第10話 逢いにゆく


 僕は自分が嫌いで、嫌いで堪らなかった。上っ面ばかりよくして、本心を抑えて。偶然手に取った金平糖は実によく僕に似ていると思った。不揃いな凹凸で醜い姿を、鮮やかな色と甘い味で己をよく見せる。浅はかで、哀れで。僕はずっとずっと、嫌いだった。


 けれど


 あの男は、そんな僕のそばに静かに寄り添ってくれた。期待も失望もない、虚ろな眼差しで。あの男は、僕を美しいと云った。甘くて、苦い金平糖は味があって美しいと、あの濃淡のない聲で云ったんだ――……。



 ばたん、と一台の軽自動車の扉が閉められた。白のワゴン車だ。運転席から百合子が貌を覗かせ、「駐車してくるからその辺で待っていて」と云うので、悠葵はるきは少し離れた場所で待った。昊を見上げれば鱗雲の浮かぶ晴れ昊。風は穏やかで、実に皮肉な天気だと悠葵は思った。

 悠葵は百合子やマサの生家を訪ねていた。マサは一命を取り留め、病院での応急処置が済んだ後、実家に戻されたらしい。悠葵ははじめて習志野の景色を見渡した。


「ハルくん、待たせたわね」


 車を停め終わったらしい。百合子が爽やかな笑顔を向けて駆け寄ってきた。悠葵への人見知りは収まったらしく、言葉に淀みがない。悠葵は微笑んで「ううん」と答えた。

「この街は、綺麗なんだね」

 悠葵は心から感心した様子で言った。此処は習志野の中でも沿岸部の地域らしい。悠葵の住む市川の町並みに比べると路も家も整然としている。一軒一軒のあいだも広い。百合子はにこやかに返した。

「埋め立て地だからね。計画的に建物は二階建てまで、この区間は集合物件禁止、とかね」

「へえ……なんか海浜幕張みたい」

「ふふ、あそこはオフィス街だから、また少し違うけれどね」


 百合子は洒落た煉瓦壁の家の前に立ち止まると片手鞄から鍵をひとつ取り出した。よくある、左右に凹凸のある金具の鍵だ。百合子はゆったりとした動作で鍵を扉に差し込み、捻った。

 (動作がゆっくりしているところは、兄妹なんだな)

 かちゃり、と解錠の音を立てた扉を矢張りたおやかな仕草で引いて開ける。マサも動作のゆっくりしたひとだった。妙なところに共通点のある兄妹なのだなと、悠葵はくすりと笑った。

「ただいまあ」

 間延びした百合子の聲。百合子は未婚で、実家で老いた母親の手伝いをしているらしい。父親は既に他界していると、車の中で百合子が云っていた。悠葵は「お邪魔します」とだけ言って室内に這入った。


「木の匂いがする」

 何となしに、悠葵は独り言ちる。古びた木の匂いだ。床材の匂いに違いない。玄関は比較的広く、すっきりと片付けられている。靴棚の上に生けられたクリスマス・ローズの花が殺風景な玄関を彩っていた。二階建てらしく、玄関を抜けた先に階段があった。

「ごめんなさいね、何もなくて」

 百合子はそう言うと、年期の入った桃花心木マホガニー卓子テーブルに花柄の白いカップを置いた。白のティーポットにはアール・グレイの紅茶を淹れているらしい。悠葵は百合子に手招かれ、椅子に腰掛けた。


「紅茶にミルクは混ぜる?」

「あ、うん」

「お砂糖は?」

「それは、いらない」


 悠葵はそわそわと落ち着かず、周囲を見渡した。上品に飾り付けられた家だ。たしかに穏やかな百合子の家に相応しいと思える。普段は百合子とその母親のふたり暮らしだから、尚更華やかなのかもしれない。

「紅茶を飲んで待っていてちょうだい。兄さんの様子を見てくるから」

 百合子はそっとミルク・ティーの入ったカップを悠葵に寄越すと、とたとたと二階へ上がっていった。途端に悠葵の心の臓がどくん、と跳ねた。


 (模試でも緊張したこと、ないのに)


 悠葵は心を鎮めようと、ティー・カップを傾け、紅茶を煽る。まろやかなミルクの味と、爽やかなアール・グレイの香りが口いっぱいに広がる。あまり慣れない味だ。通常ふだん、家でひとりで居ることの多い悠葵は專ら水か麦茶ばかりを飲む。何ならばカルキの臭いたっぷりの水道水が一番多いかもしれない。悠葵がカップをソーサーに置くと、二階から戻ってきたらしい百合子がそばへ寄ってきていた。


「ハルくん。兄さん、丁度起きたよ」

 悠葵はきゅっと唇を噛みしめた。

「うん――今、行く」

 すっくと立ち上がると、起立性の貧血なのか僅かに立ち眩む。それでも悠葵は踏み留まり、百合子の元へ駆け寄った。百合子は無言で悠葵を二階へ誘った。室は階段を上がって一番奥の室らしい。百合子はそっと立ち止まると「兄さん、ハルくんだよ」と聲をかけた。返事はなかった。


「マサさん、這入はいるよ」


 悠葵は構わず、扉を開けて室へ足を踏み込んだ。室は思いの外明るく、カーテンが開け放たれていた。あまりの目映さに悠葵は一寸、手で目を庇った。漸く光に眼が馴染むと、悠葵は緩慢ゆっくりと瞳を開き目前を見据えた。其処には木製の寝台ベッドがあり、その上で上身を起こして座るマサの姿があった。

 約ひと月ぶりに見たマサは、元々痩せ細っていたのにも関わらず更にけ、青白い肌に浮かぶ隈が一層深く感じられるようになっていた。あの虚ろな眼差しは、すべてを諦めたようなそんな哀しい眼に変容かわってしまっていた。

 悠葵はふう、とひと息つくと一歩前に出てマサを見据えた。


「……マサさん。久しぶり」

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