第六章 薔薇の恋縛

01 花開く蕾

 ほぼ気を失ったに等しい状況下で、シルフィールは何らかの重要な話がされていたのは理解わかってはいたが、まったく頭に入っては来なかった。

 ただ、何もかも終わったのだ、と告げるルイの声と共に優しく抱き上げられた瞬間に、涙がこぼれた。


 もう大丈夫だ――最も危険だと考えていた彼の腕に抱かれながら、そう感じたのは自分でも不思議だった。


 イヴェル領と【真実の城シャトー・ヴェリテ】とを隔てる海原へと一艘の舟がこぎ出した。船頭は白い僧衣の男、陽が沈んだ夜の海を青白い石のカンテラと月光を頼りに櫂でゆるやかに水を切っていく。

 揺らめく水面のかいなはまるでこの海原こそが揺りかごだとでもいうようにシルフィールを揺らした。彼女を支える黒衣の男はまだ眠っているといい、と囁くように告げた。


 そして、再び深い眠りの底へと沈んでいった。


 生気のない肌は青白く透き通り、もとから細身だというのにシルフィールはすっかり骨が浮き出てしまっている。このままでは「死」が彼女を冥府へと連れ去りかねないような状態ではあった。全身に虐待のあとが痛々しく残り、衰弱しきっている。

 ただの人間ならば、泣きながら神に祈ることしかできないだろう。


 だが――薔薇の一族であれば、他に方法があった。



「おかえりなさいませ、旦那様」


 地下港で出迎えたのは王都ミニュイより呼び戻していたセトだった。その後ろにはアンも立っている。舟を桟橋に寄せて係留めたカトルのもとにアンは駆け寄った。


「そんな……シルフィール様――あぁっ!」


 涙を滲ませながらアンがこぼした悲痛な声音が地下港に響いた。

 イヴェル領へと向かう前に薔薇の三騎士である三名の従者をヴェリテ城に集めておいたのには理由ワケがあった。当初から最悪の場合を想定しておかねば、と考えていたのだ。


 ヴェリテ城に着くと真っ先に向かったのは、広間だった。ずらりと石棺が立ち並ぶ部屋の中をシルフィールを抱えたまま、ルイは足早に歩いていく。先導する三名の眷属たちは、主のためにすみやかに儀式の準備を整えた。


 シルフィールを儀式用の大きな石棺に横たえると、彼女のすぐそばにルイも寄り添った。棺に入ってシルフィールを引き寄せればふわりと薔薇の芳香が漂う――開花を待つ可憐な花びらがかたく閉じていた蕾を綻ばせていく。


 【蕾姫】の開花――本来は執り行うことはないはずだった儀式が、いままさに行われようとしていた。

 薔薇であるルイが彼女の身体に触れて感覚を共有し、精気を一昼夜与え続ける――先に行われた婚礼の儀のおおよそ逆となるその儀式。これを行う前後で、明らかに変わることがひとつだけあった。


 この状態ではもう、あらかじめ説明してあげることもできないのだけれど。

 シルフィールはいま消えそうな命の火を灯し続けているような状態だ。いま、起きた状態ではろくに会話は出来ない。


「ごめんね」


 ルイは言いながらやせ細った花嫁の身体を抱きしめた。

 これが何に対する謝罪なのか自分でもわからないままに深い眠りの底に沈んだシルフィールと自らの感覚を同調させる。

 彼女の夢と自分の意識を繋げて、干渉するのだ。


 シルフィールを、ルイの「永遠の花嫁」として覚醒させるために。

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