愚かなほどに純粋で

①捨てられた姉弟

「もうすぐ母親ができるよ……」


 二十代くらいの若い男性が、重たい口調でそう言った。会話の相手は、まだ年端もいかない……どころか、言葉を理解しているのかどうかすら怪しい赤ん坊である。


「うー?」


 赤ん坊の柔らかなほっぺたを触る男性の指を、小さな手がきゅっと握りしめた。そして、その赤ん坊はニコッと笑った。


 赤子ながらに整っているとわかる顔が、くしゃっと笑う姿はとても可愛らしい。りんごのように赤く染ったほっぺたと、ミルクのように真っ白い肌。笑ったせいで細まったが、つぶらな瞳をしている。


 可愛らしい赤ん坊の笑顔ににつられて、若い男は穏やかな表情で笑った。そして、その名前を愛おしげに呼んだ。


真純ますみ……」


 と。


。。。


 あれから数年の月日が経ち、あの可愛らしい笑顔を浮かべていた赤ん坊は、7歳になっていた。


 菊地きくち真純ますみは艶のある黒髪に、ミルクのように白い肌。りんごのように赤いほっぺたをした、可愛らしい少女に成長していた。


 しかし、可愛らしい少女が身に纏っている洋服は、時代遅れでみすぼらしいとする感じる、いかにもな中古品で、赤ん坊の頃はふっくらとしていたほっぺたも、どこかやせこけて見える。


「あんた達、これからお客さんが来るから。部屋にこもって遊んでなさい」


 と、若くて美人だが威圧的で、派手な格好をした女性が子ども部屋の扉を閉めた。


 彼女が今の真純の母親である。名前は片桐かたぎり里奈りな。彼女は父親の再婚相手だった。


 真純が3歳の頃までは、優しい普通の母親だった彼女。しかし、父親が出張先の交通事故で亡くなってからは、今のような高圧的な本性を現した。


「お姉ちゃん……」

「大丈夫よ。翔狩ひかる。お姉ちゃんと一緒に遊びましょう」


 そう言って、真純はひとつ歳下である義理の弟、片桐かたぎり翔狩ひかるを抱きしめる。彼は里奈の連れ子である。


 里奈は実の息子にすら厳しく当たり、翔狩も真純と同じようにみすぼらしい服を着ていた。サイズも合っていないし、汚れが目立つ。


ガチャガチャ


「来たみたいだね……」

「ええ。大人しく遊んでいましょう?」


 里奈は毎日のように、を家に招き入れている。家に来る客は毎日違う男性で、子どもたちが客の前に姿を現そうものなら、里奈に酷い剣幕で怒鳴られるしぶたれてしまう。


 そのため、姉弟達は部屋の中でひっそりと、静かに遊ぶのだ。何故なら、音を立てても里奈は怒るから。


「あやとりをしましょうか」

「うん……」


 今日も薄暗い子ども部屋で、真純と翔狩はひっそりと、静かに遊んだ。


。。。


 それから、また数年の月日が経った。中学生になった真純は、制服のおかげでみすぼらしさが少しなくなった。


「ただいま……」


 と、真純は誰にも聞こえないくらいに小さな声で呟いた。家にいる母親からの返事はないし、声が聞こえようものなら怒り出す。分かっていても、リビングを通る時には必ず挨拶をせざるを得なかった。


 何故なら、リビングには父の遺影が飾ってあるからだ。


「へえ? 君、ここの娘?」

「え……はい」

「そうなんだ。流石は里奈の子だ。娘も可愛いね」


 リビングで寛いでいた男が、真純に声をかけてきた。学校帰りにはいつもリビング前を横切るが、声をかけてきた男は初めてだ。真純は驚いて、つい返事をしてしまった。


「……っ!」


 そして、すぐに後悔をする。男の隣に座っていた里奈が、物凄い表情でこちらを睨んでいるのだ。


「ごめんなさい……」


 真純はすぐに自分の部屋に戻った。部屋は相変わらず翔狩と同室で、ひとりひとりのスペースは小さい。真純は自分の布団の毛布を被ると、ガタガタと震える。


(ああ……きっと後でぶたれるわ)


 そう思っていると、唐突に部屋の扉が開いた。一瞬、翔狩が帰ってきたのだ。と思った真純だが、すぐに異変に気がついた。


(何故ただいまと言ってくれないの……?)


 真純は、きっと母親が入ってきたのだと思った。ぶたれると思って更に身体を震わせたが、それは違った。布団越しに優しく背を撫でられたのだ。


「翔狩っ!?」


 部屋に入ってきたのは、やはり翔狩だ。そう思って顔を上げた真純は、すぐに絶望する。


「お客さん……」


 ニタッといやらしい笑みを浮かべた若い男性が、真純の驚く顔を見て目を細める。


「やはり君は可愛いね。何歳?」

「え……?」

「昔は若くて美人だった里奈も、もう30だろ? やっぱり若い子の方がいいよなあ……」

「な、何言って……」


 男の言う言葉がまるで理解できない真純は、ガタガタと身体を震わせる。声も小さいし、震えていた。


「中学生なら、もうわかるでしょ? 君が相手をしてくれよ」

「……あ、う」


 嫌だと叫びたいのに、全く声が出ない。酷く小さな、声にもならない声で嗚咽をあげる。泣いてもどうにもならないことはわかっているが、恐怖でどうしても涙が止まらない。


「あはは。泣き顔も可愛いね」


 男が制服のボタンに手をかけた。ここまでされても、真純は恐怖で動くことが出来なかった。


「や……」


 これから、知らない人に酷いことをされる。人に言えないような辱めを受ける。真純は、いっその事気絶でもしてしまいたいと思ってギュッと目を瞑る。


 しかし、次の瞬間に聞こえてきたのは、真純にとっては安心出来る人物の声だった。


。。。


 あの後、本当に気絶してしまったらしい真純は、一番に翔狩の姿を探した。しかし、部屋に彼の姿はない。不安になった真純は、震える足でリビングの前に向かう。


 そこで聞こえてきたのは、里奈の声だった。


「あの女を殺せば、お前だけは養ってあげてもいいよ。生意気で邪魔な存在でも、私の息子だからね」


 彼女の息子は翔狩しかいない。真純は怖くなって、急いで部屋に戻る。そして、また布団を被ってガタガタと震えた。


ガチャ


「ひっ……!」

「姉さん。起きたの?」


 部屋に入ってきたのは翔狩だった。いつもなら安心できる声なのに、今は怖くてたまらない。


 優しい翔狩だって、今までの苦しみから開放されるかもしれないとわかれば、姉を殺すくらいするかもしれない。そう考えてしまうのだった。


「姉さん。あの男なら大丈夫。もう来ないよ」

「う……嫌。こ、殺さないで……」


 近寄ってくる翔狩に対して怯えている。それを理解した翔狩は、小さなため息をついた。そのため息にビクッと肩を震わせた真純を、彼は優しく抱きしめる。


「綺麗で可哀想な姉さん……。あの女ももういないよ。僕も君も、あいつに捨てられたんだ」

「でも……あなたは、私を殺したら養って貰えるって……」

「断ったに決まってるでしょ。何であんな女のために犯罪者にならなきゃいけないの? それに……僕は姉さんを見捨てたりは出来ないよ」


 それを聞いた真純は安心して、ついに大きな声で泣いてしまった。


 里奈がいないなら、声を上げても許される。今まで我慢し続けた涙を、声を、真純は張り上げた。


「二度と顔も見たくないって。きっと、あの女はもう、ここには帰ってこない。本命の男の家に行くんだってさ。もう姉さんをぶつ奴はここにはいないよ」


 優しく撫で続けてくれる翔狩に縋り付き、真純は疲れて眠りに落ちるまで、ずっと大きな声で泣き続けるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る