第11話 ずっと見守っていて


 百合子はレースのカーテンを引き、茜色に染まりつつある晴れ昊を見上げた。遠くから数羽のカラスが寝床へ戻ってゆく聲が聞こえる。伽藍とした六畳程度の兄の寝室で、百合子は小さく嘆息した。


「兄さん。見送りしなくてよかったの?」


 百合子の視線の先には、痩せこけた男がひとり。寝台の背もたれに寄り掛かって妹の百合子を見詰めていた。

「……あゝ。あの子にはこれ以上みっともない格好を見せたくないからね」

「随分と大人びた子だったわね。十二歳と思えない」

「あの子、早生まれだから未だ十一だよ」

「……尚更、信じられない」

 理人まさひとはふっと乾いた笑みを浮かべた。

「彼に安心して甘えるよう教えるのは、私たち大人の仕事だよ」

 百合子はふたたび嘆息する。今度は安堵の気持ちを込めて。いつの間にか理人は寝台から降りて立っていた。枯れ木みたいに痩せ細っているけれど、兄は再度また立ったのだ。己の力で。其れがたまらなく嬉しく、百合子は微笑んだ。


「兄さん、元気出た?」

「……少しは、な。あんなに目茶苦茶なお願いをしてくる小さな子の為にも私は生きねばならないからな」

「そうね」

「まったく。あの子はいったいどのような金平糖になることやら。薄靑色の小さな粒なのか、朱色の凸の丸い粒なのか。とても楽しみだ」

「そうね。そしてそれを支えて見届けるこのも私たち大人の責務でしょう?」


 あゝまったくだ、と理人は笑う。迷いを導くのは決して生みの親でなくてよい。彼らを育て守護まもる誰かであればいい。そしてその誰かは立ち止まった迷いをを導き、その先へ繋いでやる。それは決して線路を敷くという意味ではない。線路まで誘うのだ。いつかきっと素晴らしい誰かになれるように。誰でもない、甘くて苦い金平糖になれるように。









 

 押しかけるが如くやってきた少年は、矢継ぎ早に言いたい放題云って帰って行った。ある意味、児童こどもらしい行動とも言えるかもしれない。涙を堪え、未だ男でも女でもない聲で理人を奮い立たせようとする美しい少年。そんな彼の真っ直ぐで澄んだ瞳に、理人は惹かれたのかもしれない。

 

 ねえ、マサさん。耳だけ貸してよ。何も言わなくていいからさ。一寸ちょっとでもいいから。

 マサさんさ、どうせ息子さんが死んだのは自分の所為だと思って、自分を責めて罵って問い詰めたんでしょう。僕もね、マサさんにも非はあると思うよ。酷い?冷たい?でもさ、こんなところで薄っぺらい慰めの言葉並べ立てて云っても無駄じゃん。嘘っぱちだなんて誰から見てもわかるじゃん。だから僕は、僕が思ったことを言うよ。


 僕はまだ子供で大人の人みたいに難しいことはわかんないからさ。マサさんが苦しんでいる本当の理由も、今どんな気持ちなのかもわかんないよ。でもさ、死んじゃうのは違うと思うんだ。――今でもさ、思うことがあるんだ。若しも、若しもだよ?僕がもっとうまく立ち回れていたら、父さんは家を出て行かず、母さんも寂しい思いをしなくて意地を張ろうなんてしなかったんじゃないかなって思うんだ。僕が居なければ、て思うこともある。


 けどさ。けど若しも僕が死んじゃったら、一生父さんは家へ戻って来ないと思うんだ。僕は父さんを母さんから一生遠ざけてしまうんだ。僕は母さんに父さんを返してあげられなくなっちゃうんだ。

 だからさ、僕は思うんだ。どんなにみっともなくても、償うなら、生きて、いて、苦しまないといけないんじゃないかなって。それでやれることを精一杯やる。


 僕はひたすら父さんに戻ってきて、て聲を掛けてさ。そうすればいつかきっと戻ってきてくれるかもしれないし、戻ってこないかもしれない。僕はきっと辛くて、苦しくて、悲しくて。きっと何度だって死にたい気分になる。消えたい気分になる。でも、本当に償うなら生きなくちゃ。


 もう償う相手がいないかもしれない。でも、なら尚更生きなくちゃ。だって、死んだ人はとても苦しんで追い詰められて死を選んだのに、選ばされたのに、苦しめた張本人が安らかな気分でさっさといなくなっちゃうなんて、不公平でしょう?だから、絶対生き抜かないといけないんだ。

 残酷?そうかもね。でも僕にとって、嘘で塗り固めてでも美しくみせないといけない世界なんて――既に残酷だと思うんだよね。


 それにね、僕は思うんだ。きっと多くの人はずっと、ひたすらひとり罪の意識に押しつぶされながら償うのかもしれない。何か出来ることはないかと迷って苦しんで藻掻いて結局何も何故ないかもしれない。

 けれど、償わないといけないひとだから何も出来ない何もしてやれない、てことはないんだということだよ。そのひとの金平糖は砕けて溶けて、無惨な形になっちゃったかもしれない。でも、固めれば少し様になるかもしれない。いつかは甘い味を振りかけて、他者ひとの心を安らげるかもしれない。


 僕はマサさんに、救われたよ。心が軽くなったよ。僕は、どんな僕でも僕なんだ、て思えるようになったよ。


 だからさ、マサさん。苦しみながら生きてよ。辛いことを思い出しながら、僕みたいな児童こどもを助けてよ。幸せにする自信がない?そんなもの、今から考えたって仕方ないじゃない。――僕は、なるよ。幸せに。僕はマサさんが最初に助けてくれた、幸せ者第一号になるよ。必ずね。


 だから見ててよ。見守っててよ。痛みを堪えながら、生きて、僕がきらきら輝く金平糖になるのを、見届けてよ。きっとだよ――……。















 

 靑い、靑い雲ひとつ無い晴れ昊の下、大柏川おおかしわがわ沿いの桜並木を通って幾人ものの少年少女たちが往く。少年たちはみな、釦まで黒の詰め襟を身に着け、少女たちはみな灰色かいしょくのラインの入った濃紺のセーラーを纏っている。

 薄紅色の花弁はなびらがはらはらと舞う中、少年少女たちは不安でそわそわし、期待へ胸を膨らませていた。今日は四月一日。新しい生活の始まる日である。


 そんな目出度めでたい様子を余所に、人の流れから外れた路端にぽつんと、黒の詰め襟を着たひとりの少年。子鹿のようにすらりと上背のあり、鴉羽の髪を清潔に短く整えている。顔貌は美しい卵型で、僅かに伏せられた目はアーモンド型。


「なんだ、ハルくん。こんな処で待っていたのか」


 少年――悠葵はるきの数歩前から、穏やかで深みのある低音が鳴った。聲の主を視界に留めると、少年はにやりと笑って爽やかなテノールを鳴らす。


「久しぶり。そしておはよ、マサさん。密会みたいで素敵でしょ?」

「密会って、君ねえ」

 ははは、と悠葵はからからと笑う。

「でも、久しぶりに逢いに来てくれたんだから、静かな場所がいいって思ってさ。俺にとって生き別れの父親に逢う、みたいな気分なんだよ?」

「君の親父さんは生き別れではないだろう」

 ふたたび悠葵はからからと笑うと、大柏川の欄干に凭れかかって昊を見上げた。薄紅色の枝葉の隙間から目映い白の光の粒がちかちかと瞬いている。あまりの眩しさに悠葵は手を翳し、目を細めた。


「立派になったね」

 深みのある男の聲に、悠葵は「うん」と応える。

「今は――……何年生だっけ?」

「もう高校二年だよ。来年は大学受験」

「そうか。だいぶ、経ってしまったんだな。随分と待たせてしまった」

 理人は、物悲しそうに目を伏せる。悠葵は「別に、いいじゃん」と笑い、理人の肩を叩く。


「これから僕が大学生になって、社会人になって――……。結婚して子供なんか生まれて、育児に振り回されたりしてさ。これからも俺は進むし、俺はまだまだきっと磨かれて行く。だからさ」

 悠葵はふわり、と春の陽光を浴びる路の中央に躍り出る。白い歯を見せて笑うその様は、何とも目映い。

「見届けてよ。俺はきっと」



「甘くて苦い、金平糖になっていくからさ」

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それは甘くて、苦い金平糖 花野井あす @asu_hana

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