のトンネルが見えてきた。
ここに来るための旅だった。兄にお別れを言うための旅。
モニカは疲れが見える馬から降り、そのまま馬だけを先に行かせるため、尻を打った。馬は人を乗せないまま、街道へと続く道に進んでいった。
走り寄る馬の音を聞き、木の陰に身を潜めた。男を乗せた二頭の馬は、モニカが乗って来た馬が進んだ方向へと走り去った。モニカが馬から降りたと気付いたら、また戻ってくるかもしれない。
マグノリアの木。その先のわずかな平地。そこに兄と、共に死んだ隊員が眠っている。
剣の飾りだけが眠るライエの墓では兄に会えない気がした。兄の魂を連れて帰りたかった。そんなことできる訳がないのに。
会いたかった。死んでほしくなかった。生きていてほしかった。
「兄様…」
もう戦わないで。死にに行かないで。
私たちを守るためだと、笑顔で言わないで。
私はいつも間違える。
「兄様、…助け…」
兄を呼ぶ声が途切れた。もう兄は助けてくれない。自分のわがままを通し、勝手にここに来たのだ。一人で何とかしなければ…。
愚かな私を理由に、戦が始まらないように。
私は捕まらない。
私は殺されない。
私は…、
兄を追い、ここで勝手に死ぬのだから。
モニカは、貴族のたしなみとして教えられたことを、平民になった今、初めて役に立つ知識だと思えた。
辱めを受けるのは、貴族として恥じるべきこと。心臓を刺すなら胸の左。心臓に達する刃物がないなら、首の横を。触れて脈を感じる所には、太い血管がある。そこをためらうことなく。
地下でできるだけ大きなガラスの破片を拾っておいた。
ガラスの破片を手に握り、モニカは指で自分の首に感じる脈を探った後、一つ呼吸を置き、そのまま自分の首を掻き切った。
切り裂かれた所から吹き出す血は、月明かりの下で黒く広がった。痛みはあったはずだが声も出ず、モニカはゆっくりと傾き、草原に背をつけた。
青い月の光が辺りを照らす中、長く伸びた草が、モニカの姿を隠した。
夜の草原を小さな風が吹き抜け、草を揺らした。
ただ、静かだった。
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