終章 想いは廻る

事件は終わり──

 あの後──真上まがみ家の住人たちは、突然泥と血に塗れて現れた宵子しょうこの姿に仰天し、さらに彼女が声を取り戻したことを知って絶句していた。

 さらに、彼女の説明によって庭の片隅で起きた惨劇さんげきを知らされることになった彼ら彼女らの恐怖や衝撃、動揺は察するに余りある。


 何より、夫の遺体に取りすがって涙する子爵夫人──母の姿を見るのは、宵子にとっても辛かった。

 母にしてみれば、彼女は徹頭徹尾、忌まわしい呪いの子だっただろう。夫が亡くなったのは宵子のせいだ、と考えても無理もないことだった。使用人が持ってきてくれた着物を纏ったクラウスに支えてもらわなかったら、まともに立っていることはできなかったかもしれない。


 夜明けと共に駆けつけた警察に対して、どう説明するかも悩ましいところだった。使用人たちに聞いても、父と春彦はるひこの企みを知っている者は誰もいなかったから。クラウスに蟲毒こどく入りの茶を呑ませた者も、そうとは知らされずにやっていた、ということらしい。


 でも、幸か不幸か、父たちは書斎の机に書付を残していた。

 恐らくは、が首尾良く運んだ後、おおやけに報告する内容をあらかじめ準備していた、ということなのだろう。その内容は、次のようなものだった。


 帝都を騒がせる「人喰い犬」は、この世の存在ではない、怪異のたぐいである。

 真上家に伝わる術と犬神いぬがみの力を使って居場所を突き止め、ほこらにおびき出す算段を整えた。娘の暁子あきこも、おとりとしてその場にいることを了承してくれた。

 すでに数多あまたの命を喰らった怪異は強敵であり、真上子爵も春彦も、決死の覚悟で臨まなければならぬであろう。しかし、帝都の安寧を取り戻すためにも喜んで身命を投げ出すものである──


 を知っている宵子とクラウスにとっては、図々しいことこの上ない偽り、建前の物語でしかない。

 でも、実際に起きた出来事は、父たちの書付に沿ったものでは、あった。


 つまり──父と春彦は、人喰い犬との激しい戦いの結果、相討ちとなって命を落とした。

 ふたりの無残な遺体と、干乾びた犬の死体を発見した警察は、そのように考えたのだ。

 もうひとりのも、その推測を裏づけた。気絶から目覚めた、暁子のことだ。


 暁子は、何があったかを問われても、こう繰り返すだけだった。


『言えないわ。言ってはいけないの。殺されてしまう。黙っているから! お願い、殺さないで……!』


 暁子は、春彦に脅された恐怖に心が捕らわれたままになってしまった。でも、それを知っているのは宵子だけ。

 聴取にあたった警官や母からすれば、人喰い犬に襲われて、目の前で父や婚約者が殺されて、さぞ恐ろしい思いをしたのだろう、としか見えなかっただろう。


 なお、宵子とクラウスの存在については、病弱な宵子をドイツの医学で診てもらうために彼に預けていた、ということになった。真上家を訪ねた時に彼自身が語ったことを、流用した形だ。

 そうして、彼の屋敷に滞在していたところ、宵子はあの黒い犬に攫われた、と──嘘と真実をほど良く混ぜると、とてももっともらしく聞こえるのだと、疑う様子のない警官たちを前に宵子は学んだのだった。


 とりあえず、世間が納得するであろう説明は、整った。

 そこで、本当のことを打ち明けるべきか否か──宵子とクラウスは、何度も密かに話し合った。


 何人もの少女を犠牲にしてきた父たちを、人喰い犬を退治した英雄として語られるままにして良いのかどうか。

 でも、真実を語ったところで、父も春彦もすでに命を落としている。死者を罪に問うことはできないし、そもそも術のたぐいを裁く法は明治の世にはない。

 父たちの計画を知らせる──あるいは思い出させることは、母や暁子の心にさらに負担をかけることになってしまうだろう。真上家の使用人たちも、世間から後ろ指をさされることになってしまうかもしれない。


 考えた末に、宵子はは秘めたままにしておく、と決めた。でも、それは父たちのせいで失われた命を顧みないということでは、ない。


「お父様と兄様の罪は、私が償おうと思います。真実を知る真上家の末裔としての責任です」


 宵子の決断に、クラウスは良いとも悪いとも言わなかった。彼女の決断を尊重すると、最初から決めていてくれたのだろう。

 だから、なのか──彼はただ微笑んで言っただけだった。


「ならば、俺は貴女を支えよう。いつまでも、ずっと」


 それはつまり、彼は祖国を捨てるということ。彼にとっての異国の地で生涯を過ごすということ。

 なのに、彼の笑顔は曇りなく、言葉には欠片の躊躇ためらいもなかった。

 信じられない。信じても良いのか、彼にそこまでさせて良いのかどうか。


(クラウス様……本当に……?)


 喜びよりも驚きと不安が勝って、宵子はすぐに頷くことができなかったのだけれど。


「俺が、そうしたいんだ。……貴女には、迷惑だろうか」


 青い目がわずかにかげるのを前に、疑ったり遠慮したりすることこそクラウスへの非礼になると気付かされて。宵子は彼の胸に飛び込んだ。


「いいえ! とても……とても、嬉しいです。どうか、離れないで。わ、私の……傍にいて、ください!」


 長いことをしゃべるのにも慣れてきたころだったから、宵子はどうにかひと息に、つかえることなく言い切ることができた。


「……そうか。良かった……!」


 鍛えた肉体のしなやかさと逞しさは、彼女を苦もなく受け止めてくれる。あの夜に何も着ていないところを見ているからこそ、思い切り身体を預けることができた。


 クラウスの温もりと力強さに包まれて、宵子はこの上ない幸せを味わった。


      * * *


 今の真上子爵家は、どこか閑散としてしまっている。


 まず、住人の数がとても少なくなってしまった。

 父が亡くなっただけでなく、母も、暁子の療養に付き添って地方の別荘に移ったのだ。もちろん、ふたりの世話のために、それなりの人数の使用人が屋敷を離れることになった。

 世間には宵子がそうしている、と説明していた通りの境遇に、入れ替わるように暁子が収まったのは、皮肉なことかもしれない。


(お母様にとっては……暁子だけが娘なのかしら)


 宵子の胸を、一抹の寂しさがちくりと刺すけれど、深く思い悩む暇がないのが救いだった。


 何しろ、父が亡くなり、母と暁子が屋敷を離れた今、真上家の家政かせいに関する何もかもは宵子の肩にかかっている。


 母と暁子に従った者たちだけではない。庭で起きた惨劇に怯えて屋敷を辞した者もいれば、単純に父の死によって仕事がなくなり、退職してもらわなわなければならなくなった者もいる。

 彼ら彼女らに退職金や、できれば次の働き口を紹介したり。残ってくれた者たちに、改めて仕事を割り振ったり。

 ほかにも、警察に対する説明や、財産の相続の準備を整えたり。ここしばらくの宵子は、目が回りそうな忙しさだったのだ。当然のように人と話す機会も多かったから、長らく使っていなかった喉を鍛え直すことができたのは良かった、だろうか。


(でも、やっと一段落ついたわ……!)


 調度の類もずいぶん減ってしまって、広々とした応接間を見渡して、宵子は微笑んだ。


 宵子が多忙だったもうひとつの理由が、真上家の家財道具や衣装や収集品の処分の手配だった。

 真上家の家計が苦しいというのは間違いのない事実だということが分かったから、使用人たちの退職金などを捻出ねんしゅつするために、価値のある品々を売り払わなくてはならなかったのだ。そのような品が残っていたのは良かったけれど、父は祖父から受け継いだ収集品などを手放すつもりはなかったことも判明したから、それはそれで情けないことではある。


(でも、これも償いの一環になるわ)


 家財を売ってできたお金は、「人喰い犬」に殺された少女たちの遺族にも渡した。

 早く事件を解決できなかったことのお詫び、としか言えないのがとても心苦しいけれど。その行動によって、真上家に世間から賞賛が寄せられるのも、正しいことではない気がするけれど。

 それでも、何もしないよりはマシではないだろうか。一応は名家と言われる真上家との関係を作っておけば、今後も宵子が手を差し伸べられる機会もあるかもしれないし。


(お父様もお母様も暁子も……みんな、ここを出て行ってしまったもの。そんなにたくさんのものがあったって──)


 寂しいような、すっきりしたような。不思議な気持ちで、宵子は何もない応接間を横切って窓辺に進んだ。警察が大勢出入りして、少し乱れてしまった庭を眺めようと。


 絨毯を踏む彼女の履物は、今日は西洋風のかかとの高い靴だった。纏う衣装も、やはり着物ではなく洋装だ。人に会う時は、このほうが気の強い女だと思われやすいから。

 知らない人、立場や年齢が上の人と会う機会が増えた宵子の、ささやかな戦略だった。


「宵子。ここにいたのか」


 と、彼女の背後で、こつ、と靴音が響いた。そして、ほかの誰のものよりも宵子の胸をときめかせる、低く優しい響きの声が。


「クラウス様……!」


 その人の名を呼びながら、宵子はスカートの裾を踊らせて、くるりと振り向いた。

 すると、部屋の入口にクラウスが佇んでいる。窓から入る陽光に銀の髪を煌めかせて。身体に合った仕立ての良い服で、すらりとした長身を引き立たせて。

 穏やかな笑みを湛えた青い目は、真っ直ぐに宵子を──特に、彼女の左手の薬指に嵌められた指輪を見つめていた。

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