第18話 この花が咲いたら

 祖母は、愛おしそうに『千尋ちひろ』を見ていた。漏れ聞こえる声は、「ここで……」と言っているようだった。祖母は、バッグからハンカチを取り出して目元を拭うと、


「このバラにまつわる話をしなきゃね」


 無理矢理微笑む祖母に、沙羅さらは首を振って、


「ごめん。もう、いいよ。話さなくていい」


 が、祖母は首を振り返し、


「それはダメよ、沙羅ちゃん。話すって決めて、ここに来たんだから。聞いてちょうだい」

「だって……」


 祖母と沙羅が、何度も同じ言葉を繰り返すのを聞いていた伊藤いとうは、


「あの……さっきの受付の女性は、やはりここで働かれていたんですか」


 祖母と沙羅は、言い合うのをやめて伊藤を見た。祖母は、伊藤に頷いて見せると、


「そう。すずさんも、わたくしと一緒に、料理や掃除をしたわ。一番仲が良かったと思います」

「そうだったんですか」


 伊藤が口を閉ざした。沙羅は、伊藤から祖母へ視線を移し、


「それで?」


 話を聞く覚悟を伝えた。祖母は、沙羅の肩を軽く叩くと、


「聞いてくれるのね。ありがとう、沙羅ちゃん」


 祖母は、『千尋』をじっと見ると、「それじゃあ、話すわね」と言い、バラにまつわる話を始めた。


「もう、随分昔のことだけれどね……」



 屋敷の主人の川野辺かわのべ太郎たろうは、三十代の半ばだった。大きな屋敷に広い庭。管理する為、何人も人を雇っていた。その一人が、千尋であり、鈴であった。


 太郎は優しい性格で、誰にでも丁寧に接していた。雇い主ではあったが、全ての人に、さん付けをしていた。千尋は、太郎から「千尋さん」と呼ばれると、胸がドキッとして、顔が赤くなるのを感じていた。そんな反応をする千尋を、一緒に行動することの多い鈴が、よくからかってきた。


「千尋さん。あなた、旦那様のこと……」

「違うわよ」

「あら。まだ、何も言ってないじゃない。何が違うのかしら」


 そう言っては、笑っていた。千尋は、何も言い返せず、黙ってしまうのが常だった。


 太郎は、広い庭にたくさんの、様々な種類のバラを育てていた。ただ育てるだけではなく、品種改良までするようになった。太郎に呼ばれて、時々そのバラを見る機会を得ていた千尋は、その花が咲くのを楽しみにしていた。


 ある日、いつものように太郎に呼ばれて、太郎が品種改良をしたというバラの前に行った。バラの蕾を見つめていた太郎は振り向くと、「千尋さん」と声を掛けてきた。


「何でございますか?」

「約束をしてほしいのです」

「約束……でございますか?」


 思いがけないことを言われて戸惑う千尋に、太郎は微笑を浮かべ、


「そうです。約束です。簡単なことなんですけれどもね。この蕾が花を咲かせたら、私の話を聞いてもらいたいんです」

「お話なら、いつでもお聞きいたします」


 千尋の返答に、太郎は小さく笑った。


「この花が咲く、その時でお願いします。聞いてくれますね」


 断る理由もなく、千尋はただ頷き、


「承知いたしました。お聞きします」

「ありがとう。千尋さん」


 そして、何日も経ずにバラは咲いた。千尋は太郎と、その花を見ていた。何とも可愛らしい花だと千尋は胸躍らせた。太郎が、千尋を覗き込むようにして、


「千尋さん。このバラは、いかがですか?」


 穏やかな声音。千尋は深く頷くと、


「とても可愛らしいです。香りも甘やかで」

「では、気に入ってくれましたか?」

「もちろんですわ」

「そう。じゃあ……」


 太郎は、急に真面目な顔になって、


「このバラに、あなたの名前を付けさせてもらえませんか?」

「名前……でございますか? ええ。ようございます」

「それから、もうひとつ。こちらの方が重要です」


 太郎は、そこまで言うと、目を閉じて深呼吸をした。そして、目を開けると、


「このバラは、あなたを想って作りました。ですから、この花が咲いたら言おうと決めていたのです。千尋さん。結婚して下さい」

「え……」


 突然の申し出に、千尋は言葉もなかった。何か言わなければと思うのに、頭が混乱してしまい、どうしたらいいのかわからなくなっていた。


 太郎が、はーっと息を吐き出した。それが、愁いを秘めているようで、余計に、何か返事をしなければ、という気になった。が、相変わらず何も言えないままだ。


「千尋さん。返事は今すぐでなくても結構です。ただ、私の気持ちを承知していてほしい。それだけです」


 太郎の表情が、急に柔らかくなった。千尋が太郎を見ると、


「戻りましょうか」

「は……はい」


 ようやくそれだけ言った。家の中に戻ると、鈴とともに夕食の準備に取り掛かった。その時だけは、余計なことを考えずに済んだが、仕事を全て終えた後、現実が戻ってきて、千尋の鼓動を速めていた。


(どうしたらいいのかしら。でも……私は、ただの雇われ者。家は、決して裕福ではないし、旦那様となんて釣り合わないわ。一生、旦那様に恥ずかしい思いをさせてしまう)


 千尋は、カバンに荷物を詰め込むと、夜闇に紛れて屋敷を出た。


 この土地から随分離れた場所で、様々な仕事に就いたが、結婚を機に、結局はバラ園から三駅の所で暮らすようになった。



「おばあちゃん、後悔はしてないわ。この前も言ったわね。おじいちゃんと出会って結婚したから、あなたのお父さんが生まれて、それからあなたと世羅せらちゃんも生まれてきた。この運命に感謝しているわ。だけど……」


 何か言いかけた祖母は、しかしその先を言わず、首を振った。


「これで良かったのよ」


 祖母はそう言って、また無理矢理微笑んだ。

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