第7話 ひとりの冬


 しんしんと、寒さがより濃くなっていく。冬は深まり、どんよりと厚い雲に覆われたそら低くに太陽が登っている。びゅうっと時折吹くからっ風はより一層冷たくなり、厚手の外套コートなしで出歩くのは少し億劫な程度に寒い気候になっていた。――あれから、およそひと月程度が経ち、十二月も終わりに近付いていた。


「おおい、夏目。一緒に遊ばね?」

 サッカーボールを抱えた鈴木少年が愉しげな聲を上げた。その後ろにも二、三の少年たちが連なり、みな口々に「夏目、サッカーしようぜ」などとはしゃぎたてる。教室の片隅でランドセルに通知表などを仕舞っていた悠葵はるきは面を上げ、口を開いた。

「ごめん、帰らないと」

「ええ、なんでだよ。明日から冬休みだし、宿題なんて後でいいじゃん。それとも大掃除の手伝い?」

「違う違う。僕、そろそろ受験日だからさ」

 悠葵が肩を竦め、乾いた嗤い聲を零すと、鈴木少年は実に不服そうな面持ちになる。

「ええ、少しくらい大丈夫だろお?なんでそんなに勉強するんだよ。実は夏目、ガリ勉?」

「仕方ないだろ。試験が結構難しいし、一月の真ん中が本番なんだしさ。僕だって机にかじりつきたくねえよ」

「てか、何で試験受けないといけないんだよ。中学はそのまま行けるだろう」


 理解されないのも致し方あるまい。多くの小学生の児童こどもには中学受験という行事いべんとは無い。そもそも中学受験など、余程金に余裕があり、かつ教育熱心な養育者を持たぬ限り経験しない。そのうえ義務教育課程である中学は然程金を積まなくとも学校へ通わせる事ができるのだから、高額な資金を支払って私学の中学へ我が子を送りつけるなど可成酔狂な養育者とも言える。

 故に何故この時期にそんなに根詰めて勉学に励まねばならぬのか、大多数の児童こどもたちには想像できないのだ。悠葵は申し訳無さそうに頬を搔き、「受験終わったら一緒に遊ぶからさ」と代わりの提案をする。それでも矢張り少年たちは納得の行っていない様子で、悠葵は仕方なく押し切るようにして教室を後にした。


 悠葵が校門の外に出ると、周囲には多くの児童こどもたちの姿で溢れかえっていた。彼らはみな明日から始まる冬季休暇に胸を躍らせ、クリスマスや年末年始などの予定を語らい合っている。期間としては夏よりもうんと短いが、それでもクリスマスや正月は幼い子どもたちには一大行事イベントであることには変わりない。微笑ましさと僅かな羨ましさを感じる光景を他所に悠葵はひとり、帰路についた。


 (マサさん、如何どうしてるのかな)


 家路の途中、児童公園の前で悠葵は立ち止まった。あのいつものベンチに長身で猫背の男の姿はない。あの日からまったく彼の姿を見ていない。悠葵にはそのことが酷く悲しく思えた。あの日、悠葵の泣き止んだ頃。マサは穏やかだけれど苦しそうな面持ちをしていた。あんなマサは初めて見た。悠葵にはそのことがずっと気掛かりでならない。それに――……。


 (僕に掛けていたあの言葉。まるでマサさん自身に言い聞かせてるみたいだった)


 外からの不条理に負けるな――マサには、「不条理」へ何か覚えでもあったのであろうか。虚ろなまなこをしてあんなにも何に対しても興味のなさそうな男に。悠葵は無人のベンチに何となしに腰掛けてみた。隣に誰もいないベンチは寂寞せきばくとした空気を感じさせた。

 視線を前方へ向けると、幾人の児童たちが駆け回っている。普段いつもより早くの刻限の為か、彼らの貌は活き々々として、鮮やかで明瞭に思われる。悠葵は家へ帰る気になれず、ただぼんやりと児童こどもたちが駆け回るのを眺めた。


 (そう言えば、マサさんは此処の近くに住んでいるのかな)


 何となしにそう考えた。夜もこの付近あたりを彷徨いていたのだから、思ったよりも悠葵とご近所さんなのかもしれない。悠葵の家はあまりご近所付き合いというものをしないから、近くにいったいどんな人が生活しているのか知らないのだ。

 (まあ、聞こうにも)悠葵はその大きな黒目がちの目を伏せた。(マサさんの本名すら知らないのだけど)

 それはマサも同様で、マサも悠葵の本当の名を知らない。勿論、卒業式までは「夏目悠葵」を名乗っているけれど、中学へ入学するころには「宮村みやむら悠葵」になっているなどと知る由もない。少し考えれば互いを深く知らぬ理由で――如何してマサが公園を訪れなくなったのか、如何して普段はあんなにも鉄面皮なのか、如何してあの時あんなにも苦しげだったのか。其れ等の理由に予想すら立たない。そんな浅い関係の男に大泣きして慰められたのだ。


「若しかして「ハルくん」ですか?」


 矢庭に、悠葵の頭上からくぐもった女の聲が降った。聞き覚えのない聲だ。

「え――……?」

 悠葵が驚いて聲のした方へ面を上げて振り返ると、ふくよかで眼鏡の中年女がひとり、悠葵の真後ろに立っていた。その眼差しはおどおどと自信なさげに彷徨っていた。

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