第19話 バラ園の約束
「おばあちゃん。あのさ……」
言葉が途切れる。祖母に何を訊こうとしたのだろう。
「おばあちゃん、
「うん。わかった」
祖母は、ゆっくりゆっくりバラ園を出て行った。沙羅は、
「いとーちゃん。おばあちゃんは、後悔してるのかな、やっぱり」
伊藤は、沙羅をじっと見ながら、
「わからないな」
「でも、おばあちゃん、さっき……」
「そうだね。だけど、オレにはわからないよ。
伊藤が正しいとわかっているのに、沙羅は、
「だいたいさ、家が裕福じゃないから釣り合わないって何? 大事に想ってもらってたのに。どうして諦めなきゃいけなかったのか、私には理解出来ない」
祖母が祖父と結婚したから自分はここにいる。それはわかっている。
「私は、そんなの嫌だ。おばあちゃん、可哀相だ」
「
沙羅は、涙を流していることに気が付き、慌てて目元を手の甲で拭った。伊藤は、何も言わずに沙羅を見ていた。
「ごめん、いとーちゃん。おばあちゃんたちのことが、何だか上手く消化出来なくて。私がいろいろ言ったって、考えたって仕方ないのにね。ただ、私は後悔したくない。あんなに寂しそうな背中を見せながら、これからずっと生きていくのは嫌なんだ」
沙羅は、『千尋』を見つめながら、
「ここで、
「旦那様は、『千尋さん』と仰いました」
急に知らない声がして、沙羅と伊藤はその方に振り向いた。祖母と同じくらいの年齢。『旦那様』と言ったことから、きっとこの人もここで働いていたのだろう、と沙羅は思った。
「祖母の名前を言われてましたか」
「そうです。そして、ちょうどあなたが立っている辺りに倒れられました」
「ここですか」
「そうです」
沙羅は、自分の足元をじっと見た。苦しんで倒れているその人が見えるようだった。その人はきっと、何度も祖母の名前を呼んだのだろう。
「あの……川野辺氏にご家族は?」
「いませんよ。あの方は、生涯結婚されませんでしたから。ご兄弟も親戚もなくて、それでこのお屋敷と庭が市の物になりました。そういう取り決めをされていましたから」
「独身……」
「そうです。あの方は、ずっと……」
その男性は、言い淀んで、口を閉じてしまった。が、聞かなくても沙羅にはわかった。川野辺氏は、生涯祖母を想っていたのだろう。だから結婚しなかったのだろう、と。
「あ。私は、川野辺氏に雇われた庭師でした。今も、管理を手伝わせて頂いています。『千尋』の気性をわかっているのは、私だけですからね」
「『千尋』は、難しい性格なんですか?」
沙羅の質問に、その人は笑い、
「そうだな。一見、穏やか。その実、頑なな所がありますね。ま、人間の千尋さんは、そんな人ではなかったように思いますけど」
「頑なだから、ここを出て行ったのではないでしょうか?」
「どうでしょうね。彼女がどうして出て行ったのかは、誰にもわかりませんから」
そんなはずはない。みんな、知っていたはずだと沙羅は思ったが、口にはしなかった。
「話し過ぎました。仕事をしないと」
彼は微笑みを浮かべそう言うと、一礼して去って行った。沙羅は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
「三上さん。そろそろ行こうか」
沙羅は頷き『千尋』に背を向けたが、すぐに振り返った。沙羅が立ち止まったのを見て、伊藤は、「三上さん?」と言って沙羅を見た。
「いとーちゃん。私、ここで約束するよ。後悔しない人生を歩む。私なんかって思わないようにする」
「わかったよ。あとは、オレとまた、ここでもどこでもいいから、一緒にお出かけする」
伊藤が笑顔で言う。沙羅は深く頷くと、「わかった。約束するよ」と言った。
まだまだ問題は山積みで、何も解決していない。考え始めると、不安が押し寄せてくる。が、きっと大丈夫だ、と思った。沙羅は、伊藤の横顔をそっと見た。伊藤は、それに気が付き、「どうした?」と訊いてくる。沙羅は、真面目な顔で、
「いとーちゃん。これからさ、迷った時、相談してもいいかな?」
沙羅の言葉に、伊藤は「え?」と言い、見る見る笑顔になっていった。
「オレ、頼りにされてる? すっごく嬉しいんだけど」
「えっと……人に頼るのは苦手だけど……頼ってもいいのかな」
「いいです。頼ってほしい。だって、友達なんだから」
「友達。そうだね。友達」
「今は、友達でいいよ。言っただろう。急がないって」
いい人過ぎて、困る、と沙羅は思った。
「あ。千尋さん、こっちに手を振ってくれてる。オレも振り返そうっと」
伊藤は、両手を大きく交差させて振った後、沙羅の方に向き、
「さ、じゃあ、行こうか」
手を伸ばしてきたが、すぐにハッとした表情になり、手を引っ込めた。沙羅は小さく笑うと、伊藤の隣に立ち、自分から伊藤の手を握った。伊藤が、驚いた顔で沙羅を見た。
仕事以外で人と手をつなぐことなど、なかった沙羅。緊張して、顔が強張ってしまった。が、これで少し変わって行ける、と思った。
「いとーちゃん。行こう」
「ああ。行こう」
バラの香りに包まれた二人は、未来へと歩き始めた。
(完)
バラ園の約束 ヤン @382wt7434
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