第29話
モニカは日帰りの予定で壁の外に出ている。
一日程度なら遅れと思われるだろうが、数日戻らなければ、モニカを知る警備隊員からニコロに話がいくだろう。ニコロが戻るまで、まだ三日はある。
ニコロにはどこに行くとも言っていない。ここを探し出せる可能性は低く、それまでに飢えの苦しみでこの条件を呑んでしまいたくなるだろうか。食事抜きだけで済むとも思えない。
ずっと帰らなければどの程度の騒ぎになるだろう。これをきっかけに再び戦いが始まるようなことは…、本当にないと、言えるだろうか。
ずっと隠してきた、ロッセリーニの生き残りとしての自分。たった一年だけのにわか貴族。嫌われ辺境伯令嬢だった自分にまだ監禁したくなる程度の価値を見い出されようとは。
ずっと塀の中で守られていながら、一人で出歩こうなどと思い立ったのがいけなかった。自分のせいだ。いつも自分は間違ってしまう。
何とかここを出なければならないが、リデトまで戻るとなるとかなりの距離だ。事を大きくしないためにも、できるだけ早く戻らなければいけないが、それには馬がいる。
やがて周囲は真っ暗になった。
夜更けに馬車が離れていく音がした。エギルが帰ったのかもしれない。そうだとしても、レンニだけを残すことはないだろう。
馬車の音がしなくなってそうしないうちに、食糧庫の鍵が開き、レンニが入って来た
「すまなかった」
レンニはモニカを縛っていた縄を解き、持っていた水と、パンにハムを挟んだものを差し出した。モニカは痛む体に少し顔をしかめながらも、差し入れてくれたものを口にした。
食べ終わり、ほっとしたところを急に背後から抱き締められた。
モニカは慌てて腕から逃れようともがいたが、少しも緩まない。一旦動きを止めると、締め付けるだけだった腕の力が抜けていった。
「あいつより、俺を選んでくれ」
二人でどちらがモニカを取るかとでも話したのだろうか。
「私には夫がいるの。どちらも選ぶわけないでしょ」
「おまえは俺たちのことをよくわかっている。リデトのことも、ロッセリーニ領のことも、トルメリアのことも。…もう争いをやめたい。穏やかな生活を取り戻したい。おまえとなら」
願いは変わらない。
みんなに平和を。争いをやめて、穏やかな生活を。
殺し合わないで。
戦いに行かないで。
生きていて。
それだけのことが言えない、そんな世界を変える。それはずっと願っていたことだった。それでも、自分がここにいれば次の火種になりかねない。
モニカは油断しているレンニの足を思いっきり踏みつけた。
「つっ!」
痛みで緩まった腕から逃れたが、すぐに腕をつかまれ、それを激しく振り払ったはずみで棚にぶつかった。落下した瓶の破片が頬をかすめた。
痛みで少し顔を歪ませながらも、モニカはレンニを睨みつけた。
「長という割に、あなたはエギルの言いなりね」
レンニはびくりと身をすくませた。
モニカを客として招きながら、腹をけられ、食糧庫に閉じ込められるのを止めることもできなかった。和平を口にしながら、その相手国の人間を人質のように扱っている。
「あなたたちの関係が対等ではないことはわかったわ。エギルは私を利用する気満々よ。あなたが私を誘拐したと言うかもしれない。それを助けたのが自分だと手柄にして、和平を導いた族長にのし上がる気かもね」
「…あいつが四の星の長だと、どうしてわかった」
「ロッセリーニの名を聞いてすぐに政略結婚を思いつくような人よ。権力を得たくて仕方がない。…父の受けた致命傷を知り、笑うような男。まさに私たちが思うあなたたち、蛮族そのものだわ」
蛮族の呼び名にレンニは身を震わせたが、怒りの声をモニカに向けることはできなかった。
「…エギルの考える和平のための婚姻なんて、体のいい人質にすぎない。それさえもトルメリアでは何の意味も持たないわ。かつて辺境伯の娘だっただけの平民の娘を人質にして、王と交渉ができるとでも思っているの? あなたもエギルも、あまりに安直よ」
エル・ミーンにとってリデトとの戦いに最も貢献したのは四の星の部族だ。兵は強く、武器もそろっていた。その背後にはオークレーの支援があった。しかし今その支援が途絶え、エギルは焦っている。力の時代が終わろうとしていることを知り、口では和平を唱えてもその意味を全く理解していない。和平を道を探ろうとする他の部族を武力で脅し、部族の長の娘を人質に取っている。レンニもまた妹を四の星に嫁がせていた。
「蛮族と呼ばれるあなたたちは、私の国では信用されていない。和解するよりも争いを始める方がずっと簡単なのよ。ロッセリーニを殺せば、かつての恨みを呼び起こす。伯父を、父を、兄を殺されたことを、今なお多くの人が恨んでいる。私はあなたたちに囚われても、殺されてもいけないの。…お願い、私をリデトに帰して。本当に平和を保ちたいのなら」
うなだれたレンニは、しばらくそのまま目を閉じ、考えを巡らせていた。
「エギルは明日の昼に来ると言った。…夜明け前に、送る。とりあえずここを出よう。怪我をさせて悪かった」
気弱とまではいわないが、レンニには力が足りないとモニカは思った。
蛮族と呼ばれるほどの部族を取りまとめるには、エギルのような利に敏く、善悪にとらわれない男の方が有利かもしれない。しかしエル・ミーンは力をなくし、弱っている。二人の族長が共にここまで若いくらいに人がいない。
このままあの男が族長になれば、遅かれ早かれ今の短い平和は崩れるだろう。そしてそれはエル・ミーン自身を崩壊に導くかもしれない。
レンニに連れられ、モニカは地下の食糧庫を出た。
「ここでは、しょうがの味のする飴を作ってる?」
前を行くレンニにモニカが尋ねると、レンニは
「いや? ここでは見かけないな」
と答えた。
「…やはり、この間タラントにいた子供達はあなたの連れではなく、リデトに住んでいるのね」
レンニは口ごもったが、うなずきで答えた。モニカが何を知ろうとしているのかはわからなかったが、正直に答える以外、モニカの信頼を得ることはできない。
「あの子達とは、旅で会ったの?」
「ああ。…リデトのエル・ミーン達が他の住民とうまくやっていけないと聞いて、希望する者を三の星に連れ帰ることにしたんだ。あの子達の親はタラントに残ることを選んだから、元いた家まで送った」
「そう。花を供えていたし、…かつての七の星の民の血筋なんでしょうね」
モニカがタラントの遺跡がかつて七の星と呼ばれていたことを知っていることに、レンニは驚いた。
「よく知ってるな」
「敵を知らなければ戦えないわ。戦っている意味も知らずに人を戦地に送るなんて、ありえないでしょ?」
兵を戦地に送る立場だった人間。領主一族の一員だったモニカにとって、知識を得ることは当然のことだった。
「ライエを離れた時も、学校でエル・ミーンのことを調べたわ。北斗になぞらえた神殿のことも、ロマンチックな星の祈りも、部族の祭りも。もう領に戻らなくていいって言われてたのに、知りたかったのはロッセリーニ領に関わることばかりだった」
敵としてエル・ミーンを調べていたと言いながら、懐かしい学校生活を思い出しモニカは楽し気に話した。しかし、すぐに顔を曇らせた。
「彼らはずっとタラントに住んでいたのに、今のリデトでは、彼らは侵入者の仲間として扱われ、迫害を受けることも多いと聞くわ。それはリデトの罪でもあるけれど、あなたたちが招いた罪でもある。それをわかっている人が次の族長にならなければ和平は成り立たない。自分たちのしてきたことを背負えるだけの強い覚悟を持った人が…」
モニカの言葉は、レンニにとって耳が痛い話だった。
リデトの壁の中には何度か入り、同じエル・ミーンの民を何度か連れ帰った。自分にとっては偏見のない同族の土地に連れ帰ったつもりだったが、中には「タラントに帰りたい」と願う者もいて、再びリデトまで送ったこともあった。
迫害のない地に連れ出すことだけでは解決できないのだ。
レンニは心からモニカが欲しいと思った。モニカとなら、きっと自分は、エル・ミーンは変われる。しかし、それを強いることは今のレンニにはできない。
あのタラントの地で共にいた男。あれがモニカの夫だろう。辺境騎士団の制服を着ていたが、普通の男だった。モニカの知識も、覚悟も活かせない、普通の男。
もっと早くモニカに出会っていれば…。
レンニは口惜しさを感じていた。
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