第6話 甘くて、苦い金平糖


 何も、生まれつき呪いに縛られていたわけじゃあない。物心付く頃は、何てことのないごく普通のありふれた家庭だった。ちょっぴり母さんのほうが稼ぎが良いくらいだけれど、そんな家族は探せば五万とある。フルタイムで会社員としてばりばり働く母さんと、個人でウェブデザイナーをしながら趣味で絵を描く父さん。

 取り立てて言うなれば、あまり言葉を交わさなかったくらい。母さんは忙しくて疲れてるし、父さんもまた熱中したいことがあった。でも僕だって子どもなのだから、甘えたい時もある。僕は一度だけ、父さんに駄々こねたことがある。


「やだやだ!遊んでよ。いっつもお絵描きばっか。たまには一緒に遊んでよう。みんなみたいに、遊園地にだって行ってみたい。ねえ」


 僕はわあわあ泣いて暴れて、父さんを責めた。けれども父さんは絵筆を離すことなく、僕の言葉に耳を傾けない。そうかと思えば母さんが帰ってくるなり、母さんへ愚痴をこぼした。


「おい、子どもの世話は母親の仕事だろう。五月蝿くて敵わん」

「はあ?私だって忙しいのよ。あんた在宅で、趣味やっている時間があるんだから、あんたがやりなさいよ」

「趣味ではない!将来の投資だ」

「またそんな世迷い言を!本気で絵描きになれるなんて思ってんの?現実を見なさいよ」

「お前だって認めてくれただろう!ちょっと稼ぎがいいからって図に乗りやがって」


 僕の我儘がふたりの言い争いを生むなんて思いも寄らなかった。夜通し父さんと母さんは罵倒し合い、とうとう翌日には父さんは母さんから「出ていけ」と命じられ、父さんもそれに同意した。元々夫婦仲がそんなに良い方ではなかったが、真逆まさか別居にまで話が進むとは想像もしなかった。父さんはちいさな賃貸アパートの室を契約すると、最低限の荷物を纏めて直ぐに出て行った。


「お父さん、お父さん。待ってよ、お父さん」


 僕は走って父さんを追いかけた。大きなボストンバッグを肩からぶら下げた父さんは暫く振り返ることもせず、足を進めた。けれども数歩すると、足を止めた。

「お父さん……」

 涙を目一杯に浮かべて、僕は何とか父さんのシャツの裾を掴んだ。一心に走ったから息も切れていて、汗ぐっしょりだった。けれども、父さんをこのまま見失ってしまう方が恐ろしく思えて僕は一心に父さんにしがみついた。


「お父さん、行かないでよう」


「……まったく、聞き分けの悪い子どもだ。はあ、こんなことなら子供がほしいなんて話、聞くんじゃなかった。子供なんて生ませるんじゃなかった」


 父さんは冷たい語調で言い放つと、僕の手を振り払った。僕を見下ろすその目は鈍く光り、汚物を見るような軽蔑の色を浮かべていた。僕は口が利けず、只々唖然とした。父さんの大きな背中が見えなくなるまで、何も出来ないでいた。





 

 きい、きい、きい……


 しんとした夜の公園で、ぶらんこの吊り具の擦れる音が鳴る。母親からメールが入ったかと思い、携帯電話を開くと、「残業で遅くなるから適当に夕飯は済ませなさい」という連絡だった。


 じゃり……


 静かな足音に悠葵はるきがブランコを漕ぐのを止めて面を上げると、上背のある猫背な男が立っていた。先刻と異なり、黒のマフラーを巻いている。だが真っ直ぐと向けられた虚ろな眼差しは変わらない。マサは表情を変えることなく云った。

「そんなところで何してるんだい」

 悠葵はへらっと笑った。

「マサさんこそ」

「私はコンビニに用事があって外に出ていただけだよ」

「ふうん」


 悠葵はふたたびブランコを漕ぐ。勢いを付けて、高く、高く、昊高く上がる。手を伸ばせばあの厚い雲を掴めるのではないか、という錯覚に苛まれるほどに高く。マサはブランコを囲む柵に腰かけて、ただ其処に居てくれた。悠葵は勢いを付けてブランコから飛びおり、地面に着地した。誰も乗らなくなったブランコは虚しくきい、きいと音を立ててやがて静止した。


「僕がもっといい子だったら、父さんは出て行かなかったのかなあ……」


 悠葵の呟くような掠れ声が冷たい空気に溶ける。悠葵は昊を仰ぎ、尚叫び聲にならない悲鳴こえを上げる。

「僕の我儘の所為でね、父さんはずっと別居してたんだあ。でもとうとう離婚するんだって。たくさん、たくさん頑張って良い子になろうとしてたのに、遅かったのかな。足りなかったのかな……。それとも取り繕っただけの、でこぼこな僕だと駄目だったのかな……」

 だがその聲も虚しく溶けて消えて往く。それはまるで沫雪あわゆき。何時までもかたちになることない蜃気楼。


「外野の私が言うのもなんだが。君に非はない。有ってはならない、と私は思う。君はその年齢に見合わない分別があり、達観している。それは詰り――十分に努力している、と言えまいだろうか」

 淡泊な聲でそう告げると、マサは黒のマフラーを悠葵の頸に巻いた。人肌のぬくもりがカシミアの生地から伝わり、悠葵の胸を詰まらせた。悠葵はマフラーに貌を埋め、きっと歪んでいるに違いない己の表情を見せまいとした。


「それに――……」マサは僅かに切れ長の瞳を細める。よく見れば、その目元には青黒い隈があった。「私は金平糖を美しい、と思うのだよ」


 くすり、と己を嘲るような笑いを悠葵は溢した。

「見かけは、ね。そりゃあそうさ。だってそう見えるようにしているんだもの。綺麗な色と甘い味でこぼこなのを隠してさ。きっと本当は醜い色をして、苦いかもしれない」


「いいじゃあ、ないか」


 取り作った様子も感じられなく、揺らぐことを知らない虚ろな眼差し。マサは僅かに口元を緩めた。きっと、彼なりに微笑んでいるのだ。その不器用な微笑には偽りを感じさせぬ、清らかさを感じられた。マサは優しい手つきで悠葵の頭をそっと撫でた。


「甘くて、苦い金平糖。いいじゃあないか。ただ甘いだけの、綺麗なだけの金平糖なんかよりずっと味があって好い。懸命に己を伝える其の様は、愛おしいとすら感じられる」


 つうっと一筋の涙が悠葵の頬を伝った。悠葵はそれをみっともなく感じてマフラーで隠そうとするが、だんだんに込み上げる嗚咽がそれを遮断さまたげる。気が付けば、聲を上げていた。哀しくて、苦しい、聲。悠葵は飛び込むようにマサに抱き着いた。

「僕、ずっとずっと、母さんの期待に添えるように勉強も習い事もこなして……クラスのやつらと愉しくもない会話を愉しそうにして……父さんの期待に添えるように、誰にも甘えないようにして……でも、でも……本当は疲れたんだ。少しは休みたいんだ。中学受験だって、したくてするんじゃない……母さんの見栄に付き合わないときっと……母さんにまで、捨てられちゃう……から……」


 悠葵は鼻を啜り、暫く泣いた。聲が枯れるのではないかと思われるほどに大きく哭き叫んだ。泣いて泣いて、漸く心が落ち着くと、悠葵は鼻をすすり、己の貌を拭う。

「落ち着いたかい」

 マサが静かな聲で云った。悠葵はこくり、とひとつ頷き、面を上げた。マサはいつもの仏頂面を解き、僅かに目元を緩ませて何だか優しい――けれども何処か哀しい面持ちをしていた。

「……マサさん?」

 悠葵が小頸を傾げると、マサはごつごつとした大きな手で悠葵の頭を撫で、穏やかな語調で吐露した。


「きっと苦しめられていたんだろうな、。矢張り、だなんてそんな浅はかな事を考えてはならなかったんだろうな」


 マサの言葉の意味が理解出来ない。急にマサが遠くに行ってしまった気分になる。悠葵は理由の分からぬ焦燥を覚えてならなかった。けれどもマサは悠葵に尋ねることを許さず、静かに言葉を零した。


「確かに不揃いの凹凸は不格好でそれを甘さで隠すなどみっともないかもしれない。けれども、故に金平糖は愛おしい。君は十分に頑張って美しい金平糖になったんだ。そしてこれからもそれは磨かれてゆく。だから、己を責めてはならない。外からの不条理な暴力に屈して、己を卑下してはならない」



 そしてこの日を堺に、マサを見掛けることはなくなった。

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