06 薔薇の夢

『シルフィール』


 ふわりと漂う甘い花の香が鼻腔をくすぐった。それに負けず劣らず甘い蜜のような声音が聞こえて、シルフィールは瞬きをする。


 棺の蓋は薄く隙間が開いていて、そこに指を掛けてシルフィールはゆっくりと這い出した。頭上を覆うのは青々とした緑だ。風に揺れる枝葉がさやさやと音を立てている。

 葉で出来たドームの中、薔薇の香りに誘われるように緑の小径を歩き始めた。


 立派な庭園ではあるのだろうが、見渡す限り薔薇しかない。

 しかも同じ色――深紅の薔薇だけが左右、天から花をつけて咲き乱れている。丁寧に剪定がされ、整えられた薔薇の木がシルフィールが歩く道に寄り添うように並んでいた。

 

『こっちだよ』


 誘われるように声がする方に歩いていくと、黒髪の少年が立っていた。薔薇と同じ色の眸が此方をじっと見つめている。

 ルイ。

 彼の名を呼ぶと、苦みを含んだ笑みを浮かべた。


『俺とシルフィーはいま共鳴し合っている――俺の記憶、いやヴェリテ城で起きた事象の記録が流れ込んで来ただろう。ごめんね……気味が悪いものを見せてしまって』


 ルイはシルフィールの手を取り、落ち着かせるように言った。


 彼の言葉を反芻しながら考えていた。シルフィールが目にしたのはあの黒い薔薇のような【成れの果て】がルイを飲み込んで同化した瞬間だった。

 そこから「怪物公爵」の通り名が生まれたのだろう。


 討伐を命じられた怪物そのものと化したローズレイの一族は、ソレと身体を共有しながらセゾニア王国と約定を交わしたのだ。

 この島、【真実の島シャトー・ヴェリテ】をローズレイ公爵家の領地とすること。そして、ルイの身体に巣食う内なる者へ支払う対価として血と精気を分け与える存在――【蕾姫】――を自らを死地に追いやった四大侯爵家から差し出すことを。


 そして、その要求は受諾された。


『俺たちもあいつらに等しい――結局は「化物」そのものなんだよ。薔薇の一族、だなんて名乗って誤魔化しているだけでね』


 吐き捨てるようにルイは言った。


『あの凝った薔薇が、俺たち父子おやこを生かした――余興とばかりに永遠に踊り続けろと俺たちに命じたんだ。そのおかげでカトル達も、眷属という形でよみがえらせることが出来た。こんな呪われた力ではあっても、大切な人たちを守ることが出来るようにはなったんだよ』


 あんたも含めて――。

 甘い香りが漂う庭園で、悲壮な表情でルイはシルフィールの頬に触れた。


『本来、【蕾姫】は一方的に薔薇の一族へ「与える」だけの存在だから、化物――不死の権能は伝染しない。寿命を迎えればそのまま墓所で安らかに眠らせてきた。でも、俺は死にゆくシルフィーをどうしても受け容れられなかったんだ』


 ぼそりと呟いたルイの瞳は虚ろだった。


『死にそうになっていたあんたに俺は……生き返らせるために、俺の血と精気を分け与えてしまった』


 頬に触れている彼の手が震えていた。


『ごめん、シルフィー……あんたはもう俺たちと同類。死神さえ忌避する「化物」になってしまった。永遠に――この出来の悪い喜劇の中から退場することは許されない』


 薔薇の芳香が激しく吹き荒れる風でびゅうびゅうと流れ込んでくる。

 花びらが散って紅い雨のように舞い落ちた。ルイの感情に呼応するように、強い風がシルフィールの髪を苛立たし気にかき混ぜる。


『それでも俺は、シルフィールを生かしたかった! 死なせるのは嫌だった……初めてなんだこんなふうに思うのは!』


 怒っているのか泣いているのかわからないが、酷く取り乱しているようだった。ぱっとシルフィールから離すと背を向けた。肩が小刻みに揺れている。


『俺は――ずいぶん昔、ひとりの女性を傷つけた。傷つけるつもりなんてなかった……ただ想いを寄せられていることに気付いてはいて、それが悪い気はしなくて。でも受け入れる覚悟はなかったから、拒絶して』


 その結果、彼女は死んでしまった――ルイの声には後悔が滲んでいた。


『もっと上手く振る舞えたら、彼女に優しく前を向かせてあげられるような言い方が出来たなら――こんなことにはならなかった。父上も、俺も、カトル達もこんな化物に堕ちることはなかったはずだろう……?』


 すべては自分が招いたことなのだ、とルイは独り言ちた。


『……いままでは、供物として捧げられた女たちに興味なんてなかった。そんなふうに誰かを想う感情なんてとっくに捨てたと思ってたのに。あんたが、俺の中にあっさりと入り込むから……俺を、化物じゃなくて、普通の人間みたいに見るから……』


 好きになってしまったんだ――。


 そう告げる声はか細くて――耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうような小さなものだった。


 なんだか無茶苦茶だ。これは告白なのだろうか――戸惑いはするものの、彼の表情はいたって真面目そのものだったからシルフィールはそのまま受け止めることにした。

 なにしろこうなるずっと前から、気持ちは決まっていたのだ。


 ――ルイ、私は……。


 ゆっくりと紡いだシルフィールの言葉も、強い風の音が掻き消してしまった。

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