第43話守護の天使に誇りを持って

「さすがサタンさまね」

「半分に出来るなんて知らなかったわ」

「いや、切れ目なんかなかったはずだが……あんな風に割れるとはね」


 防護壁シールドの内側で、三人が安堵の息を吐く。金印を割るなど前代未聞だが、サタンがやるなら当然法律にも抵触していないのだろう。しかしケルベスは憎悪を込めて半分に割れた金印を見ていた。魂の救済には完全な状態の金印が必要だ。片方だけでは意味がない。


「魔王……余計な事を……っ」


 金印が鈍く光る。黒く染まった翼の彼女が涙を流す幻が見えた。


【やっぱり、あなたは私を助けてはくれないのね】


「違う……ちがうんだ……必ず残り半分も取り返す……必ず、完全なマスターになってみせる。だから……待っててくれ……」


 ケルベスは「改正印」を握りしめたまま頭を抱えた。顔色が悪く、震えているように見える。明らかにおかしいその様子に見ていられなくなったシルバーが、ふわりと飛びあがった。


「シルバー! だめよ、危ないわ!」

「大丈夫よ。ちょっと様子がおかしいの。診てみないと」


 なんの躊躇ためらいもなく防護壁シールドを越えるシルバーの姿は、あの日ルシファーを助けようとした時と同じだ。ケルベスは思わず敵意を忘れて彼女を見た。


 天国一の美と称される純白の翼、穏やかな新緑の瞳、癒しのオーラは愛しい婚約者と重なる。悪魔の身体を溶かす聖なるオーラは生理的に受け付けない筈なのに、死者の気持ちがわかるとさえ思った。こうして迎えに来てくれるなら、さぞかし安心するのだろう。


「可哀想に。心が傷ついてるのね……でも、心の傷は治せないのよ」


 シルバーは申し訳なさそうに眉を下げ、ケルベスの手を握った。天使の手のあたたかさを感じながら、ケルベスは辛そうに瞳を閉じた。

 

「だろうな。天使にとって……心の傷は無いのと同じだ」


 傷ついていたルシファーに追い討ちをかけるような罵倒の嵐が今も正確に思い出される。悪魔の優れた記憶力が彼を今も苦しめていた。そしてその度に天使への憎悪が、血管を流れる血のように全身に巡っていくのを感じるのだ。


「彼女は、天使を殺したいほど憎んでいる。復活した時に白い翼があると、彼女が安心出来ないだろう。それに俺自身も……もう何があっても、天使を赦すことは出来ないんだ」

 

「ケルベス……あんたの怒りはよく分かるわ。でも、きっとルシファーは、そんなつもりじゃなかったと思うの」


 シルバーが思い出しているのは、同じくあの日の光景。しかし、彼女の記憶は少し違う。


「あの子は、止めて欲しかったのよ」


 シルバーが思い出したのは、彼女の涙。「助けて」と、確かに彼女は言ったのだ。しかし、ケルベスは首を振った。今更何を言われても、もう進むしか道はない。


「……間違えていると分かっていても……それでも正しい道に進む事が出来ない者の苦しみは、お前らにはわからないんだろうな」


 辛そうに顔を歪め、小さく呟いた彼の本音は、シルバーだけが見聞きした。

 

「もうすぐ日没だ! 罪を犯した悪魔たちよ! お前達はこのままでは日没とともに裁きが下り、魂は地獄に堕ちるだろう。しかし、この改正印があれば、救う事は可能だ!」


 ケルベスは絶望感を全身に漂わせている悪魔たちに向けて、半分になった金印を掲げた。悪魔たちの表情に生気が戻る。しかし、彼らのわずかな希望は、ケルベスの次の言葉によって打ち砕かれた。


「ミカエルを殺せ」


 無慈悲な命令に、悪魔たちは先ほどよりも更に絶望的な表情を浮かべた。対してミカエルはやはり眉ひとつ動かさず平然としている。シルバーは悪魔たちを説得しようと彼らの前に立った。法改正にはリーダーの署名が必要。それも法律書に明記されているはずだが、騙されてここに集った悪魔たちがそんな事を知っているはずが無い。


「皆、騙されないで! ケルベスはまだ嘘を……」

「すいません……それでも、やるしかないんす……」


 ハリヤマが防護壁シールドに向けて手を翳した。メルルも、他の悪魔も同じだ。彼らは皆、黙っていたら地獄に堕ちることが決定している。嘘だと薄々気が付いていても、すがるしかないのだ。


「日没まであと少し。時間がないぞ、全員で一気に攻撃すれば、防護壁シールドを破れるはずだ!」


 太陽が沈み、夜の帳が下りはじめる。ケルベスは多くの悪魔を従え、全ての力を込めて空中に巨大な毒の矢を創り出した。至近距離から放たれようとしている強い力に、防護壁シールドの外側が僅かに揺らぐ。もう何を言っても届かない。せめて身を挺してミカエルだけでも守ろうと、シルバーは防護壁シールドの内側に戻った。


「ミカエル様、下がって」

「ありがとうシルバー」


 ミカエルが微笑み、素直に下がる。当然のようにシルバーを盾にするその反応に少し違和感を覚えながらも、彼女はミカエルを背に隠した。


 ローズもその隣に立ち、防護壁シールドに全ての力を籠める。もはや防護壁シールドは、外側が見えないほどの白い輝きに満ちていた。


「ダメよローズ! 力を使いすぎだわ!」

「ここで使わなきゃいつ使うのよ!」


 城にはリリィもルークもいる。守らなければと、それだけを思った。防護壁シールドが厚さを増すにつれ、背中の翼が薄くなっていく。しかしローズは自分の翼を、ほんの少しも気にしなかった。


「絶対に守るわ」


 天国のマスターを城ごと消し去ろうと襲い掛かる魔のオーラ。それを全身全霊で押し戻すローズ。


 その背中を見て、ミカエルは静かに、武器庫から出した白い本を捲った。


 『白の書』と呼ばれるそれは、どんなに強い悪魔が大勢いても瞬く間に殲滅できる奇跡の武器。しかし対価は並ではない。膨大な力を持つミカエルといえども、命を懸けなければならないだろう。ミカエルが下がったのはそのためだ。


(シルバーやローズに見つかったら、きっと怒られてしまうだろうからね)


 しかしこれを発動するには、二ページに渡る長い文章を全て読まなければならない。ローズの翼が消える前に。ふたりに見つかり止められる前に。ミカエルは出来るだけ小声かつ早口で読みはじめた。


「……ミカエル様!?」


 半分ほど読み進めたところで、シルバーが振り向いた。やばいとミカエルは焦りながら残りの半分を読み進める。シルバーが慌ててミカエルに向かって走った。それにローズが気がつき振り向く。


「何!? どうしたの!?」

「白の書よ! ミカエル様、あたしが……」

「駄目よ、あなたは!」


 そこからのローズの動きは、普段の彼女からは考えられないほど素早かった。


 シルバーがミカエルに届く直前、小さな防護壁シールドでシルバーを阻み、驚くシルバーの横を滑るように飛び越して、ミカエルから白の書を奪う。


「! ローズ! 返して……」

「待ってローズ! ダメ!!」


 ミカエルとシルバーがローズに向かって手を伸ばした時には、もう彼女はほとんどの言葉を読み終えていた。文字を読むのは彼女の得意技。一文字だってつまづく事はない。


 そうして全てが終わってからローズは、少しだけ不安そうに眉を下げた。


「私の命で足りるかしら」 


 バリンと大きな音を立てて防護壁シールドが割れる。それと同時に大量の魔のオーラが流れ込み、濃い紫色の煙がバルコニーを覆った。ミカエルを覆うようにして翼を大きく広げたシルバー。その背中に煙が届く寸前に、今度は目が眩むほどの聖なる光が魔のオーラを打ち消していく。


「くっ……お前ら……何をした……」


 ケルベスが右腕で顔を覆った。眩しすぎて彼には何が起きているか全くわからない。しかし光に強い天使達の目には、白の書を持ったローズから今まで感じたことのないほどの聖なるオーラが溢れているのがはっきりと見えている。


「ぎゃあああぁぁ」

「うわぁぁぁあぁーー!」


 あちこちで、悪魔たちの身体がどろりと溶けていった。いつもなら上がるはずの黒い煙さえ、光に飲み込まれて見えない。


 ひとり、またひとりと消えていく断末魔の叫びを聞きながら、シルバーはローズに手を伸ばした。


「馬鹿ね……あたしが読もうと思ったのに」

「ふふっ。美味しいとこ取っちゃってごめんね……でも、いまいち私じゃ決まらなかったわ」


 先程から、ローズの視線はケルベスに向いていた。苦しそうに顔を歪め、全身から黒い煙を立ち昇らせながらよろよろと飛んでいく黒い翼。おそらく地獄でしばらく身を隠すのだろう。


「逃しちゃった。ごめんなさいね」

「大丈夫よ。確実に弱ってるし、きっとしばらくは出てこれないわ」


 既に悪魔たちの姿はひとりもなく、天国は何事もなかったかのように静かな夜の風景を取り戻している。しかし彼女の全身からは白い光がいつまでも消えない。対価は命だと、読む前からわかっていた。考える前に動けたのは初めてだと、ローズは笑う。


「ローズ……君もルキウスも、本当によくやってくれた。私はふたりを心から誇りに思うよ」


 押し寄せる自責の念を完璧に隠して、ミカエルの穏やかな金の瞳がローズを映した。ローズは背筋を伸ばして一歩前に出て、深々と頭を下げる。


「ミカエル様。天秤の修理、新システムの作成、そして……リリィとルークの事、よろしくお願いします」


「勿論だ。彼らには、ローズがいかに愛情深く君たちを育てていたか、しっかり伝えておくよ」


 ミカエルは頷いたが、ローズは首を振る。


「……いいえ。ミカエル様……あの子達には、私は偉大なる初代守護の天使・・・・・・・だと伝えてください。あの子達の心には、喪失感より誇りがあって欲しいんです」


「ローズ……あんたらしいわね」


 自分で「偉大な」などと躊躇わず口にするあたりが彼女だと、シルバーは泣きそうな顔で笑った。ローズの身体が透けていく。最期に伝えたいのは、母親の愛情よりも指導者の誇り。


「リリィもだが、ルークは君によく似ている。もしかしたら、守護の力を継ぐ存在になるかもしれないね」


「あの子に仕事を任せるなんて、本当はしたく無かったけど……こうなったら切り替えよね。もしルークが守護の力を発現した時には、私の事は母親ではなく先代と呼ばせて、バリバリ鍛えちゃって!」


「ほんと、あんたって最期まで良い性格してるわ」


 シルバーの少し呆れた視線を受けて、ローズは綺麗に笑った。身体が透けていくにつれ、纏う光がきらきらと輝く。その姿は言葉に表せないほど美しく、まさに偉大なる守護の天使と呼ぶに相応しい。


「君の意志を尊重しよう……少し、寂しい気はするけどね」


 ミカエルは寂しげに微笑んだ。幼い二人の子にとって、この事件が「母親が犠牲になった戦争」ではなく、「守護の天使が天国を守った事件」として残るように。


 ローズはミカエルの微笑みに安心した表情を浮かべ、そうしてシルバーに目を向けた。瞬く間に指導者の顔から友人の顔になった彼女を見て、ミカエルが一歩退がる。


「シルバー! 今まで楽しかったわ、ありがとう」

 

「こっちのセリフだわ……大好きよローズ」


 シルバーは力いっぱい彼女の身体を抱きしめた。ローズのふわりと甘い髪の香りが、あたたかい体温が、難なく腕を回せる華奢な身体の感覚がひとつひとつ消えていくのを、シルバーは最後までしっかりと感じ取った。天使は悪魔ほど記憶力の良い生き物ではないが、今日の事は命ある限り彼女の心に残り続けるだろう。


「本当にありがとう……」


 最後の輝きが消えて、空色の手帳がバサリと落ちた。シルバーはそれを拾ってミカエルに渡すと、すぐに白い翼を広げる。感傷に浸る時間は今はない。今度こそ救えるかもしれない大切な翼が、まだ煉獄に残っている。


「じゃ、行ってくるわね。クロム怪我してんでしょ? あたしの出番よ」

「私が動ければいいんだが」

「駄目よ。ミカエル様がいなくなったらそれこそ天国が滅びちゃうわ」


 残念そうなミカエルの白い翼をそっと撫でて、シルバーはふわりと浮き上がった。天国と地獄、ふたつ合わせて死後の世界。有事の際の助け合いは大切……いや、そんな事ではなく純粋に、サタンとクロムが心配なのだ。

 

「行っておいで」


 ミカエルが微笑むと、シルバーは頷いて力強く飛んで行く。その姿を見えなくなるまで見送って、バルコニーをあとにした。誰ひとりマスターの指示を必要としない、頼もしい三名の指導者達リーダー。自分も負けてはいられないと、ミカエルは自分の仕事に向かう。

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