青野海と赤居苺10
「青野!」
呼びかけられて、無理に夢から覚まされたみたいに一瞬体が強張って、一気に溶けた。振り返ると葉子が楽屋の入り口に立っている。
「まだそんなとこいんの? もうめっちゃ時間だけど」
「え?」
時計を見ると、確かにギリギリの時間だった。焦って立ち上がると、やはり衣装で体が重い。葉子は世話がやける、とでも言いたげな顔をしているが、葉子もまだここにいる時点で罪の重さは同程度だ。
「なんでスマホ持ってんの」
大股で歩く自分の手の平に汗と硬いものを感じて、はじめてスマホを握りしめていることを意識した。いらないのに持ってきてしまった。
「花梨が渡してきた」
「ブログ読んだ?」
「読んだ。あんたは?」
「読みましたねー」
移動しながら、たくさんの人間に挨拶をする。よろしくお願いします。よろしくお願いします。こうして連呼していると、どれだけの人間が私たちを輝かせるために動いているのかがわかる。
「このグループってさ、もろもろ私の方が責任軽いっぽくない? 知ってたけどー」
ずけずけと葉子は言った。ヒールがこつこつと小気味よく音を立てていて、それがどことなく楽しげで苛立たしい。
「わざわざ口にしなくていいよ」
「するんだなぁこれが」
「なにそれ」
「青野さんはまだ学んでいないようですからいいますけど」
「喋り方むかつくな」
「言葉にすることが大事なんですよ。むしろ、言葉にしたことだけが大事」
そういって、葉子はへらへらと笑った。
「だから、頼りにしてますよ。副リーダー」
思わず舌打ちをすると、あはは、といつものぬるい笑い声が返ってくる。
暗がりを進んで、そこかしこに走っている鉄骨をくぐりながら奥に進むと、頭上にある膨大な人間の気配がだんだん色濃くなっていく。
期待を抱えている気配。 何かを待っている気配。これから夢をみようとしている人たちの気配。
舞台裏の薄暗闇の隅の方に、赤い衣装のしっぽが見えた。
「じゃ、よろしくおねがいしまーす」
そういって、葉子は私の背中を適当に叩いた。一体なにがリーダーかと思う。けれど、悔しいことに、葉子の言っていることは大抵いつでも的を射ていて、正しい。
光の少ない場所でも、赤色は赤色だとよくわかる。 一番人の気を引く色。
いつごろからか、苺はライブがはじまる直前まで隅の方でじっとしているようになった。誰とも話さず、しゃがみ込んで背中を丸めて、本当にただじっとしている。自分の世界に閉じこもる。そのことを知っているから、誰もライブ前の苺に近寄ろうとはしなくなった。
自分の手をにぎりこんで、じっとしている。
「苺」
声をかけると、顔があがった。
その顔が、あの日と重なって見えた。あの時と、何も変わってないように。
「とーこちゃん」
声が掠れている。か細く、燃え尽きて消えていく火みたいに。
言葉にすることが大事。言葉にしたことだけが大事。
葉子の言うとおりだ。現に今、私の体には、苺の言葉が熱を持っているみたいにくすぶっている。言葉を紡ぐのが下手なあの子が語った本当のこと――。
私はときどき、アイドルになれていなかったら、どんな生活を送っていたのだろうと考えることがあります。どんな風に暮らしていけたのか、すこしも想像ができないです。
昔から、人が簡単にやってみせていることが、いつまでもできませんでした。たとえば服を着ること、歯を磨くこと、お話をすること、手を洗うこと、じっとしていること。簡単だとみんな言います。どうして同じことができないのかとみんな言います。そして私も、ずっとそう思って生きていました。
どうして人と同じことができないんだろう。どうして普通になれないのだろう。
でも変えようと思っても、何が悪いのか、何が原因なのかがわかりませんでした。私が話をするとみんな笑うか、困ったような顔をします。だから、あまり喋らないように生きてきました。私は自分のことを恵まれた才能をもった人間だと思ったことは一度もありません。人より何かひとつでも多く持っていると思ったことも、優れていると思ったことも、たったの一度もありません。
私は生きているのがとてもつらかった。とても苦しかった。
でも、今は違います。
みなさんにはヒーローがいますか。私にはいます。そのヒーローは、私がどんな暗い場所にいても、どんなに暗い思いでいても、そこへ明かりをさしてくれる存在です。
生きているのが本当につらかったとき、その人はたった一言の光をくれました。私は、自分一人では自分のことを優れているとは一瞬も思えないけれど、その人の言葉があるから、自分を信じることができます。素晴らしいものをもつ人間だと、思い込むことができます。
私は特別な存在です。そして、あなたにもそうであって欲しいと思います。あなたもそうであると信じています。
もしあなたが生きるのがつらくて、苦しくて、どうすることもできない生活を送っていたとしても、その人生に光がさすように、その日々が特別だと思えるように、これまでもこれからも、そういう思いでステージに立っています。
だからできれば、私の声の届く場所にいてください。その暗い場所に光が届くように、世界が本当はどんな色をしているのか、あなたにもわかるように、必ず光を届けるから。世界にはいろんな色があります。あなたの人生を明るくさせる、素敵な色が必ずあります。
私にとって、メンバーひとりひとりの色が、そういう色です。
夕陽、いつも私の失くしたものを真剣に探してくれてありがとう。人の大切に思っているものやことを理解して、同じように大切にしてくれるところが、その優しさと強さが大好きです。
花梨、いつも私が理解できてない話を噛み砕いて、わかるまで教えてくれてありがとう。誰がどんな思いでいるのか、苦しさも悲しさも全部わかるのに、明るいままで寄り添ってくれるところが大好きです。
すみれ、私と共通していることなんて一つもないのに、いつも同じ目線でいてくれてありがとう。理解できないものを理解しようとして、理解できなくても絶対に否定せず、ただ飲み込んでくれるところが大好きです。
桃ちゃん、いつも私たちにしかわからない世界で一緒にいてくれて、遊んでくれてありがとう。人の言葉や行動に惑わされず、好きなものをただずっと好きでいて、そのために戦い続けているところが大好きです。
葉子ちゃん、昔からいつもからかったり、くだらないことを言ったりして笑わせてくれてありがとう。それから、一度も怒らないでいてくれてありがとう。なんでもかんでも受け止めてくれるのに、絶対に自分の軸がずれないところが大好きです。
海ちゃん、いつも私の世界の真ん中にいてくれて、あの時、私に声をかけてくれて、救ってくれてありがとう。どんなに絶望的な状況でも、どこにも光が見えなくても、絶対に諦めずに前に進んでいくところが大好きです。
大好きな人たちに囲まれて、またライブができることが嬉しいです。
私たちのいるステージが世界で一番明るい場所だといえるように、精一杯がんばります。絶対に負けないからね。
「どうしよう」
ステージ裏の隅で、苺は弱々しく懇願するように私を見た。
「声が」
枯れているのか震えているのかわからない。でも、ひどい声だ。周りの音に消されてしまうような、弱々しい声。
大人たちはどたばたと動き回っていて、頭上ではいくつものざわめきが重なりあっている。いろんな人が、いろんな場所で、今、この大きな会場を動かしている。
私たちが出てくるのを待っている。
「苺」
歌もダンスも全部体に入っている。冒頭のたった数分を凌げればそれでいい。最初さえ乗り切れれば、最後までいける。
私がやるしかない。
それが最適解だ。
「一度しか言わないからよく聞いて」
そういうと、苺はじっと私の顔を見た。
こんなときでも、苺は私の言葉を信じている。信じ切って待っている。たぶん、今までもこれからもずっと。
心臓がどくどくと鳴った。
「苺、今まで私のことを守ってくれてありがとう。私のことを信じてくれてありがとう。真ん中に、立ち続けてくれてありがとう」
誰かが、どこかで、あるいはすぐそこで、今この瞬間も、私たちのことを待ってくれている。いろんな事情を抱えながら、いろんな感情を抱えながら、決して美しいばかりでないさまざまなものを抱きながら。
それでも、美しいものを見つけたくて待っている。
「このグループのセンターはあんただよ」
見下ろすと、出会ったときの同じ瞳がそこにあった。不安そうな、何を信じればいいのかわからないようなさみしい瞳。
どうしてそんな顔をする必要があるのだろう。
そんな顔は、しないでいい。
「苺はすごい。誰もあんたの代わりなんてできない。声なんて出なくたっていい。踊りだってめちゃくちゃでいい。真ん中に立って、そこにいるだけでいい」
苺、と声をかけると、その顔に光がさしたのがわかった。
誰かの光であることは、重くて苦しくて、ときどき逃げ出したくなる。けれど、でも――誰かの光であれることは、私自身の人生の、光だ。
「私が信じてるものを信じて」
手を伸ばすと、素直にその上に手が乗った。
「なにがあっても、今度は私が守るから。余計なこと考えないで、ただ真ん中に立ってればいい」
「うん――うん」
弱々しく枯れた声に、水が染み込んでいくように、力が湧き上がっていくのがわかった。
「わかった。信じる!」
その時、いけるかー、と少し離れたところで葉子の声がした。
手を引っ張って暗がりの真ん中に苺を連れて行くと、みんな私と同じように、何も心配いらないという顔で苺を見ている。
私たちは信じている。私たちの信じているものを。私たちを信じている人たちを信じている。
「じゃ、円陣しよー」
「ていうかあんた円陣好きすぎじゃない?」
「この前、海さんと二人でやってましたよね」
「なにそれ、初耳っす!」
「ウケる! 今度やるとき写真撮らせてくださいよ」
「やってないし撮らせない」
「またまたー」
「桃瀬さん、こっちです」
「初日だけど誰が声かけるー?」
「リーダー以外で」
「え、なんで?」
「ぐだぐだするっすもんね」
「この前お経みたいになってたし」
「お経だったら尊いからいいじゃん」
「謎理論」
「あの桃瀬さん? 裾踏んでます」
「無難に海さんでいいんじゃないすか」
「無難とかいわないで」
苺、と呼びかけると、その口がぽかんと開いた。
「あんたがやりな」
「私? やったことないよ」
「そうでしたっけ?」
「たしかに、やったことないかも」
「簡単だよー、正味好きな果物でも花でも、叫んどけば円陣っぽくなるから」
「それはみどちゃんだけ」
「じゃあ好きな動物さけぶね!」
「やめて?」
ふふふ、と苺は笑った。声に張りが戻っている。もう大丈夫だ。
肩を組んで丸くなると、そこには私たちにしかわからない世界が生まれる。辛いこと、苦しいこと、悔しかったこと、思い返せば、そんなことばかりだ。そういう仕事だ。でもステージに立てば、そんなことは一瞬で吹き飛んでしまう。
すべてが明かりで照らされる。
「えーっと、初日です。いろいろあったけど、いろいろ迷惑かけたけど、ずっと見守っててくれてありがとう。もう大丈夫です。いい先陣きってくるんで、ついてきてください。それぞれの色で輝いて、みんなを幸せにしましょう! いくぞ!」
おお、と手を掲げると、どこかでマイクが拾っていたらしく、頭上から期待のざわめきの声が波のように寄せてきた。
「よし」
苺が振り返る。
「じゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい」
そして私たちの赤色はステージに上がっていく。
後ろ姿が眩しくて、私は少し目をつむった。苺の上がっていった先から、暗い世界に光が指す音がする。 美しくないものを抱えて、それでも美しいものを諦めない世界の音。
「みなさんIntense*Toneのライブへようこそ!」
私の世界で一番好きな景色がそこにある。
白を好きな黒たちの赤 犬怪寅日子 @mememorimori
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