第一章『異質な村』

(1)

「あ、あの……あの方を置いて来られてよろしかったのですか?」

 少女――ハスズが困惑気味に問い掛けて来たのは、山中での分かれ道の事だった。

 元々ハスズが着ていた着物は血に塗れてしまっていたため、今身に纏っているのは宵(よい)が着ていた花嫁衣装。

 これで鬼雨が紋付き袴でも着ていれば、紅葉の花道を共に歩む若夫婦……に見えなくもなかったかもしれないが、生憎と共に歩むのは鬼雨だった。

「別に。どうせここまでは一本道だろ。馬鹿でも進める」

 素っ気ないにもほどがある答えだった。

 ハスズを振り返るでもなく、歩調を合わせるでもなく、当然のことながら道中は無言。分かれ道が色々あれば問い掛けられることもあったかもしれないが、生憎と山道は曲がりくねってはいても一本道だった。

「……そう……です、ね。すみません」

 別に謝る必要はないとは思うが、ついつい最後は小さく謝るハスズは、心底落ち込みながらそっと溜め息を吐いていた。

 鬼雨は寺を出てから一度もハスズを振り返ったりはしなかった。話し掛けて来ることもしなかった。明らかな拒絶の空気を感じて、ハスズもむやみやたらと話し掛けることが出来なかった。

 元々話好きの社交的な性格はしていない。あの寺の中で何が行われていたのかとあれこれ聞かれてもそれはそれで困ってはいたが、それでも、助けてくれた鬼雨にあからさまな拒絶を見せつけられては傷ついた。沈黙にも耐えきれず、勇気を持って話し掛け、『助けてくれてありがとうございます』と告げれば、鬼雨は答えた。

『別に』

 会話が続くことはなかった。その後も何度か話し掛けようと試みては見たものの、結局は口を開いても声は出ず、ハスズは引き離されないように小走りで鬼雨の背中を追っていたのだが、事ここに至って、問わずにはいられなかった。

 山道は分かれている。後を追い掛けて来られても、ここで間違えれば合流出来ない。

 それを危惧しての問い掛けだったのだが……、

「で。どっちなんだ?」

 初めて鬼雨が足を止め、ハスズに問い掛けたのはそのときで。

「え?」

「だから、どっちに行くんだ?」

 苛立たしげに問われ、ハスズは慌てて答えた。

「ひ、左です」

 答えると、鬼雨は無言のままに踵を返して歩き出す。

 そのままハスズを促すでもなく歩き去る背中を見ていたハスズは、無性に寂しさを覚えずにはいられなかった。

 ふと脳裏に、大人の色気のある宵の姿と優しい言葉が思い浮かぶ。

 視界が滲んだ。自分が泣き掛けていることに驚き、慌てて涙を拭う。

 それでも鬼雨は待ってはくれない。さっさと送り届けてしまいたいと無言で訴えて来るかのように先を行く。

 ハスズは慌てて後を追おうとして、ふと後ろ髪を引かれるように踏み止まった。

 振り返った先に宵の姿はない。

 鬼雨は大丈夫と言っていたが、宵が間違う可能性だってある。

 何か目印になるものをと辺りを見回し、自分が身に纏う花嫁衣装の切れ端を木の枝に結び付けてはどうかと思い付く。

 袖口を引っ張るが破けるわけもなく。噛んでみても結果は同じ。刃物は持ち合わせておらず、結うほど長くない髪では結い紐もなく。結果ハスズは、花嫁衣装を結び留めている赤い布帯に眼を止めた。

 赤い帯布を解いてしまえば、女子としてはあるまじき姿となる。

 帯に手を掛けて逡巡。しかし、それ以外に目立つ目印もないと覚悟を決めると、ハスズは帯を外して分かれ道の左側の木の枝にしっかりと結びつけ――ようとして、愕然とした。

 手が、届かなかった。

 五尺足らずの背丈では、どれだけ伸びても、飛び跳ねても、一番低い枝にさえ手が届かなかった。ハスズは焦った。鬼雨に頼むと言う考えは欠片も浮かばず、何とか手が届かないものかと何度も飛び跳ね前をはだけさせてしまっていることに気が付いて、ようやくハスズは諦め、細身の樹を探して幹へ巻きつけた。

 何だかよく分からない疲労感と敗北感を覚えながらも、きちんと目印を付けられたことにホッと胸を撫で下ろし、次いで自分の姿も見降ろして、慌てて前を掛け合わせる。

 そして唐突に、置いて行かれてしまったかも! と気が付いた。

 ハスズの村は山道の途中で獣道に入らなければならないが、鬼雨が先に行ってしまえば確実に通り過ぎているかもしれないのだ。

 慌てて追い掛けて間違いを指摘したら、どんな罵倒が飛んで来るとも知れない。怒鳴られずとも、どれだけ恐ろしい眼で見返されるとも知れない。想像するだけで身の毛がよだつと思いつつ、鬼雨の去った方を見た瞬間。ハスズは眼を瞠って息を呑み込んだ。

「!」

 離れた先に、鬼雨はいた。樹の幹に背中を預け、腕を組んでそっぽを向いて。

 待っていてくれたのかと驚かずにはいられなかったが、

「あ、待って下さい」

 すぐさま歩き始めたのを見て、ハスズは慌てて後を追った。

 後に、獣道に入る際に再び目印になるものを探すことになり途方に暮れかけたとき、無言で獣道に入った鬼雨が額に巻いていた布を落として行くのを見たとき、ハスズは思った。

 もしかして、一応気を遣ってくれたのかと――。

 どう見ても冷たい人のように思えるが、実は違うのではないのかと――。

「あ、あの。ありがとうございます」

 前をしっかりと合わせて追いついたハスズが素直な気持ちを伝える。

 しかし、鬼雨からの返事はなかった。

 聞こえて来るのは二人分の足音と、踏まれる葉音。風にざわめく木の葉の音。

 鬼雨の背中は話し掛けるなと言っていた。

(何故だろう?)

 ハスズの中で疑問がどんどん膨らんで行った。

(何故この人は頑なに私を拒絶するのだろう? 一度は命を救おうとしてくれたと言うのに)

 とうとう殺されるのかと思ったとき、鬼雨は手を伸ばして訊ねてくれた。

 死にたくないか――と。

生きていたいか――と。

生きたいと言えば助けてやる――と。

 そんなことを訊ねて来た人間はこれまで一人としていなかった。いや、単純にハスズの意見を聞いてくれる者はいなかった。だから咄嗟に答えられなかった。

(――ああ、そうか……)

 ハスズは唐突に理解した。何故自分がこれほどまでに鬼雨に拒絶されて落ち込んでいるのか。

 初めて意見を聞いてくれた人が、結局は他の人間たちと同じようにハスズを拒絶したからだと。それも、自分がすぐに答えなかった所為なのではないのかと思うと、自分の鈍間さ加減がつくづく嫌になった。悲しくて情けなくて、胸が締め付けられるように苦しかった。

(……今からではもう遅いですか?)

 振り返らない背中に訊ねる。

 助けて欲しいですと答えるのは、もうどうしたところで遅いですかと、涙で滲む背中に問う。

 問い掛けたところで答えは決まっていると言うのに。

(……そんな資格なんて、ある訳がないのに……)

 ふと込み上げて来た嗚咽に慌てて手をやり飲み込んで、ハスズは思った。

 もしもこのまま、鬼雨に気付かれないように姿を消してしまったら、鬼雨は一体どうするのだろうかと。

(あなたは私を捜しに来てくれますか? それとも、自ら消えたことを幸いに、さっさと踵を返してしまいますか?)

 答えの分かり切った問い掛けなど、到底ハスズには出来なかった。

(きっとこの人は私を見捨てる……でも)

 その方がいいのかもしれないとも思う。自分がこれからしようとしていることを考えれば、見捨ててくれた方がどんなに心が軽くなるか分からない。

 思うと同時にハスズの足は止まっていた。

 鬼雨はハスズを置いて先を行く。獣道をひたすら進めばいいのだろうと言わんばかりに、振り返る素振りの欠片もなく。

(出来れば村に着く前に気が付いて欲しい。私がいなくなっていることに。

 そして、あんな村に足を踏み込まずに済むように……)

 そう祈りながら、ハスズはそっと踵を返した。

 ありがとう――と心の中で呟いて、ハスズが一歩を踏み出した時だった。

「どこへ行く」

 平坦な声が風と共に吹き抜けて行った。

 弾かれたように振り返れば、鬼雨が不機嫌そうな顔を向けて足を止めていた。

「ど……して……」

 問い掛ける声は掠れて、到底鬼雨まで届いているはずがない。

 それでも鬼雨は答えた。

「俺は宵から『お前を村に無事に届けろ』と言われている。何を考えて姿を暗まそうとしているのかは知らないが、捜す手間を掛けさせるな。言っておくが、お前が俺から逃げ切れると思うなよ。分かったらさっさと来い。迷惑をかけていると思うなら尚更な。それともお前には他に行きたいところがあるのか? だったらそこに連れて行ってやる」

 何故? とハスズは問い掛けていた。

 どうして今の今まで振り返る素振りすら見せなかったのに、と恨めしくも思う。

 それでも鬼雨は、問い掛けて来た。ハスズの意見を訊ねて来た。

(どうしてこの人は聞いてくれるの?)

 唇をしっかり噛み締め、瞬きを繰り返す。

 泣いてはいけないと意地になり、ハスズは聞いた。あなたは一体何者なのかと。

 鬼雨は答えた。

「俺は《渡り鳥》の鬼雨。心から救いを求める者を助ける。

 だから、泣くほど嫌なら俺に言え。言えばお前は依頼主だ」

 それはハスズにとって何よりも思い掛けない答えだった。

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