第24話地獄の業火を纏う花

――ぶわりと、青い炎が燃える。宝石サファイアのように煌めきながら、業火のように揺らめきながら。灰も残さず焼き尽くす勢いで、突然、炎が煉獄の階段付近に広がった。


「うわぁぁぁ」

「きゃーー!!」


 悪魔や天使が次々と炎にのみ込まれていく中で、ふたりの天使とルシファーは這いつくばって逃げ出した。彼らは奇跡的に無傷だ。しかし、良かったとはとても思えなかった。


「火事だ!」

「どうして!?」

「地獄の炎だぞ!」

「なぜこんなところに……うわぁぁぁっ!」


 天使が焼かれ、悪魔が焼かれた。地獄の下層より下に行ける力の強い悪魔は焼かれなかった。天使たちはわけもわからず逃げ惑い、悪魔たちは冷静に、これが地獄の下層付近から持ち出した炎であると理解した。

 

「ルシファー! 良かった無事か!」


 連絡を受け、まず駆けつけたのは煉獄当番のケルベスだった。彼は青い炎に手をかざしてパキリと固め、これ以上の被害を防いでからルシファーを抱きしめた。彼の到着は事件が起きてから数分と速かったが、その時点で、数名の天使と力の弱い数十名の悪魔が消えていた。


「もう大丈夫だ。安心しろ」


 周囲がある程度落ち着いたのを見て、ケルベスがルシファーの栗色の髪を撫でた。その少し後ろでは、ピアスの天使がやはり震えていた。

 

「そんな……嘘だ……」


 誰にも効かない毒霧が、少し漏れるくらいだと思っていた。こんなことになるとは思わなかった。周囲の喧騒がもう少しおさまれば、今度は犯人探しにうつるだろう。予定ではルシファーに罪をきせるつもりだったが、彼はうまく口がきけなかった。しかし、代わりに眼鏡の天使がルシファーを指さす。彼はピアスの天使が獄炎花ヘル・フラワーを蹴った瞬間を見ていたにもかかわらず、咄嗟とっさに叫んだ。

 

「彼女が火をつけたんだ!」


 ルシファーがびくりと震えた。その声に押されるように、ピアスの天使も叫んだ。


「俺も見たぞ! 彼女があの花を落としたんだ!」

 

「まさか。ルシファーがそんな事するわけが……ルシファー?」


 ケルベスはルシファーの顔をのぞき込もうとしたが、彼女は頑なに顔を見せなかった。体がずっと震えている。思った以上にショックを受けているようだった。


「ルシファー……大丈夫だ。俺がついてる」


 栗色の髪を何度も撫でる。次第に彼女の様子は落ち着いてきた。しかし、彼女が青い花を持っているところを見た者が多くいたことや、彼女がすぐに否定をしなかったことで、獄炎花ヘル・フラワーを投げた犯人が彼女だという事が、さざ波のように周囲に広がっていった。


「あっははは! こんな危険物投げて黙らせるなんて、天使もなかなかやるじゃないの!」


 たまたま近くにいた悪魔のひとりが笑った。周囲の悪魔は皆似たような反応だ。ある者は面白そうに野次を飛ばし、ある者は興味なさげに去っていく。悪魔の善悪の基準は法律一択。そして、天国に殺しに関する法はない。ルシファーが落とした獄炎花ヘル・フラワーで天使と悪魔が何名死んでも、天使である彼女は無罪だ。そのことは、悪魔たちの興味をそれほどひかなかった。

 

 しかし、天使は違う。悪魔と違い規律モラルを重んじる彼らは、天使や悪魔の命を奪った彼女を決して許しはしない。愛と平和の象徴である白い翼を背負いながら、誰かを殺すなど、一度たりとも許されることではないのだ。


「あいつが投げたんだってさ」

「天使殺し? まさか。あの天使が?」

「悪魔も大勢殺したのよ……恐ろしいわ。天使がそんなことするなんて」

「白い翼を持ちながらなんてことを……」


 噂は噂を呼び、周囲に白い翼が増えていった。その時にはもう、ピアスの天使も眼鏡の天使も輪の中からは消えていた。真実を知る者がいなくなり、噂を信じた厳しい視線がルシファーに刺さる。


「違う……ちがうの……私じゃない……わたしじゃ……」


 ルシファーは叫んでいるつもりだったが、震え声で空気のように漏れただけのそれは、周囲の誰にも届かない。ただ、彼女に覆いかぶさるように密着しているケルベスの耳にだけは、辛うじて聞こえていた。


「彼女がやったんじゃないんだ! 彼女じゃない、本当だ。信じてくれ!」


 ケルベスは彼女の代わりに訴えた。しかし、悪魔であるケルベスの言葉を、天使たちは聞き入れなかった。彼が欠けた翼を閉じて、あまり浸透していないごく普通の青年の姿をしていたため、指導者リーダーだと気がついている天使が少なかったのだ。そして彼を認識している数少ない天使たちは、ケルベスの事を良く思っていなかった。


「法律違反じゃないから許せって? また悪魔の常識を押し付ける気だ」

「あぁ。この前も肉食べろってしつこかったしな」

指導者リーダーっていっても悪魔側だし。天使の事全然わかってないんだよ」

 

「違う! そもそも彼女はやってないんだ! 冤罪だ!」


 ケルベスはまた叫んだ。しかし叫べば叫ぶほどに、周囲の視線は冷たくなる。次第にケルベスの胸に、天使という種族の疑念が生まれてきた。そもそも天使殺しも悪魔殺しも、天国法では違反ではないのに。規律モラルなどのためになぜこれほど責められなければならないのか、彼には分からない。


(話にならない。よくわからない正義を振りかざし、大勢で少数を責めて追い詰めて……これが天使なのか?)

 

「天使殺し!」

「悪魔も殺した!」

「二度と天国に来るな!」

「心の醜い化け物!」

「天使として恥ずかしくないの!?」


 言葉が刺さる。大勢による罵倒の言葉は、二人の心を深く傷つけた。ケルベスは震えるルシファーを守りながら、天使を片っ端から殴りたい衝動を必死で抑えた。


(駄目だ。やり返したら法律違反……何故悪魔だけが違反なんだ。こんな目に遭っても反撃のひとつも出来ないなんて、理不尽じゃないか)


 たとえ天使に百発殴られても、一発も殴り返してはいけない。浴びるような悪口を止めるために威嚇程度の一撃を浴びせる事さえも許されないのが十三条。

 

 今まで天使を守るためには当然だと思っていたこの法律を、ケルベスは初めて邪魔だと思った。

 

「……ケルベス……」


 しかし身体の下で震える小さな身体とふわりとした栗色の髪から香る仄かな花のような香りが、彼の心を落ち着かせる。十三条は彼女のようなか弱い天使を守るために必要な法なのだとケルベスは思い出した。

 

(そうだ。彼女を守らないと……大丈夫、きっとすぐに落ち着くはずだ)

 

 ここで自分が天使を殺して地獄に堕ちたら、それこそ彼女の居場所は無くなってしまう。ケルベスはそのまま身を固くして、胸の奥底から怒りや恨みや痛みや悲しみが渦を巻いて上がってくるのを、しばらくじっとこらえていた。



 


 

(私じゃない。そんなつもりじゃなかったのに)

 

 違う。ルシファーは叫ぼうとしたが、声は出なかった。自分のせいじゃないと叫びたい。しかし、そう高らかに主張するほど、彼女は自分を信じ切れてもいなかった。


(ううん。本当は……私のせいかも)


 ルシファーは涙で滲む視界を自分の両手に落とした。あの花は自分が持っていた。その手を叩かれたような気はする。しかし、あの花のことを、麻痺毒のような微量な毒を吐き出すだけの上層付近で採れる毒草と同じようなものだと思って油断していたのは事実だ。


(私がもっとしっかり持っていれば、こんな事にはならなかったんだ)


 毒草に触れて間もない若いふたりの天使と自分。上司とまではいかないが、あの場で青い花について気を回さなければならなかったのは明らかに自分だ。そして、つまらないプライドで知らない花を知っていると言い張り、注意事項をきちんと聞かなかったのも、間違いなく自分なのだ。


「天使殺し! 悪魔殺し!」

「二度と天国に来るな!」


 敵意の視線と罵倒の嵐を浴びながら、ルシファーは、聖なるオーラをできるだけ消して白い翼を隠した。地獄に住んでも悪魔になりたいわけではない。どこにいても天使のままで、白い翼に誇りをもっていたかった。しかし、誇り高き白い翼は天使も悪魔も殺さない。


「大丈夫だ、ルシファー。俺が守るから」


 ケルベスの冷たい手のひらが、宥めるように髪を撫でる。自分の潔白を信じて身を挺して庇ってくれる彼の優しさに、また涙が出てきた。


(ごめんなさいケルベス。私がしたことは、悪魔だったら法律違反なのに……)


 良いのだろうか。こんな事件を起こして、何の咎めもなくこれからも生きていっても。いや、良いわけがない。


「私……もう消えてしまいたい……」


 小さく呟いたその言葉を聞いて、ケルベスの腕に力が籠った。


「……ふざけるなよ」


 食いしばった歯の隙間から漏れるような声が聞こえ、ルシファーは顔をあげた。ケルベスがぎゅっとルシファーを抱きしめ、そして離れる。禍々しい魔のオーラが彼の身体を包み、僅かに紫色の毒霧が漏れるのが肉眼でもわかるほどだ。制御できないほどの怒りがビリビリと伝わる。


「ケルベス、落ち着いて」

「来るな!」


 ケルベスに叫ばれ、ルシファーは彼に触れようとした手を止めた。十三条。魔のオーラに包まれた彼に触れて火傷をしてしまえば、彼が地獄に堕ちてしまう。


(どうして……私が天使だから、彼を止めることも出来ないの)


 抱きしめて落ち着かせたいのに、自分は傷ついても構わないのに、そんな行動に出ることも許されない。ルシファーは初めて邪魔だと思った。十三条ではなく、この白い翼が。


白い翼てんしなんて邪魔なだけだわ)


 どうせもう天国に居場所なんかないし、天使の誇りも失った。今はただ、寄り添ってくれる彼と共にいたい。自分の翼を消したいと、ルシファーは強く願った。


「白い翼なんか要らない」


 はっきりと煉獄に響いた、ルシファーの声。するとどこからか灰色の煙が現れ、彼女を包んだ。瞬時に姿が見えなくなっていく彼女に、慌ててケルベスは叫ぶ。


「ルシファー!?」


 何が起きたのかわからないまま、ケルベスは彼女の手を手探りで掴んだ。やはり姿は見えない。しかし、その煙の内側で、何か良くないことが起きているらしいことはわかった。何故なら、彼女の手が急激に冷たくなっているのだ。あたたかい天使の体温が急激に失われている。ケルベスは手首を両手で掴みなおし、脈を図った。脈はある。生きている。しかし、安心したとはとても言えなかった。


 やがて、煙が晴れ、彼女の姿が現れた。栗色の髪、濃緑の瞳。しかし、その背に広がる翼を見て、ケルベスは固まった。


「嘘だろ……ルシファー……なんで……」


 その翼は、黒かった。闇のような漆黒は悪魔のそれより艶やかで、しかし多くの悪魔のものとは違う。天使のように多くの羽根で形作られているそれは、例えるならカラスのような異質な翼。


 悪魔になったわけではない。黒く染まった翼は、罪を犯した天使の証。


――堕天使。長い天使の歴史の中でもまだ現れたことのないその翼が、彼女の背にはついていた。そしてその足元には、葉が千切れて萎びてしまった虹色が、役目を終えて満足そうに、誰にも知られないまますっと消えていったのだった。


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