(2)


《渡り鳥》と言われる荒事を専門とした流れの解決人たちがいると言う話は、風の噂でハスズも聞いたことがあった。

 どこからともなく現れて、泣き寝入りしている弱者を救い、再びどこかへ去って行く。

 そんな夢のような人たちが本当に居るのなら、今この瞬間を救って欲しいとどれだけの虐げられた人々が願っていたか分からない。

 縋りたくとも頼りたくとも、人々に《渡り鳥》との連絡手段は一つもなかった。

 どれだけ心の底から望んでも、助けを求めることも出来ぬ中、どこからともなく流れて来た噂話。信じてはならぬ。期待してはならぬ。そんなものはこの世にはない。これはきっと、希望を持たせて叩き折り、更なる絶望を与えるために流されたものだと、弱者は己を戒めた。

 そんな都合のいいものが存在などするはずがないと、夢など見てはいけないと。

 それでも弱者は藁にもすがる思いで願っていた。思い出したように祈っていた。

 どうかどうか来てくれと。空を見上げて手を合わせた。

 どこからともなく現れる《渡り鳥》と呼ばれる救済者たちの存在を。

 神や仏と同じ、いるとも知れぬ存在を。

 それが今、ハスズの目の前に突如現れた。

 どうして? とハスズは動揺した。

 何故今? と言う恐れと、もしかしたらと言う期待が同時に生まれる。

 鼓動がトクトクと速まった。

 思わず右手が心の臓の位置を握り締めるも、鼓動も体の震えも止めることは叶わなかった。

 目を見張り、口を開くも言葉を紡げないハスズの顔を、真っ向から冷めた眼差しで見返す鬼雨。蛇に睨まれた蛙の如く、ハスズは自分の意志で身動き一つ出来ず、視線を逸らすことも出来ず、ただただ強張った顔を晒すことしか出来なかった。

 息が詰まった。何かを応えなければと言う焦りだけが落ち葉の如く降り積もる。

 そのとき、ざざあっと風が吹き過ぎた。

 肩口で切り揃えられていた髪と花嫁衣装が落ち葉共々煽られて――

 思わず目を瞑り、着物を押さえたハスズが再び眼を開いて前を向いたとき、視界に写り込んだのは、何も答えられないハスズを蔑んだ鬼雨の目ではなく、興味を失ったとばかりに向けられた鬼雨の背中だった。


   ◆◇◆◇◆


「む、村はこの先ですので、もう大丈夫です!」

 ハスズが勇気を振り絞って声を上げたのは、遠目にも異様な建物が建ち並ぶ村を視界に捉えたときだった。鬼雨は軽く眉を顰めた。無理もない。山の中にあってぽっかりと開かれた空間に見えるのは、到底農村には見えない建物たち。

 かつて宵と共に大きな町に行ったときに見た遊郭をそのまま持って来たかのように、女もかくやと言わんばかりに着飾った建物たちが、『我を見よ』と主張し並んでいるのだ。鬼雨でなくとも眉を顰めたくなると言うもの。

 どう見たところで『農村』で見慣れた田畑が広がっているようには見えない。しかも、村を囲む生垣の前をうろつく揃いの袢纏を纏った男たち。明らかに普通の『村』ではないと言うことは、誰の目にも明らかだった。

 鬼雨はハスズを見た。

 ハスズは、視線を逸らして口早に言葉を紡ぐ。

「本当にありがとうございました。助けて下さって嬉しかったです。もう会うことはないとは思いますが、どうかお元気で!」

 言うが早いか勢いよく頭を下げて、下げた頭を上げながら踵を返す。

(あの人たちに見付かる前に返さなければ!)

 ただそれだけの想いを胸に、ハスズは駆け出していた。

(このまま一緒に村に入ればこの人は殺される! あの村にいるのは、あんな山賊たちとは比べ物にならないくらい怖い人達だから! いくら強くても一人じゃ無理! 私のせいでこの人を殺されたくはない!)

 だから、ここで別れなければならないと決意したと言うのに――

「待て。まだ村じゃない」

「っ!」

 鬼雨があっさりとハスズの決意を打ち砕いた。

 しっかりと手を掴まれて動きを止められる。

 その反動で、ハスズの体は鬼雨の方を見た。

 鬼雨は見透かすように涙の滲むハスズの眼を見て告げる。

「ここはまだ『村』じゃない」

「でも!」

「それとも、俺を村に近づけたくない理由があるのか?」

「っ!」

 ハスズはグッと言葉を飲み込んだ。

「それが、お前が森の中で俺を撒こうとした理由か?」

 ハスズは血の気の引く音を聞いた。

 紅葉色付く山中だとしても、日中はまだ温かい。それが、日の光が遮られたかのような寒さに鳥肌が立つ。

 駄目だ――と思う。

 これ以上心を読まれてはいけないと思う。

 笑って違うと言わなければ、このままでは気持ちが挫けてしまう。

 この村に近づけたくない。いや、帰りたくない。逃げ出してしまいたい。関わりたくない。

 だからどうか、私を今すぐ連れて逃げてくれませんか!

 そう願ってしまう。縋ってしまう。そんな資格などないと言うのに、救われる権利などないと言うのに。

 ハスズは泣きそうになりながら唇を噛んだ。噛み締めなければ嗚咽を伴って願ってしまいそうだったから。代わりに掴まれた手を振り解こうと腕を引く。

 しっかり掴まれた腕はピクリともしなかった。

 駄々を捏ねる子供のようにがむしゃらに腕を振り回すも、殆ど鬼雨の腕は動かない。

 そこに、止めが刺された。

「帰りたくないのか?」

 息が止まった瞬間だった。

 つい反射的に顔を上げて鬼雨を見ていた。

 鬼雨は冷たい眼をしたまま口を開いた。

「さっきも聞いたが、お前は何一つ答えない。お前は・本当は・どうしたいんだ?」

「…………って」

「何だ」

「帰って、下さい……」

 絞り出すように答えれば、

「それは無理だ」

「どうして!」

「師匠から頼まれたのは、お前を無事に村に送り届けることだからだ」

「ですから! もう村はそこなんです! お願いですから、私を置いて帰って下さい」

「本心か?」

 間髪置かずに訊ねられる。

「本、心……です」

 口が震えて即答が出来なかった。だが、

「そうか」と短く鬼雨が頷いたのを聞いて、ようやく分かってくれたのかと安堵したときだった。

「だったら、聞き届けることは出来ない」

「え?」

 言うが早いか鬼雨は歩き出す。ハスズの手を掴んだまま、見張りのうろつく村へ向かって。

「嫌です! 駄目です! 帰って下さい!」

 いくらハスズが抗議の声を上げても、足を踏ん張っても、鬼雨は止まろうとはしなかった。

 しっかりと腕を掴まれ、ズルズルと引きずられる。

 ハスズは喚く。鬼雨は無視する。

 前を必死に合わせていた手を放し、懸命に鬼雨の手を引き離そうと奮闘する。

 故にハスズは気付かない。本来あったはずの鬼雨の得物を。鋭い五本の鉤爪が消えていることを。必死に逃れようとしているハスズは気付かない。

 あられもない姿を晒すハスズを、振り返ることなく引きずって。

「お願いですから、やめて下さい!」

 涙混じりにハスズが訴えたときだった。

「ハスズ!」

 初めてハスズを呼ぶ声が。

 勿論それは鬼雨の上げたものではなかった。

 その相手は、目元に泣きぼくろのある優男。年の頃は二十代の前半。村の前をうろつく男たちと同じ袢纏を纏った男は、どこかホッとした顔を突如険しく歪ませて、真正面から鬼雨を睨み付けていた。

 ハスズが散々喚き散らしたせいで、騒ぎを聞きつけてやって来たのは明らかで。

 鬼雨は正面に立つ男を見上げて止まった。

 男は鬼雨を睨み付け、次いで、前をはだけて涙の跡を残したハスズを見――

「貴様! よくもハスズを!」

 掴み掛って来たところへ、鬼雨は勢いよくハスズを引きずり飛ばした。

 意表を突かれた両者の顔が驚きに眼を見開く。

 声すら上げられずに優男の腕の中に納まったハスズと、受け止めた男が半ば呆然と鬼雨を見返せば、鬼雨は言った。素っ気なく。

「任務完了」

『え?』

 戸惑いの声を上げる二人をよそに、鬼雨はそれまでの頑なな態度は何だったのかと言わんばかりの潔さで踵を返すと、何事もなかったかのように歩き出した。

 鬼雨が村に足を踏み入れることなくハスズの目の前から消えること。

 それを望んでいたハスズではあるが、あまりの変わり身に開いた口が塞がらず。

 対して優男は、

「ま、待ってくれ! もしかして君は彼女を連れ戻してくれたのか?」

 自分の勘違いに気が付いたように、慌てて声を上げた。

 しかし鬼雨は足を止めない。何も聞こえていないかのように歩み去る。

 その足を止めさせたのは、

「待って下さい、鬼雨さん! ここはまだ『村』の中ではありません! あの人との約束と違います!」

 悲痛な叫び声を上げたハスズ。

「あの人?」

 と、優男が訝しげな声を上げたのと、ハスズがハッと口を噤んだのと、鬼雨が振り返ったのはほぼ同時。鬼雨は二人を見た。

 優男は暫し思案顔をしていたかと思うと、やがて女人を魅了するような笑みを浮かべて言った。

「非礼をすみません。この子が攫われてからずっと気を揉んでいたもので。あなたが余りに若くていらっしゃるものですから、咄嗟にはこの子をあの山賊たちから救ってくれたとは思わず。ですが、お連れの方もいると言うことでしたら是非お礼を!」

「……」

「どう言った経緯で救って下さることになったのかは分かりませんが、それでも救って下さった方に何一つお礼もせずに帰したともなれば村の名が廃れます。どうか本日は私どもの村にお立ち寄り下さい。お連れ様と言う方はいずこにいらっしゃるのでしょうか? 良ければ迎えをやりますが……」

「……」

「さ。お前もお引き留めしろ。誰よりもあの方に礼を尽くさねばならぬのはお前だろ」

 と、ずっと沈黙したまま真っ直ぐに優男の眼を見て来る鬼雨に対し、男は奥の手を出すかの如くハスズに振った。

 振られたハスズは刹那悲痛な表情を浮かべた後、前を合わせた着物をしっかりと握り締めながら告げた。

「……どうか、あの方が追い付くまでお休み下さい。お願いします」

「――と、ハスズもこう言っておりますので、どうか……」

「――本心か?」

 優男の言葉を遮り鬼雨が問う。

 突然の発言に優男は笑みを貼りつかせ、ハスズはビクリと肩を震わせた。

 射貫くような鬼雨の視線。逸らすに逸らせぬ視線に縫い取られ、ハスズの中で相反する想いが暴れ回った。

 これまで同様、取り付く島もないほどにきっぱりと拒絶して帰って欲しい。

 その一方でこうも思う。

(どうか行かないで! 私をこの村に置き去りにしないで!)

 揺れる二つの願いの狭間で苦悩するハスズを見たまま、鬼雨は答えた。

「分かった」

 それが一体どちらの願いを読み取ったものか。

 ハスズは自分に向かって――村へ向かって近づく鬼雨を見て、安堵と後悔。二つの気持ちに苛まれ、下唇を血が滲むほどに強く噛んだ。

「良かった良かった。ではこちらに。あ、お連れ様のお迎えはいかがなされます?」

 と、ハスズの背後で声を弾ませる優男。

 だが、鬼雨は一言も答えることなくハスズと優男の横を通り過ぎると、何のためらいもなく村へと足を踏み入れた。

「……ああ、そうですか。不要ですか。そうですか」

 ハスズの頭の上に優男の手が乗り、更に顎が乗る。そのまま雨の如く降る冷笑交じりの声にハスズは体を強張らせた。

「連れがいたとは聞いていないぞ、ハスズ」

「っ!」

「奴の話では、あの寺に踏み込んで来たのは小僧一人だって話だったが?」

「う、嘘では、ありません。後から、突然、現れたんです」

「ふ~ん。そうか。だからこの花嫁衣装を貰ったか? 半裸じゃ可哀想だと思われたか?

だとすれば、連れと言うのは花嫁か? 奴の姉か? 式の途中に抜け出して、わざわざ山賊の巣食う古寺にやって来たのか。じゃあ、その女がここに来たら、足の腱でも切って逃げられないようにした後、ここで働いてもらうとするか?」

愉快そうにクツクツ笑う優男の言葉に、ハスズは何一つ答えることが出来なかった。

ハスズの体は震えていた。

構わず優男は続ける。まるで鬼雨の視線のように冷たい刃と化した言葉で。

「お前のするべきことは分かっているな。奴を殺して仲間の仇を取れ。さもなければ――」


 ――お前のせいで誰かが死ぬぞ。


 耳元で囁かれた優しい声は、ハスズの膝から力を奪うのに十分過ぎた。

「おっと。緊張が解けたからってこんなところで座り込むのは勘弁しておくれ。全くお前は仕方のない子だねぇ。いつまでたっても甘えん坊なんだから」

 崩れ落ち掛けるハスズを背後から支え、年の離れた妹をあやすかの如く横抱きに抱え上げ、優男は村へと向かう。

 ハスズはただガタガタと体を震わせ、カチカチと歯を鳴らし、蒼褪め切った顔色で運ばれるだけだった。


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