第25話黒く染まった天使の翼

「ルシファー……」


 ケルベスは絶望的な表情を浮かべてルシファーを見た。いつもは自分を真っ直ぐに見るその濃緑の瞳からは光が消え、表情からは笑顔も泣き顔も消えている。目の前にいるのに、どこか遠いところにいってしまったのだと直感的に思った。


「おいで」

 

 できるだけ優しく声をかけた。彼らしくもなく、伸ばした手が震えている。愛する者のガラス玉のような無機質な瞳を見て、ケルベスは初めて恐怖というものを感じた。手を更に伸ばしながら、一歩前へ出る。しかしその手が彼女を捕らえるより前に、ルシファーは黒く染まった翼を広げ飛びあがった。


「ルシファー!?」

 

 彼女は手のひらをケルベスに向け、黒い煙を吐き出した。煙がケルベスに纏わりつき、身体が金縛りにあったように動けない。それは悪魔にはない能力だった。未知の力に押さえつけられながら、彼はただ見ている事しかできなかった。


「ルシファー、やめろ!」


 彼女らしからぬ素早い動きで、ルシファーはまず目の前の天使に飛び掛かって彼女の首を絞めつけた。止める間もなく、あっという間に天使が白い光の粒となって消えていく。周囲の天使は我先にと逃げ出した。


「キャー! 助けて!」

「化け物が暴れてるぞ!」

「早く逃げて!」


 ルシファーはその後も、手当たり次第に天使を殺していった。一切の躊躇なく首を折り身体を裂くその動きは、もう以前の彼女ではない。誰かに操られているか、別人と入れ替わったような。そんな動きだった。


「……そんな……」


 ケルベスは、しばらく変わり果てた彼女の姿を茫然と眺めていた。しかし彼女の動きを見ているうちに気がついた。わずかにいた悪魔を全て避け、天使だけを襲う彼女の動き、白い翼に逃げられて残念そうなその表情。


 彼女は、天使だけを選んで消しているのだ。


「この身体が自由になれば、俺が代わりに殺してやるのに……」


 ケルベスは血が滲むほど強く拳を握った。自我が無いとはいえ、彼女にこれ以上殺させたくない。自分が代わりに天使を殺す。そうして白い翼がいなくなれば、彼女は正気に戻るかもしれない。


(魔王の持つ金印があれば、十三条が廃止できる。そうしたら、いくら天使を殺しても罪にはならないんだ)


 魔王から金印を奪う。とても正気とは思えない事だが、彼女のためならどんな事でもやり遂げて見せる。素早く天使を消していくルシファーの姿を見ながらそんな事を思っていた、その時。


「動けねぇのか? 良かったな・・・・・


 目の前に、黒いブーツの靴音が鳴る。温度のない金の瞳に見下ろされ、敵に回そうという気力すら一瞬で消え失せるほどの圧倒的な魔のオーラを前に、ケルベスは静かに項垂れた。

 

 

       ◇

 


「うわぁ、助けてくれぇー!」


 逃げ遅れた青年を焦点の合わない目が捉え、黒く染まったばかりの翼が追いかける。ルシファーが青年の脚を掴もうと手を伸ばしかけた時、彼女の目の前に桜色の長い髪の天使が現れた。ガキンッと固い音が鳴り、ルシファーの身体が大きく弾かれる。彼女は黒い翼を広げたまま、宙でくるりと一回転して体勢を整えた。


「よかった。ちゃんと弾くのね……全然間に合ったとは言えないみたいだけど」


 前に向かって手を伸ばし、自分とルシファーとの間に大きな防護壁シールドを張ったローズが周囲を見渡す。少し遠くでルキウスが、瞬間移動を繰り返して周辺にいる天使やわずかにいた死者の魂たちを安全な所へ避難させていた。


「みんな、こっちだよ! 安全なところに連れてってあげる!」


「怪我してる天使と悪魔は天秤前よ! 生きてさえいればどんな大怪我でも治すわ。諦めないで申し出て」


 大きな天秤の前では、シルバーが負傷者の手当てをしていた。迅速な天使の指導者リーダー達の行動で、避難は順調に行われていく。その中には、あのピアスの天使と眼鏡の天使の姿もあった。


「(ルシファーさん。あれ、俺たちのせいじゃないよな……)」

「(そんなわけないって。てかあれ言わなかったら、俺たちがああなってたかもしれないんだぞ)」


 眼鏡の天使がピアスの天使の肩を叩いて慰めた。あとは多くの天使と同じように、天国にしばらく避難すればいい。そう思ったふたりの前に、小さな黒い翼が立ちはだかった。


「怪しい子みぃつっけた!」


 藤色の長い髪。絶世の美女が片目をつぶり、ふたりの天使の手を握る。天使相手に魅了は使えない。しかし、そんなものが無くても彼女の前で、秘密が持てる男はいない。


「ねぇ。何があったかお話しできるよね? いい子にしてたら……ご褒美あげてもいーよ」


 順番に耳元で囁かれ、二人は床に座り込んだ。細い腕とは思えない力の強さで、ミアはふたりを近くの部屋へと引き摺っていく。


「悪いね。任せてしまって」


 ミアとふたりの天使が見えなくなるのを見送って、ミカエルが申し訳なさそうに眉を下げる。しかし近くにいるサタンとクロムは、嬉々として尋問を申し出たミアの姿に少し呆れ気味だ。


「うちのミアの尋問は地獄一だ。何してんのか全然わかんねぇけど、絶対口割るんだよ」

「天使相手に魅了は使えないはずなんですけどね」

「自信満々だったし魅了無くてもいけるんだろ。で、どうだった? ミカエル」


 サタンが腕を組んでミカエルを見る。ミカエルは両手に持った法律書に目を落とした。彼が法律書を持っているのは、ある項目を確認するためだ。


「天国法第六十六条。堕天使の所属先は地獄。羽が黒く染まった時点から地獄法の適用になる……って事は、扱いは悪魔と同じだ」


「なら、十三条違反にはならねぇな」

「出来れば穏便に済ませたいですけどね」

「無理だろ。資料室で関連資料も漁ったし前読んだ分は記憶も辿ったが、堕ちた天使を元に戻す方法はどこにもぇ。あれはもう対天使用の殺害兵器だと思って切り替えるしかねぇよ」


 サタンは白い翼を探して動き回るルシファーに目を向けた。なぜこうなったかはよくわからないが、普段の彼女には決して出来ない動き方だ。ルシファーは消えた。残念だが、そう思うしかない。


「さて。まずはとっ捕まえるか……あの様子じゃ、会話も出来ねぇだろうけどな」


 サタンの金の瞳が光る。しかし、その身体が動く前に、クロムが大きく前に出た。


「サタン様は下がっててください」

「あ? 何だよ。お前が下がってろよ」

「部下を庇って前線に出る王がどこにいますか。順番です、俺が無理ならサタン様」

「あったまかてぇな……じゃ、見ててやるから行ってこいよ」


 サタンは渋々腕を組み見守る姿勢に入った。クロムは前を向き、ルシファーの焦点の合わない瞳を見て身構える。意志のない相手は危険だ。どう動くか、さっぱりわからない。


「できれば説得したいとこだがやはり話は通じなさそうだな」


 クロムがぼそりと呟いたと同時に、ルシファーがくるりと向きを変える。当然自分の方へ向かってくると思っていたクロムは、慌ててその顔の向きを辿った。その先には、逃げ遅れた白い翼。


「早く逃げろ!」


 クロムは叫び、天使の方へ向かって飛んだ。ルシファーも同時に動き出す。彼女の速さは以前とは別人のように速かったが、それでもクロムの方が上だ。わずかに先回りしたクロムは躊躇なく彼女を長い脚で蹴り飛ばし、彼女が飛んだ先に小さな雷を落とした。


「ギャァァァ―――――!」


 ルシファーらしからぬ、魔物のような悲鳴が上がる。黒い煙が彼女の肩から細くあがった。攻撃は普通に効くらしいなとクロムは冷静に分析した。しかし油断は禁物だ。あの色だけ黒く染まった天使の翼、堕天使というのを彼は見たことが無い。何か悪魔にはない特殊な能力があるかもしれないのだ。


「早く! 逃げるよ!」


 先ほど狙われた天使の前に瞬間移動でルキウスが現れる。ルシファーの表情の消えたはずの顔が、ほんの少し残念そうに歪むのをクロムは見逃さなかった。すぐに振り返り、全員に聞こえるように叫ぶ。


「ルシファーの目的は天使だ! 天使の避難が最優先。逃げられない天使は、なるべく白い翼を見せないように」


「「「了解」」」


 それぞれの位置で、三人の天使のリーダーが頷く。ルキウスはすぐに天使の手を取って再び瞬間移動で消えていき、シルバーは治療を受けている負傷した天使たちに翼を消すように指示した。サタンが防護壁シールドを挟んでローズの前に立ち、黒い翼を大きく広げて視界から隠す。天使や悪魔は翼を見せないように消すことができるが、能力を使っている間は翼を広げていなければならない。


 しかし、ルシファーはほんの僅かな隙をついて、また白い翼を追いかけた。素早い動きでクロムの放つ雷を避けながら、逃げ遅れた天使の肩に手をかける。クロムは彼女の片方の黒い翼を炎で焼いたが、間に合わず死んだ天使が光に包まれて消えていった。


「翼狙いじゃやられるぞ。これ以上天使を死なせるわけにはいかねぇ。俺が許すから頭狙え!」


 サタンからの指摘が飛ぶ。翼はオーラの塊なので、魔の力が彼女の中にある限りは何度消えても再生するのだ。しかし膨大なオーラが含まれた翼が消えれば、再び翼を形作るのにはそれなりにエネルギーを消費する。


 クロムは、ルシファーを殺すべきか迷いながら、力を削って弱らせる方向性で戦っていた。そしてサタンは、彼女を殺す許可を与えたのだ。


「……悪いなルシファー……」


 どちらにしろ、これだけの天使を殺した後では死刑は免れない。クロムはルシファーに向けて手のひらを突き出し、勢いよく炎を発した。真っ赤な炎が彼女に向かう。ルシファーはひらりと身を躱し、クロムに向けて黒い煙を噴き出した。


「! おい、避けろ!」

「下がってください!」


 助けに行こうと動きかけたサタンにクロムが叫ぶ。クロムに黒い煙が纏わり付いた。空中で身動きが取れなくなったクロムの元へすかさずシルバーが飛ぶ。


「来るな! 天使は危ないと言っただろうが」

「そんな事言ってらんないでしょ。どっか痛む?」

「身体に力が入らないだけだ……俺はいいから」

「はいはい……んー、これね。すぐ治るわ」

「いいから戻れ」

 

 ルシファーがシルバーの白い翼を見る。彼女がシルバーに向けて動くのと、シルバーの治癒が終わるのはほぼ同時だった。


「戻れと言ったろうが!」


 動けるようになったクロムがシルバーを背に隠し、ルシファーの顔面に思いっきり拳を入れた。


「ルシファー!」


 ケルベスの悲痛な叫びが響く。必要とあれば女性の顔を傷つける事にも一切躊躇のない動きに、シルバーとサタンの顔も引き攣った。


「ちょっと! あんた最低ね!」

「お前……すげぇな」

「顔面狙えと言ったのは誰ですか」

「頭っつったんだよ」

「同じでは?」

「違うわよ」

「?」

 

 顔面以外の頭部への攻撃とは一体……とクロムが考えている前で、地面に倒れ込んだルシファーがふらりとゆらめきながら顔を上げた。頬は腫れ、潰れた鼻と切れた唇から血が流れている。


「ルシファー……ほんとにどうしちゃったの?」


 顔から血を流しながらも、次の天使えものを探すルシファー。そんな彼女を見ながら、シルバーは悲しそうに眉を下げた。今にもふらりと彼女の元に行きそうなその様子を見て、クロムがシルバーの肩に手をかける。


「あれはもうルシファーじゃない。お前でも近づいたらやられるぞ。いいから怪我人の治療を優先してろ」


「もうほとんど終わったわよ。彼女、今朝医療棟で会った時は元気だったのに……」


「何かきっかけがあった事は間違いないと思うが、こうなったらもう無理だろ」


「そうね。でも……やっぱりちょっと話してくるわ!」

 

「おい待て!」


 彼女の元へ向かおうとするシルバーの手を、クロムが掴もうと手を伸ばす。しかしそれをひらりと躱して、シルバーはルシファーの元へと向かう。


「シル! 危ない、戻れ!」


 すぐにクロムが追いかける。ルシファーの焦点の合わない瞳がシルバーの方を向いた。シルバーは身体を包む聖なるオーラを少し強め、悪魔の治療をする時のように、魔の力に馴染むように変換してからルシファーに触れた。彼女はシルバーに向けて腕を伸ばしたが、それ以上は何もしない。その様子を見てクロムは空中で止まり、いつでも助けられるようにすぐ横で待機する。


「痛かったわよね。もう大丈夫、すぐに治すわ」


 シルバーがルシファーの顔に触れると、彼女の顔から腫れが引き、潰れた鼻が元に戻った。すっかりもとの愛らしい顔を取り戻したルシファー。焦点の合わない瞳から、涙が溢れた。


「たすけて……」


 一瞬、元の彼女に戻ったかと思われたが、次の瞬間ルシファーの身体から闇のオーラが噴き出した。辺りを黒く染めるほどの強力な闇は、全力を出したクロムにも劣らないほど激しい。


「シル!」

「平気よ」


 ミカエルとシルバーは、瞬時に眩いばかりの聖なるオーラで身を包んだ。地獄の最下層にも耐えうるこの二人のオーラは強い。この場にいる天使が二人だけで良かったと、サタンとクロムは安堵した。ルキウスやローズなら、翼が焦げてしまうかもしれない。


――グルルルル


 魔物のような音を出してシルバーを睨むルシファーは、もう元に戻る見込みなど少しも無さそうだった。これ以上の被害を防ぐためにも、早く討伐しなくてはならない。


「仕方ねぇな……」


 ケルベスには恨まれるだろうが、汚れ仕事は自分の役目だ。やはり他の誰にもやらせるわけにはいかないと、サタンは一歩前に出た。クロムは何か言いたそうだったが、サタンの真剣な表情を見て大人しく下がる。


「さ。苦しませねぇように一息にいくぞ……」


「下がって」


 ところが足を踏み出そうとしたサタンの前方に、誰よりも強く輝く白い翼がふわりと降りた。その手には銀色に光る銃が、真っ直ぐルシファーを捉えている。


「……銃……?」


 サタンが意外そうに瞬いた。誰も傷つけないはずの天使が武器を構えている。天国に武器がある事は、サタンですら知らされていない事だった。


「お前がるって? 出来んのか?」

「この事件は天使の責任が大きい。「痛み」はきちんと、私が引き受けるよ」


 ミカエルの指が引金にかかる。聖なる力が込められ、銃身が白く光った。ミカエルが誰かに武器を向けるのは初めてだが、彼の顔からは何も読み取れない。


 ミカエルの感情の抑制コントロールは、時にサタンより巧みだ。彼は冷酷で非情な王にも見える無表情で、常の微笑みを消した口元を薄く開いた。

 

堕天使ルシファーを祓うのは、天国の王わたしの役目だ」


 

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