第8話 あのひとは、いま


「……ええと…………誰?」


 悠葵はるき怖々おずおずと尋ねた。濃紺のトレンチ・コートを纏ったその女は四十後半くらいの年齢よわいを思わせる風体をしていた。眼鏡越しに映る切れ長の目尻には細かな皺と、ぽつぽつと数点の染みがある。ざんばらに団子に纏められた栗色の髪には艶がなく、白髪が散見された。女は上擦った聲で言葉を絞り出した。

「と、と、突然ごめんなさい。その、人を探していて」

 例え相手がうんと歳下の子供でも緊張する性質らしい。女はおどおどと手をもてあそび、身體を揺らしてそわそわさせている。


「えと、それで何で僕に聲をかけたの?」

「そ、その。とても綺麗な子と聞いていたから……」

 それまた曖昧な情報をもとに人探しをしているものだ。幼いながらに悠葵は呆然とした。「綺麗」などという感性は人によって異なるし、小学生に「綺麗」などと感じる者がいるのか。同学年の女児でも気になる相手には「格好良い」ということばを使うことが多いように思われるし、同性に対しても「可愛い」という語を多用しているように感じる。


「…………ええと、誰から言われたの?」

「あ、やだ。ご、ごめんなさい。遠野とおのという男を知らないかしら」

 まったく知らない。悠葵は貌を引き攣らせた。そもそもその「遠野」さんはいったい幾つのひとで、女なのか男なのかも解らない。あまりの説明下手な女に悠葵は頭を抱えた。

「その、「遠野」さんはどんなひとなの。僕と同じくらい?もっと下?それとも上?女のひと?男のひと?」

「あ、えと。私より五つ上の男よ。……その、よく此処で小学生の子とお喋りとかしてた、て言っていて……それで、ええと。とても綺麗な男の子、て……そのそれで……ええと……」


 思考が混乱したのか、女は目を回し遂には押し黙ってしまった。悠葵はこれまで、気の強い母親や、子供達を追い回す教師ばかりを見てきたから、実に新鮮な性質の大人の女だと感じる。いったい如何どうやって社会生活を送ってきたのだろうかと小学生ながらに心配になるほどに緊張しい。悠葵は呆れ混じりに云う。

「誰かのお父さんなの?そのひと。でも、遠野なんて名字の同級生は僕にはいないよ」

「え、えと違うのよ。その……」

「それとも怪しい人?」

「そ、その怪しいかはわからないのだけど……」

 わからないのかい。悠葵は内心で思わず漫才師のように叫ぶが、喉のあたりで押し留めた。彼女はこれでも必死に何かを伝えようとしているのだ。


「ね、猫背で長身のひとを、知らないかしら?」


 女の言葉に、悠葵は瞠目した。悠葵は喰らいつくように女に詰め寄った。

「そ、それって。目が死んでて無口で……」

「え、ええ」

「名前は「マサ」さん?」

「ちょっと違うけれど……わたしの知っている彼は遠野とおの理人まさひとっていうのよ」

 トオノマサヒト。それが、あの男の本当の名前。悠葵は動揺を隠せないでいた。真逆まさか、マサの知り合いが己のもとを訪れるとは。悠葵はやや高揚を覚えながらもそれを一心に堪え、ことばを続ける。

「そ、その。マサさんとは、いったい……」

 女はあらいけない先に言うべきだったわね、と呟き、直ぐに上擦った聲で応える。

「わ、私は理人の妹で、百合子ゆりこっというのよ」

「へ、へえ」

 そう言われれば、目元は似ている、と悠葵はじっと女――百合子を眺めた。けれども痩せ型のマサと違い百合子は太ましく、黒髪だったマサと異なり栗色の髪。目元を覆われてしまうと、兄妹には見えまい。


「それで……百合子さんはどうして此処に?」

 すると百合子は暗い貌をして口を噤んだ。その表情の理由が思い当たらず、悠葵は厭な焦燥に駆られた。悠葵は怖々こわこわと百合子の貌を除き込み、緊張した聲で続ける。

「百合子さん?」

 悠葵の緊迫した面持ちを察したのか、百合子は慌てた様子で聲を張った。

「ご、ごめんなさい。怖がらせてしまって!」

「は、はい」

 突然の大聲に悠葵は圧倒され僅かに後ろに引き下がる。百合子はといえば、彼女自身、己の聲に驚いたらしく目を白黒させ貌を紅潮させていた。百合子はすうはあと数回深呼吸をし、気持ちを落ち着けると漸く真っ直ぐと悠葵を見据えた。


「私の、兄はね――……自殺未遂をしたの」


「…………え?」

 悠葵の思考が追い付かない。悠葵は真白ましろになった脳内で考えを巡らせようとするが、何も浮かび上がらない。あの、無感情そうな男が、自死を試みた。それがどうにも現実を帯びてくれない。そもそも、自殺という言葉が聞き慣れない。新聞やテレビでしばしば耳にすることばではあるが、身近でない遠い何処かの出来事くらいにしか思っていなかった。

「いつ……?どうし……て?」

 悠葵は小刻みに震える喉を震わせ、言葉を吐き出す。

「十一月の……最後の水曜日よ。偶然、私が様子を見に行っていて……それで……」


 十一月の、最後の水曜日!それは、悠葵とマサが逢った最後の日だ。マサの様子が可怪しくなった、あの日だ。悠葵は口元を手で覆った。

「それ……僕が、最後に逢った……若しかして、僕の、所為?」

 悠葵が言い切ると、はっと我に返った様子で百合子が聲を張った。

「違うわ!決してあなたの所為なんかじゃない。あなたの所為であるはずがないのよ。だって兄は……」

 百合子はしくしくと涙を落として項垂れた。そして、ぽつり、ぽつりと小さな聲で言葉を紡いだ。


「兄さんはずっと、後悔していたのよ――……」

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