第9話 届かぬ懺悔


 私は妥協というものを実に嫌っていた。やるからにはやる。それが仕事だろうと、子育てだろうと。私は大手企業の営業マンで、所謂「遣り手」であった。私の社会人人生は順風満帆で、美しい妻も娶れた。ひとり息子にも恵まれた。


「この子には最高の教育を受けさせて、最高の人生を容易してやろう」


 私は息子が生まれるや否や、妻にそう言った。妻も同意したようで、嬉しそうに「そうしましょう」と応えた。――だがしかし、実際に子供を教育するとそう上手くはいかないものだ。子供はすぐに怠けるし、すぐに駄々こねる。机に座らせてもすぐに泣き叫んで逃げようとする。私は心を鬼にして、私は常に厳しく我が子を


「こら、勉強なさい。今からそんなことで挫けるようでは、碌な人間にならないぞ」

「厭だ!友達と遊びたい!」

「学校の休み時間で事足りるだろう。今からしっかり勉強しなければ、将来大人になって後悔する。これは


 息子は私を毛嫌いしているようだったが、それでも構わなかった。私には息子を幸せにする義務がある。親として、息子を完璧に育て上げる責務がある。私は遅くまで働く傍ら、息子に厳しく言い含め勉強させた。最高の教育の受けられる学校へ入学させ、より将来の門戸の幅を広げてやるためだ。

 その甲斐あってか、息子は有名な私立中学に入学し、そのまま高校へも上がった。その際にも決して成績を下げぬよう、確実に予習復習させ、熟にも通わせた。息子の成績は常に上位にあった。私と妻は鼻が高かった。――だから真逆、大学入試で失敗するとは思わなかったのだ。そして――息子が頸を括って自死するとは思いもよらなかったのだ。


「わたしが、もっとこの子に気遣ってやれば……もっと話を聞いてあげれば……」

 妻は何度も遺影の前で泣いた。泣いて、泣いて、追い詰めて。食事もろくに摂らないようになり、殆ど眠れなくなった。そうして徐々に妻はやつれて、目も当てられぬ程に痩せ細り――息子の仕事ひと月もしない内に、後を追って死んだ。息子と同じように頸を括って。私は、孤独ひとりになった。私は――何も感じられなくなった。

 私の世界は灰色で、無音で、何もない世界になった。眠ると、私を責める聲と蒼白な妻と息子が鮮やかに映り、私を追い立てた。私は眠るのが恐ろしくなった。そうこうしているうちに私は仕事も手に付かなくなり、休職することになった。


「ねえ、兄さん。昔好きだった絵でも描いてみたら?」


 時折様子を見に来る妹がそう云った。私が室でひとりぼんやりとしているのに耐えられなくなったのであろう。私は妹の勧めに従い、絵筆を手に取った。私はすぐに景色を観察し、画用紙に落とすという作業に夢中になった。その間だけは、すべてを忘れていられる。その間だけは、景色は景色だった。


「……昨日の、おじさん?」


 茜色に染まった昊の下。夕焼け昊を描いていると、ひとりの児童こどもが私に聲を掛けてきた。美しい貌かたちの少年だ。ランドセルを背負っているから小学生だろう。どうやら彼は私を知っているらしい。私は暫く記憶を手繰り、少年との接点を探した。思いの外その記憶はすぐに思い出された。

「君は、昨夕さくせきの」

 そうだ。大柏川の欄干に凭れかかってぼうっとしていた子だ。あんな時間までひとりで居るのを不審に思って、つい聲を掛けてしまったのだ。私はその時何かを口走ったような気もするが――頭がぼんやりとして、そのことまでは思い出せない。


 その子は「ハル」と名乗り、私にとても懐いた。何故あんなにも懐くのか、その理由が理解わからず、私は大いに戸惑った。話す内容も思い付かないから、出来るだけハルの方を見ないようにした。けれども、ハルは私のそばへ来て静かに其処にいた。――時折何やら訊ねてはいたけれど。

 ハルについて何となく分かったのは、彼は家族で悩まされているだろうことと、人の目を酷く気にしていること。私はそんな彼に寄り添う内に――彼を救えば、贖罪になるのではないかと――勘違いをした。ハルは苦しんで苦しんで、己を見失っていた。きっと息子もそうだったに違いない。私が赦されるはずがないのだ。私が生きていていいはずが――ないのだ。





「百合子さん。僕を、マサさんのところへ連れて行って」

 悠葵はるきは逸らすことなく真っ直ぐと百合子を見据えた。それは丸い頬に黒目がちの大きな瞳という幼い顔貌に不釣り合いな、大人の貌。なるほど、彼はきっと苦労をした子供なのだろう。児童こどもでいられなくなってしまった、哀れな少年なのだろう。百合子は苦しげに悠葵を見詰めた。

「……わかったわ。けれど、ひとつだけ理解してちょうだい」

 百合子は目を伏せ、静かに続ける。

「兄が何を云っても、悪いのはあなたじゃあ、ないの。あなたは何も悪くない。だから決して気負わないで」

 悠葵は変わらず百合子を見詰めていた。悠葵は少しだけ大きな目を伏せた。

「うん。絶対気にするな、というのは無理だけれど――……でも」

 悠葵は面を上げ、力強く言葉を振り絞った。

「マサさんに、僕はから、僕は挫けないよ」

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