第39話 握手
冴島さんと別れ、ロビーを後にした俺は、木製の松葉杖を突き鳴らしながら2階にある自室へと向かった。
カツッ カツッ カツッ
伽藍洞な廊下に松葉杖の空っぽな音が響く。
部屋へと続いている渡り廊下には、ロビーと同じように既に照明が点けられており、視界先の風景を照らしていた。
そんな廊下には、先へ先へと続く長いレッドカーペットが敷かれており、加えて壁には高そうな絵が飾られている。
しかも、そのように手が加えられているのは廊下だけではない。
廊下脇にある折り返し階段も、廊下の一部であるため同様である。
廊下と同じように一段一段綺麗なレッドカーペット。
さらに、精巧に彫られた芸術的で美しい手すり。
もはや、階段の手すりだけで1つの作品である。
これらによって、無人の空間は上品なものに仕立て上げてられていた。
比喩してしまうのは少しあれだが、某ゾンビゲームに出てくる洋館みたいな感じだ。
「落ち着きはないけど、立派で上品で西洋貴族的なもの–––––––分かる、分かるよ、分かるんだ。そうなんだけどなぁ」
飾られているが広く、長すぎる廊下。
飾られているが折り返さなくてはいけない階段。
これは、片足を負傷している今の俺からしてみれば獣道同然だ。
痛みは響くし、疲れるし、何よりも時間が掛かる。上品な風景で退屈になることはないが、視覚よりも痛覚の方がこの場合は圧倒的であった。
「冴島さんには、正直ここを手伝って欲しいんだけどさぁ。まあでも、言っても仕方ないか」
呆れ諦めるように言葉を吐き、そんな貴族的な道を進んでいく。
......やがて、なんとか部屋に辿り着く。
一休みしたいところだが、時間は意外とない。すぐに着替えて、約束の居間へと向かうことにした。
来た道を逆に進み、ロビーを超えて、指示された居間へと向かう。
居間の場所は西館1階の廊下脇。俺の部屋との位置関係的には、何もかもが真逆の場所である。
–––––––今思えば、脚のことを思って場所のことくらいは考えて欲しいものだ。
でも、既に承諾してしまった。
であれば、少し頑張ってでも行かなくてはならない。
「はぁ、はぁ、はぁ–––––––」
低速ではあるものの、ジョギングのような疲労が襲ってくる。
見かけによらず、意外にも、松葉杖というものは疲れるのである。
しかし、そうこうやっている内にも時間は流れていく。
彼女には、なるべく急ぐようにと言われていた。
「急がなくちゃ、なっ」
くじけそうな心に喝を入れる。
片足を動かす速度、それと松葉杖を突く速度を2段階ほど上げ、居間への道を辿っ行っていった。
そして、
ガチャリ パタン
居間の前に付いた俺は、扉を開けて入室した。
「あ、ようやく来た。ていうか、ノックの1つでもしたらどう? 常識、なってないんじゃない?」
途端、そんな聞き知っている声が、俺に投げかけられた。言うまでもなく、冴島さんのものだ。
彼女は、テーブルを囲うソファーに座り、一人紅茶をたしなんでいた。
室内に茶葉の濃い香りが漂っている感じを見るに、恐らく、つい先ほどカップに注いだのだろう。–––––––うん、相変わらずの良い香りである。
「いいだろ? 別に。『西館の1階で使うとしたら、こちらの居間くらいです』って、前に真矢さんに教えてもらったから、多分ここだろなーって」
「なら余計にノックは必要。場所に見合ったある程度の礼儀作法–––––––いや、それ以前の一般常識くらいはちゃんとしてほしいわ。私だったから良かったものの、厳しい人だったら冷たく叱られるわよ?」
「冷たくか......それは嫌だな。ごめん、以後は気を付けるよ」
ならばよろしい、と言い、彼女は再度カップに口を付ける。
今朝もそうだが、冴島さんの茶を飲む姿は、やはり優雅で美しい。
マナーがなっているから、と朝は思っていたが、今見るとそれは否だ。
シャンデリアの光で煌めく赤髪。
神秘的にまで思える目の閉じられた顔。
見えそうで見えないカップと接触した唇。
すらりと長く、細く、関節から折られた手足。
これらは、冴島さんだからこそ。彼女にしか出せない華の色だ。
「あ、そっか。真矢がいないから南くんの分も必要か。待ってて、今淹れるか」
彼女は思い出すようにそう言うと、持っていたカップを置き、立ち上がった。
そして、壁の隅の台に置かれたティーポットに近づき、新たに俺用の茶を淹れ始めた。
「わざわざ、別にいいのに」
「それは気分的によろしくない。自分にはあって相手にはないとか、私としては気持ちが悪い。だから、これは私が好きでやってるってだけ。南くんは早く座ってて。もうできるから」
お湯が注がれる音が響く。
ティーポットからは、もくもくと湯気が立ち上っている。
俺は言われたと通りにソファーに座った。
座った位置的には、彼女が座っていた場所とをテーブルで挟んだ正面。つまりは、彼女の目の前になる場所。ちょうど対面する形だ。
客室の内装は、反対の館にあった居間とはほとんど変わらない。
見るからに高そうなシャンデリア。
見るからに高そうなソファー。
見るからに高そうなテーブル。
瓜二つ、といった感じだ。
「はい、どうぞ。初めてだっけ? 私が淹れたやつ飲むの」
やがて、目の前のテーブルに淹れたての紅茶が置かれる。
「そう、だな。いつもは真矢さんが淹れてくれるし。多分、これが初だ」
そっかそっか、と言う冴島さん。
彼女はカップを置くと、そのまま先程座っていた席に戻った。
俺は冴島さんが淹れてくれた紅茶のカップを手に取り、中身を眺める。
–––––––明るく、綺麗な色だ。あまり意識してなかったが、やはり市販の安物とは違う。香りからもう別格だ。
俺はマナーなど考えなしに、ストレートでズルルと。急須で淹れた煎茶を飲む感覚で、中身を口に含んだ。
そして、ゴクリ。香りとうま味が、喉と鼻を通って、やがて落ちて抜けていく。
「......うまい。おいしいよ、冴島さん」
自然と漏れる言葉。
飾った言葉でも、お世辞もでもなく。
ただただ、正直な心からの感想。
それを聞いた冴島さんは、途端、頬を緩ませた。
「ほんと? なら良かった。プロの真矢には劣るけど、うん。おいしいのなら、それで良かった」
優しく微笑みながら、どこか安堵の念を溢す。
頬が赤く染まる......なんてことはないが、それはそれは、嬉しそうな顔であった。
その後、俺と冴島さんは数分ほど、それぞれで茶をたしなんだ。
そこに会話など無く。あるのはただただの無言の間。
夕食まで時間は無いし、正直早く話を始めなければならない。
でも、俺にはそんな会話も時間も無いティータイムが、とても安心できた。
「......話、なんだけどさ」
そんな中、冴島さんは声を上げた。
カチャリとカップをソーサーの上に置き、そのままテーブルへと彼女は移す。
「あれから–––––––あの夜から、2人きりで話す機会無かったからさ。折角だから今の内にって」
「ああ、言われてみれば確かに。なんだかんだ、今日も忙しかったからな」
苦笑顔を晒し、彼女と同じように一度カップを置く。
「......」
冴島さんは真っすぐに視線を合わせてくれない。
なんでだろう、と疑問がよぎるが、敢えてここは聞かなかった。
「その......改めて、ありがとう。南くん」
すると、急に彼女は感謝を口にし出した。
「え?」
喉から漏れる腑抜けた俺の声。
いきなり感謝を口にされたのだ。一瞬、思考と理解が追い付かなくなってしまうのは、仕方ないことだろう?
しかし、俺が理解する前に、冴島さんは口を動かした。
「あの夜、南くんに助けて貰えなかったら、私、絶対死んでた。だから、助かった。君のお陰で、私は生きながらえることができた。本当に、ありがとう」
2度目のありがとう。いいや......これは3度目、あの時を加えたら3度目だ。
あの夜......そうだ、白い怪物の時のこと。冴島さんは今、あの時のことを、俺に......
「そ、そっか。それは、まあ、良かった」
詰まるような言葉。空っぽな言葉。
しかし、今の俺からはそれしか出てこなかった。
「何、その言い方。なんか、他人事っぽいっていうか」
「いや、そんなんじゃない。これは、なんというか。実感が湧かないっていうか。冴島さんに褒められ馴れてないからっていうか、その......」
頬が熱い。
耳が熱い。
気が付けば、手の平はびしょ濡れだ。
喜んではいる。でも......これはもう通りこして、多分–––––––
「悪い。多分今、照れてる」
「照れてる? そんな、なるのかな?」
ぽりぽりと頭を掻きながら珍妙だ、といった感じの冴島さん。
頬の火は消えない。一度治まっても、火種はまだ生きている。冷めるまでは、まだ時間が掛かる。
仕方ないだろ。現に–––––––いやマジで今–––––––本気で–––––––嬉しいんだから。
「......そんなだよ」
「......まあ、それはそれでいいんだけどさ。それで? 君はこれから、どうするの?」
奇妙なものを見る顔から、神妙な顔へ。
感情をシフトした彼女は、俺にそんな風に尋ねてきた。
「これから?」
「君は、もう完全にこっちの世界に足を踏み入れてしまった。やめろって、言ったんだけどね。でも、君は私に言った。『命を懸けて、冴島さんを手伝いたい』って。この言葉、本気で捉えていいんだよね? 君はこれから、私の手となり足となり、奴隷みたいな扱いでコキ使われて、私の為に命を懸ける。それで、私を手伝う。この覚悟–––––––本当?」
試すように。願うように。確認を口にする冴島さん。
......そうだ。あの時、俺はそんなことを言った。
不純な思いはあれど、死にゆく彼女は見たくない。
目の前にある現実。俺の中にある理想。それが消えてなくなってしまうのが、耐えられなかったんだ。
それは、今でも同じ。彼女という存在を守れる為なら、命だって懸けられる。
故に、
「ああ、本当だ。冴島さんの為に、俺はこの生かされた命を使いたい」
すんなりと答えられた。
多分、まだ覚悟としては未熟で半端だ。
でも、あの時俺はやれたっていう過剰な自信はある。
もしかしたら、これでは足りないかもしれない。覚悟、自身、力が揃っても、満ち足りないのかもしれない
–––––––それでも、俺はその現実《理想》に憧れた。
だから言える。俺は言い切れる。
南 弘一は、彼女を助けたいって、心から言える。
「だから手伝わせてくれ、俺に、冴島さんを」
真っすぐと。嘘偽り無く。心から口にする言葉。
「–––––––」
それを聞いた冴島さんは、表情を崩すことなく俺を見つめる。
何かを暴くかのように。見極めるかのように。少し鋭く、その眼光を俺に突き刺した。
だが、やがて–––––––
「......フフ」
鼻音と共に表情は崩れた。
表情は先程あった柔らかさを取り戻し、そこにはどこか、満足げなものが感じられた。
「そっかそっか。なら–––––––」
スッと。彼女は俺に向けて片手を差し出す。
スラッとしていて、薄く細い手の平。あまり気にすることはなかったが、その手の平にはゴム手袋が被せられていた。
「握手。これからよろしくってことで。握ってもらえるかな?」
優しく温かい表情と音色で、彼女は尋ねてくる。
当然、断る理由は俺には無く、戸惑うことなく、躊躇することなく–––––––
「ああ。これから、よろしく」
その手を握った。
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