《渡り鳥》の叶える願い

橘紫綺

序章

 空は高く澄み渡り、一羽のトンビが悠々と渡り行く。

 日の暖かさはあるものの、時折吹く風は大分涼しく身が引き締まり、吸い込んだ空気が肺腑を満たせば自然と心が高揚し、見る者の眼を奪うのは色鮮やかな木々の群れ。赤に橙、緑に黄色。見事な色彩故に、ある者は溜め息を吐き、ある者は口を開けたまま魅了され、ある者は花見同様、酒瓶片手に紅葉狩り。

 色付けば、後は大地に散り積るだけとは思うものの、見目鮮やかに色付いた落ち葉によって埋め尽くされた地面は、湖面に写るが如く紅葉の美しさを余すことなく引継ぎ、見る者の眼を楽しませる。

 そんな中、鬼雨(きう)は荒れ掛けた古寺の前に立っていた。屋根瓦は所々落ち、障子も破れ、手すりの塗装も剥げ落ちて。木製の階段には雑草が自由に生え、枯れていた。

 色付く山の中にあり、ひっそりと忘れられかけている寺――それはまるで、極彩色の屏風に囲まれて、一人寂しく背中を丸めている古老のように鬼雨には見えた。内側から病魔に蝕まれ、助けを呼ぼうにも誰もおらず、ただ朽ち果てて行くだけなのかと悲しみ、諦めている古老のように。


(助けて欲しいか?)


 鬼雨は古寺の姿を纏った古老に訊ねた。

 秋風が木々を揺らし、紅葉が舞い散り、鬼雨の短い黒髪を逆立てるかのように額に巻かれた山吹色の布がバタバタ鳴いた。

 次いで、鬼雨の背後から古寺に向かって風が吹くと、袖の異様に長い紺色の着物と松葉色の袴が、見えない手で引っ張られるかのように煽られた。


(そうか。助けて欲しいのか)


 物言わぬ古寺の、無言の叫びを確かに受け取る。

「――今、助けてやる」

 鬼雨は口に出して応えると、冷たく光る鳶色の瞳で古寺を見詰め、病魔退治の第一歩を踏み出した。



 バンと勢いよく障子を開け放つと、中は更に荒れていた。酒瓶が転がり、食い物は喰い散らかされ、雑魚寝よろしくむさ苦しい男どもが惰眠を貪っている。

 隙間風もいくらでも入り込むだろうに、寒さなど何も感じていないかのように高いびきを掻いて寝ている病魔ども。

 病魔は古老だけでなく、近隣の村々にも魔の手を伸ばし勢力を拡大していた。

 酒も食い物も女も。全て奪えるだけ奪って行く。

 結果、病魔が身に纏って寝ているものは、到底男どもの物ではない女の着物。

 ざっと見渡す限り、少なくとも六人は連れ去られて来たのだと言うことが知れた。

 虫唾が走った。

 脳裏に過ぎるものがあった。

 苦々しいものが口の中に広がって、鬼雨がギリリと奥歯を噛むと、境内の奥で鼠が走った。

 誰かが寝返りを打ち、誰かが寝言を口走る。完全なる無防備。絶対に自分たちが狙われることなどないと言う自信の下、排除されるとも知らない病魔どもの過信。

 鬼雨は、無言のままに境内の中へ足を踏み入れた。ギシギシと歩く度に床が鳴る。

 その声は、救い主に救いを求める声なのか、宿主と化した病魔どもに警告を発する声なのか。

 果たして、鬼雨は最も間近に居た『山賊』と言う名の病魔の一人を見下ろすと、一切の躊躇いもなく膨れた腹を踏み付けた。

「ごぼぁ!」

 音にし難い悲鳴を上げて、腹を支点にくの字に体を折った男が目玉をひん剥いて眼を覚ます。

 直後。鬼雨が男の喉元目掛けて右腕を振り抜くと、男の喉元から鮮血が噴き出した。

「な?」

 寝起きに飛び込んで来た光景に、言葉を無くす男の仲間。

 鬼雨はその男目掛けて既に床を蹴っていた。

 男が己の得物を捜して戸惑っている間に腹を薙ぐ。パックリと破けた傷口から中身をぶちまけ、絶叫が一番鶏の如く惰眠をむさぼる病魔たちを目覚めさせた。

「何してやがんだ、クソガキが!」

「ふざけた真似してんじゃねぇぞ!」

「生きて帰れると思うなよ!」

 そこかしこで怒号が上がる。得物を手にする音がする。床を踏み締め、侵入者を追い出さんと鬼雨目掛けて殺到する。

 鬼雨はその間を駆け抜ける。すり抜け様に腕を薙ぐ。その度に鮮血が噴き出した。

 男どもは手足を失い、腹を裂かれ、喉を裂かれ、ある者は絶命し、ある者は苦しみ悶え泣き喚く。その声は男たちの頭に血を上らせ、鬼雨の頭を冷やして行った。

 男たちは鬼雨を捉えられず、鬼雨は男たちの攻撃の尽くを掻い潜り――

「こっちを見ろ! 小僧!」

 焦りと怒りが混じりあった怒号が響いたのは、ほぼほぼ満足に動ける人間がいなくなった頃。

 見上げれば、本来は本尊が鎮座する場所にひげ面の男は立っていた。それも、半裸の少女の手を後ろで掴み、喉元に山刀を突き付けて。

 年の頃は十四、五歳。鬼雨と同じかそれより下に見える少女は、はだけた肌襦袢から見えそうになっているささやかな膨らみを見知らぬ男に見られることが耐えられないのか、はたまた、喉元に突き付けられた凶刃に恐れをなしたものか、まだ幼さの残る顔立ちを精一杯歪め、ポロポロと涙を零しながら鬼雨を見降ろしていた。

「この小娘の命がどうなってもいいのか?!」

 男の怒鳴り声に合わせてパラパラと天井から埃が落ちて来る。

「貴様は何者だ! 何しにここに来た! 頼まれたのか? 村の連中に頼まれたのか? あ? どうなんだ!」

 答える間もなく矢継ぎ早に問い掛けて来る。

 その度に少女は怯え、びくびくと小さな肩を震わせ眼を閉じる。

 恐ろしいのだろう。当然。恐ろしいだろう。

 男の鬼雨には想像すら出来ない恐ろしい思いをしたと言うことは想像に難くない。

 野獣の如き男どもに攫われ、誰の助けも来ないこんな山の中の古寺で、死んだ方がましだと思える体験をさせられたのだとしたら……。

 それでも、改めて喉元に刃を突き付けられ、殺されるかもしれない恐怖を突き付けられれば、死にたくないと思うのは人の性。

 鬼雨はまっすぐに少女の眼を見ていた。

「聞いているのか小僧!」

 痺れを切らした男が唾を飛ばす勢いで身を乗り出して怒鳴り付けて来る。

「おい、お前――」

 鬼雨は少女に呼び掛けた。

「お前はまだ、死にたくはないか?」

「人の質問に答えろ! 小僧!」

「これから先、死んだ方がましだと思うことがやって来ると分かっていても、今はまだ、生きていたいか?」

 少女の涙に濡れた眼が鬼雨を見た。

「殺されてもいいのか! 無視するな!」

「生きたかったら生きたいと言え。そうすれば――助けてやる」

「させるかああっ!」

 ――と、叫び声を上げたのは、鬼雨の背後から襲い掛かった男だった。

 死体に紛れ込み襲い掛かる機会を窺っていたのだろう。鬼雨の頭を叩き割らんばかりに力一杯大鉈を振り下ろして来る。少女が眼を見開いて悲鳴を飲み込む。ひげ面の男は勝利を確信して歯を剥き出しにして嗤う。

 鬼雨は――

「っな?!」

 素早く反転すると左腕を掲げ、頭上で大鉈を受け止めた。

 鈍い金属音の音と共に大鉈は受け止められていた。頭上に掲げられた鬼雨の左手。大鉈に斬られた着物がはらりと落ちれば、現れたのは五本の刀剣の如き鉤爪の伸びる手甲だった。

 到底受け止められるとは思っていなかった男が驚愕の声を上げると同時に、鬼雨の右手が一閃。続いて踵を返した鬼雨の回し蹴りが、喉から血が噴き出す前に男を蹴り飛ばした。

「――それで。返事は?」

 スッと右手の鉤爪をひげ面の男へ向け、鬼雨は何事もなかったかのように少女へ問い掛けた。

 少女はボロボロと大粒の涙を零しながら震える手を鬼雨に向かって伸ばし――

「え?」

 少女は背後から鬼雨に向かって突き飛ばされていた。

 間の抜けた声を上げて少女が落ちる。その背後をひげ面の男が逃げ出して。

 鬼雨は、少女を見捨てて男を追った。

「きゃっ」

 背後で上がる小さな悲鳴を聞きながら、人離れした脚力で瞬く間に男との間合いを詰め――跳躍。

 突如自分に覆い被さる影に気付いたひげ面の男が驚愕も露わに振り仰いだとき、男は見た。

 自らに襲い掛かる怪鳥の鋭い足の爪を。

 それが、男の見た最期の景色だった。



「おやおやおや。こいつはまた盛大にやらかしたものだねぇ」

 寺にあるまじき凄惨な光景に呑気な声が響いたのは、全てが片付いたときだった。

 鉤爪を振り抜いて血糊を飛ばし、冷めた眼差しで山賊の最後の一人を見下ろしていた鬼雨が振り返ると、そこには少女を抱き起す美丈夫の姿。

 年の頃は二十も半ば。小麦色の肌に白銀の長髪を首元で結った、嫌に整った顔立ちの男だった。細い眉に一重の切れ長の眼。瞳は人にあるまじき鮮やかな翡翠色。袖のない黒い着物の上から肩を出すように羽織り、腰で簡単に紅の布で結び留めているのは、どう見ても純白の花嫁衣装。その裾を割って見えるのは黒い袴に足袋と草履と言う出で立ちでありながら、まるで違和感なく身に纏う男を振り返り、鬼雨は答えた。

「この古寺が望んだことなんだ。仕方がないだろ」

 その口振りはどこか拗ねたようなもの。

 対する美丈夫は、困ったものだと言わんばかりの微苦笑を浮かべて指摘した。

「まぁね、お前ならそう言うだろうとは思ったけどね。それでも女の子放り出して男を追い掛けるのはどうかと思うよ? ねぇ、お嬢さん」

「ふぇ?」

 突如間近で微笑みかけられ、少女の顔が瞬時に赤くなる。

 次いで、美丈夫の視線の先を思い出し、慌てて肌襦袢の前を掻き合わせる。

「怪我はない? 他に連れ去られて来た子たちはいるのかい?」

「は……い……」

「そう。怖かったね。大丈夫かい」

 浮世離れした整った顔に覗き込まれ、紅葉も顔負けに少女は耳まで真っ赤に染め上げ俯いた。

「……宵(よい)。いい加減そいつをからかうの止めたらどうだ。あんたの周りだけなんか違う世界が広がってるぞ」

 呆れ返った鬼雨の声に、宵と呼ばれた美丈夫は苦笑を向けて、挑発するかのように言葉を紡いだ。

「本来は君がやるべきことを代わりにやってあげているんじゃないか。

 こんな恐ろしい目に遭った子を労わらないでどうするんだい」

「あんたがいるんだからいいだろ」

「駄目だなぁ。そんなことじゃワタシが居なくなった後どうするつもりだい? せっかく師匠(せんせい)としてあれこれ教えてあげてるって言うのに、活用しないでどうする」

「俺が教わったのは戦い方であって口説き方じゃない!」

「連れないねぇ~。小さい頃は『せんせえ、せんせえ』っていつもワタシの後を追って来ていたと言うのに」

「いつの話だ!」

「昔も今もお前はワタシにとって可愛い教え子なんだがねえ」

「口説くのは女だけにしてくれ」

 嫌悪までは行かないものの、不快気に眉間に皺を寄せて不満を向ければ、宵はわざとらしく肩を竦め、少女に向けて舌を出して見せた。

「まあ、それはそれとして・だ。何も皆殺しにしなくてもいいと思うんだけどねぇ」

「生かして置いてどうする。生きている限り弱者が食い物にされるんだ」

「確かにお前の言い分も分かるけどね。他の仲間の情報を聞き出さないでどうするんだい」

「…………」

 声も無く笑われて、鬼雨は軽く目を瞠った。

「だよねぇ。お前はたまに後先考え無くなることがあるからね。仲間がいるかもしれないって可能性が浮かばなかったんだよね。一人ぐらい生かして置けば他の仲間も一網打尽に出来たかもしれないのに」

 と、宵が大袈裟に頭を振って見せれば、鬼雨は反射的に反論した。

「そ、それは、仕事の依頼に入っていない」

 それが想像出来ていたのだろう。宵はそれ以上追及することなく引き下がった。

「まあね。仕事の依頼は『攫われた娘たちを助けて欲しい』だからね。しょうがないから後始末はワタシがしてあげよう。その代わりお前は、連れ去られて来た娘さん達を捜しなさい。いいかい?」

 と優しく促されれば、鬼雨は唇を噛み締めたものの、『分かった』と存外大人しく返事を返して宵の言葉に従った。


 後に、見回りをしていた山賊の仲間が古寺へ帰って来たとき、そこには仲間の死体も一滴の血の跡も残っておらず、取り残された山賊は途方に暮れたが、それを気にする者はいなかった。

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