(3)


 鬼雨は開かれた障子窓の桟に肘を付き、眼下に広がる『村』の様子を見降ろしていた。

 秋の夜は早い。外はすっかり日が落ちて、普通の村なら寝静まっていてもおかしくない時分。

 しかしこの『村』は寝ると言うことを知らないようだった。

 煌びやかだった。軒下にも灯篭にも惜しげもなく火が灯り、羽織を羽織った男たちが道行く人々に威勢よく声を掛けている。

 声を掛けられた男たちは皆一様に何かしらの面を被って顔を隠し、呼び寄せられて壁際へ。

 朱塗りの格子が嵌められたその向こう。着飾った『品物』を吟味し店の中。

 格子の向こうの品物は、下は十代前半。上は二十も半ば。怯えている者もいれば諦めきっている者もいる。受け入れて客を呼び寄せている者もいれば、愛想笑いの一つも浮かべず冷ややかな眼で道行く化け物を見やる者も。

『村』は――『村』全体が見たままの通りの遊郭だった。

 山中にある遊郭。鬼雨はそれをただ見下ろしていた。

 嫌悪も侮蔑も浮かべることなく、ただただ見下ろしていた。

「あ、あの……鬼雨……様? 食事はお取りにならないのですか?」

 背後で戸惑い気味に上がるハスズの声。

 無理もない。『村』へ辿り着いたのは昼も大分過ぎた頃。部屋へ案内した後食事を運んだのはハスズ自身。その後何を言っても会話が成り立たなかったハスズは、膳を置いて部屋を後にし、夕食時に再び訊ねたところ、運んだままの状態で残っていたのだ。

「……お口には、合いませんでしたか?」

「…………」

「それとも、お腹は空かれていらっしゃらないのでしょうか?」

 ぐぅ~~~と言う腹の虫が答えた。

 鬼雨は微動だにしない。外を見たまま取り繕うともしない。

 お陰でハスズは、笑ってもいいのか笑ってはいけないのか判断付かなかった。

 仕方なくハスズは部屋を進み、夕餉の膳を鬼雨の傍に置くと冷めきった昼の膳を下げた。

「あの……」

 声を掛けるも後が続かない。

 助けられた時とは打って変わり、髪はきちんと結い上げて花簪を刺し、顔には白粉を塗り紅を注し、艶やかな着物を着ながら途方に暮れる。

 振り返ってもくれない鬼雨に、ハスズはそっと溜め息を吐いた。

 チラリと冷めきった膳を改めて見る。

 口を付けていなかったことに、正直ハスズは安堵した。ただしそれも初めだけの事。すぐに安堵の気持ちは消え去って焦りと恐怖心がハスズを飲み込んだ。

 昼の膳には毒が盛られていた。それがあの男、目元に泣きぼくろのある優男――科之(しなの)の命令だった。

 鬼雨が一体誰に頼まれてあの古寺にやって来たのかはハスズは知らない。ただ、偶然やって来たとは思ってはいない。たまたま立ち寄った古寺で寝ている山賊たちを突然襲ってみたとも思ってはいない。それでも、鬼雨が突然現れて山賊たちを狩り始めたとき、騒ぎを起こしてくれたとき、ハスズは思ったのだ。

 もしもこのまま山賊を皆退治してくれたら……その騒ぎに巻き込まれた自分が死んだことにでもなったら、ようやく自由の身になれるのでは? と。

 だが、山賊たちはそんなハスズの淡い期待を即座に叩き潰した。

 山賊の中でも三番目の位置にいた男が、ハスズを引っ張り出して口早に告げたのだ。

『いいか。今、裏から一人、お頭の許へ知らせを走らせた。お前は生きてあの小僧をお頭の所まで連れて行くんだ。そうすればお頭が俺たちの無念を晴らしてくれる。あいつが何者か、誰に頼まれて来たのかはこの際関係ねぇ! 仲間を殺した報いを必ず受けさせる! だからお前は、何があっても必ずあの小僧を『村』へ――お頭の許へ連れて行くんだ!』

 そうしてハスズは鬼雨の前に引きずり出された。

 あくまでも、山賊たちに連れ去られて来た哀れな村娘として。

 喉元に刃物を突き付けられて、冷やりとした感触に怖気が走った。体が強張った。役目を与えられた以上は殺されることはないと分かってはいても、薄い皮膚を容易く切り裂く刃物が突き付けられていれば平静ではいられなかった。

ハスズは見て来たのだ。これまでも見て来たのだ。突き付けられた刃物がどれだけの喉笛を掻き切って来たのかを。唾を呑むことすら躊躇われた。体が震えるのを止めることなど出来なかった。涙が滲んだ。

 鬼雨が『生きたいか』と問い掛けて来たのはそのときで、ハスズは咄嗟に答えることが出来なかった。

 もしもそのとき『生きたい』と即答していたら、きっと鬼雨は助けてくれたのだろうと思っている。ハスズを生かすために自分を捕らえた山賊を倒してくれると。

 だが、助けられてしまえばハスズはやらなければならなかった。鬼雨をお頭である科之のいる、『村』と称した隠れ遊郭に連れて行かなければならなかったのだ。

 知らせは既に走っていた。ここでハスズが与えられた仕事をこなさず『村』へ帰らなかったとしたら、即ちそれは『人質の命が奪われてしまう』と言うこと。自分のせいで『村』に囚われている女たちを見殺しにして、自分だけが笑って生きることなど、とてもではないが出来なかった。

 故にハスズは即答出来なかった。同時に、割り切ることも出来なかった。

『村』へ向かう道中もずっと迷っていた。自分の意見を聞いてくれた鬼雨を『村』へ連れて行くことに。柄の悪い、いかにも山賊だと言わんばかりの男たちより、科之の方がいかに恐ろしいか知っていたから。

 きっと殺されてしまうと思っていた。近隣の村から食べ物や女を集めることを命じられていた山賊たちを退治してくれた鬼雨を。

 お前たちなどいなくなってしまえばいいのにと常に思っていた願いを叶えてくれた鬼雨を。

 たとえそれがハスズの願いを叶えたわけではないとしても、結果的にはハスズの願いを叶えてくれたことに感謝すら覚えた鬼雨を。

 たとえ宵の命令だったとしても、『村』まで一緒に連れ立ってくれた鬼雨を裏切って、死地へと導く自分の役目が呪わしかった。

 だから『村』に着く前に消えようと思った。浅はかだとは思うが、死地へ乗り込ませるよりは、追われる方が鬼雨が生き残る可能性を高められると思ったのだ。

 鬼雨の実力は科之にも伝わっているはず。『村』へ行く途中に、自分が山賊の仲間だと知られてしまい脅された――と言えば鬼雨は逃げ切れて、自分は『村』に戻れ、自分が背負っている女たちの命も失わずに済む――と、一瞬考え、すぐに駄目だと絶望した。

 科之にそんな甘い考えは通じない。すぐに嘘だと見抜かれて、誰かが殺される。

 それは嫌だった。嫌なことばかりだった。あっちもこっちもハスズの行動一つで簡単に命が奪われる。責任が圧し掛かり、逃げ出したい衝動に駆られるが逃げることすら出来ない。

 そんな中で、鬼雨は何度も問い掛けて来た。

『本心か?』――と。

 本心なんて分からない。分からないくらいに心も感情もぐしゃぐしゃになった頃、科之に見付かってしまった。

 終わりだと思った。そのときハスズは絶望感と同時に安堵も感じていた。科之を前に無駄なことを考える必要ないのだ。

 鬼雨が踵を返し、科之の言葉に欠片も反応しなかった時、科之は囁いた。

『お前、あいつにバラしたんじゃないだろうな? だとすれば……どうなるか分かるね? 大丈夫、お前を殺すようなことはしないよ、私を好いてくれた娘だからね。ただ、その代りに私を恨んでいる何人かを解放してやろう。そう。私からね。嫌かい? 自分のせいで誰かが死ぬのは? だったら、引き留めろ』

 逆らうことなど出来なかった。

 結果、鬼雨は村へと足を踏み入れて、科之の『店』に通された。

 何も言わずに階段を上り部屋へ通される背を見ながら、息が詰まるほどの罪悪感に苛まれた。

 申し訳なさがあった。無力さがあった。せっかく自分の本心を聞いてくれる存在と出会えたと言うのに、結局は自分のせいでこの世を去ってしまうのだと思うと。殺されてしまうのだと思うと、涙が溢れて来た。

 自分は誰も救えない。それどころか不幸をもたらしてしまう。自分など消えてしまえばいいのにと、涙で作った沼の底に沈み込む。

 それを見た科之が何を思ったのか、身繕いをしているハスズに向かい恐ろしく柔らかい微笑みを浮かべ、優しい声音で言った。

『大丈夫。お前が直接手を下す必要はない。お前はただ膳を運ぶだけで良いんだ。運んで部屋を後にしろ。それだけでことは済む。食事にはたっぷりと毒を入れてあるから、苦しむ様を見たくなければさっさと戻っておいで。簡単なことだろ?』

 確かに簡単だった。鬼雨があっさりと食事に手を付けてくれさえすれば。

 時々そっと様子を見に来たが、鬼雨にも膳にも何一つ変化は見られなかった。

『毒が入っていると見抜かれたか?』

 何度目かの報告に行ったとき、科之は怒るでもなく不快感を示すこともなく事もなげに呟いた。それはまるで想定内の一つだと言わんばかりで、言い知れない恐怖心をハスズに抱かせた。

 事実、命令は下された。

『これは正直気が進まないんだけど仕方がないね。ハスズ次の手だよ――』


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