第5話 別離
すっかり陽が暮れて、厚い雲越しに映った弦が上に張った月が僅かに西へ傾いていた。人通りの少ない本北方の住宅街の街頭は煌々と光を灯し、
「……あれ、明かりが点いてる?」
リビング・ルームあたりの室が明るく光っている。普段であればこの時間、まだ母親は帰宅していない。母親は定時で上がってもあと一時間は戻らない。故に家の明かりを付ける住民は居らぬはずで、悠葵は「消し忘れたかな?」と小首を傾げて玄関の鍵を開けた。
「え」
悠葵はたじろいだ。其処には男物の、大きくて草臥れた革の靴。母親の知人か何かのものかとも思ったが見慣れた黒のパンプスの靴は見当たらない。若しや空き巣か何かではあるまいかと悠葵はランドセルを盾とするようにして翳しながら、そろりそろりとリビング・ルームへ向かった。すぐに通報できるよう携帯電話を握った手に汗が滲む。心の臓が飛び出しそうになる程の早鐘を打つ。
「は、悠葵?遅いから習い事に行っているのかと」
矢庭に、真横の階段から少しざらついたテノールが鳴った。咄嗟のことで聲も出ず、悠葵は思わずランドセルを聲の主に向かって投げつけた。
「わっ馬鹿!落ち着きなさい!お父さんだ、お前のお父さん!」
「え……」
悠葵は漸く冷静になり、投げられたランドセルを受け止めて尻餅を付いた聲の主を見た。ひょろひょろで中背の、青白い男。黒の細いワイヤーフレームの眼鏡を骨ばった無精ひげの貌に乗せている。悠葵は唖然とした。――悠葵の父親だ。
「……と、父さん?」
ははは、と乾いた笑い聲を零すと、父親はランドセルを小脇に抱えながら立ち上がる。悠葵はそれ以上言葉が思いつかず、口を開けたままになっていた。息子の間抜けな様子を愉快に思ったのか、父親はくすくすと笑い、骨ばった細長い手で悠葵の頭をぽん、ぽんと撫でた。
「久しぶりだな、悠葵。少し背が伸びたか?でも矢っ張り小っちゃいな」
「きっと直ぐに伸びるよ。……父さんは……」悠葵は僅かに言い淀み、小さな聲で続けた。「帰ってきたの?」
すると父親は苦々しく笑った。そうだよ、とも違うよ、とも返さない。そのことが悠葵の胸に深く深く圧し掛かり、不安にさせる。父親は少し困ったように頬を掻き、はにかんだ。
「学校どうだ?矢っ張り成績は今の良いのかな。お前は僕の息子と思えぬほどに賢いからな。お友達もたくさんいるのかな?」
突然の父親の問い掛けに、悠葵は胸の奥でひやりとしたものを感じる。これは質問じゃない。
――笑え。
笑え。
「う、うん。友達たくさんいて、毎日が楽しいよ。この間の模試でも、第一志望は狙える範囲だったよ」
「そうかそうか。中学受験をするんだったな。お前ならきっとうまく行く」
「へへ。でも、体育や音楽や――図工も結構できるんだよ。この間描いた絵は優秀賞貰ってさ」
「お前は、父さんの真似をするんじゃあないぞ。せっかく賢いのだから」
気不味い沈黙が、降ろされる。悠葵は何か話し掛けようとするが、言葉が、喉が、胸が詰まる。父親はずっと苦し気で、目を泳がせて息子の悠葵を見ようともしない。落ち着かぬ様子で手を何度も組み直しては
「……父さんな、その」
口籠る父親。悠葵はとうとう来た、と予感がして、大聲で言葉を遮り耳を塞ぎたい衝動に駆られた。ぐらり、と世界が揺れ歪む。嘔吐感が喉の辺りまでせり上がる。だが然し父親は悠葵の覚悟を待たず、掠れた聲で
「別れることになったんだ。母さんと」
悠葵は項垂れた。頭が空白になって、言葉は矢張り出てこない。思考のすべてが白い絵の具で塗潰されたように空虚になり、けれども肚の底は
「まあ、稼ぎの殆どは母さんだったし、父さん家に滅多に居なかったから。お前の生活は変わらないよ。変わるとしたら、苗字くらいで……今日は置きっぱなしになっていた荷物を取りに来たんだ。驚かせてすまなかったな」
少し早口な父親の上擦った聲は何処か遠い。悠葵は唇をわななかせ、きゅっと噛みしめる。
(いつかきっとこうなると、覚悟してたじゃないか)
きっとこうすることが母親や父親にとって良いことなのだ。子供という他人に過ぎない己はただ、笑顔で彼らの背を押し「大丈夫だよ」と言ってやること。養って貰っている身で我儘を言って迷惑など掛けるべきではない。悠葵は誤っても涙など溢さぬよう己の聲を胸の内に押し込め、口端を出来るだけ上に持ち上げた。
「そ、そっか。うん。いつかは、こうなるんじゃないかな、とは思ってたんだ。父さんも夢叶えてよね。でも偶には会ってほしいな。全然貌合わせなかったけど、それでも父さんだもん」
笑え。
笑え。
僕は聞き分けの良い子。
僕は――……。
何度も、何度も念じる。父親は苦しそうに笑い、悠葵を抱き締めた。少し震えた聲で小さく「ごめんな」と溢して。
「……ほら、もうすぐ母さん帰ってきちゃうから」
悠葵はそっと小さな手で父親の背を撫でた。父親は悠葵から身を離し鼻を啜る。ただでさえ無精髭で不衛生に見えるというのに、鼻水を垂らしている所為でよりみっともない様になっている。悠葵は己のセーターの袖で父親の鼻を拭った。
「ほら」
「ああ、すまない。ありがとう。本当に良くできた子だ」
それは、呪いだ。醜さを隠せという、呪いの
気が付けば、悠葵はひとり、走り出していた。
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