19 安寧の朝






 ……しかし、その手は振り下ろされなかった。


 ざぷぅん、と、まるで海の大波のような水音が大地に響いた。

 ディドウィルのその大きな躰は、


「海が満ちるのを待ってたら、遅くなっちゃった」


 大気に響く、うつくしく澄んだ声。

 水の中から、見目麗しい女神が顔を見せる。


「お母様!!」


 メアリたち女神の母である、海の女神・マーラだった。

 山むこうから、のだ。


 巨大な海のかたまりの中でディドウィルはもがくが、海はふよんふよんと揺らぐばかりで、抜け出すことは叶わない。


太陽王お父さんの準備も整っています」


 マーラは、おだやかに微笑んだ。

 コーザはマーラの圧倒的な強さに、ことばもなくぽかんと口を開けていた。


「それまでこのコ、預かっておいてあげる」


 マーラはいたずらっ子のように笑うと、ディドウィルの躰を包んだ海を引き連れて、山むこうに行ってしまった。


 メアリは、魔界樹に狙いをさだめる。


水華竜メルクリウス・ドラゴン、そのまま上空たかく昇って!!」

「キュイィッ!!」


 メアリを襲う蔓を振り切りながら、竜はたかくたかく、魔界樹の頂点を目指して飛んだ。


「―――雨よ、雪よ、大気よ。純真たるその身をもって、かれらに静寂をもたらせ―――

 〖闇を呑む霧氷プルス・プルイナ・フロス〗」


 メアリの声が、天にひびく。

 空に、厚い雲がかかった。雲は雨を降らせ、やがて雪となり、魔界樹のまわりの大気はさらにきいんと冷えた。


 冷えた空気のなかで、しなる蔓の動きが、徐々に弱まっていく。

 そうするうちに、蔓のまわりには霧氷の花が咲き。神々を追っていた蔓は、完全に動きを止めた。


 蔓から解放されたヴィオラを竜に乗せ、メアリは治癒を施した。


「夜が明ける―――」


 コーザは東の地平線を遠見し、独り言のように言った。


 メアリの神力により、すでに地上は昼間のように明るかった。その中でも、地平線からのぞく光芒はあきらかだった。


 夜の終わり、そして、朝のはじまり。

 夜のうちにうしなわれた生命力が、ふたたび、息を吹き返す朝。


 女神たちは、目を合わせた。

 太陽王ヘリオスの力が最大となるいまこそ、邪なるものを抑えこむ時だ、と。


 7人の女神が、声をそろえ、祈る。


「「「―――気高き水明。美と友愛。烈なる業火。悠久の森。勇猛たる地脈。雷鼓の煌めき。慈恵の海。我ら、遊星の女神なり―――」」」


 他の神々も、女神の祈りを扶翼すべく、神力をそそぐ。


「「「―――父なる太陽王よ。この星を護らんとする我らの祈りを、天へと届けたまえ―――」」」


 東の空から昇った太陽のひかりが、一直線に女神たちへと差し込む。


「「「〖 刻の逆行リヴォル・テンパス 〗」」」


 大地が揺れ、風が巻き起こる。


 7人の身体はそれぞれ、水色、黄金色、茜色、萌黄色、水色、碧色、紫紺、薄桜色の七色のひかりに包まれた。


 それらのひかりは増幅し、折り重なり、しかし混ざり合うことなく、魔界樹全体を覆う。


 そして抑え込まれるかのように、少しずつ、巨大なひかりの渦が凝縮してゆく。


 永遠にも思えるほど長い、数分間。

 ひかりは凝縮に凝縮をかさね、ようやく、ポンッとはじけて消えた。

 そのあとには、小さな種が転がるのみだった。


「〖 極滅の火炎イグニス・デレンス 〗」


 火星の女神 マルティナ が種を燃やすと、あとにはなにも残らなかった。

 7人の女神は地上にへたりこみ、ふぅう、と大きく息を吐いた。


 それから間もなくして、海の女神 マーラ が戻ってきた。

 海の女神 マーラ はディドウィルの首根っこを、つかんでいた。ディドウィルはすっかり元の大きさに戻っていて、ほとんど意識はない様子だった。


「海に引きずりこんで、いたぶっておいたわ。メアリ、仕上げをなさい」

「ありがとうございます、お母様」


 メアリが答えると、海の女神 マーラ はディドウィルを置いて天界へと帰っていった。


 コーザは竜から降り、メアリを心配そうに見つめる。メアリはコーザと目を合わせ、うなずいた。


「ディドウィル」


 メアリの声は、ディドウィルに届いているのかはわからなかった。


「あなたの気持ちはどうあれ、この大地を―――ひとびとを危険に晒したことは、許されません」


 地面に倒れこんだままのディドウィルは、なんだかいつも以上に小さく見えた。

 メアリはひとつ、息を吸い込んだ。


「―――汝の深奥しんおうにある、知性と博愛に目を向けよ。はるか遠き明日にて、その目覚めを待つ―――」


 胸が、つきりと痛んだ。

 この痛みの理由は、わからない。


「―――水星の女神・メアリが命じる―――

 〖 汝の魂を縛れリガレ・トゥイ・コルデム 〗」


 ディドウィルのこころは、メアリによって完全に縛られた。






 こうして、水星の大地メルクリウス・ノアと天界を巻き込んだ騒乱は、終局をむかえた。

 水星の大地メルクリウス・ノアに、初めて安寧の朝が訪れた。








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