09 ただの「シルフィール」

 シルフィール、と呼ぶ声で目を醒ました。


 日に日に差し入れられる食料は減っていき、最初は日に二食だったものが一食になり、やがて一日に一回になった。埃っぽい物置には片付けられることのない汚物のにおいがまざり、悪臭を放っている。


 もう眠ること以外、まともに出来なくなりつつあるシルフィールは痩せた身体を起こしゆっくりとドアの前に赴いた。促されるままに、使用人用の通路を歩き始めればかつての使用人仲間たちが憐れみの視線を投げかけてくる。

 死んだと聞かされていた同僚がいきなり現れたかと思ったら、急に囚人のように扱われ始めたのだから当然ともいえる。


 階段を下りていく最中、何度も躓きそうになったが先導する従僕は眉を顰めただけだった。かつて、シルフィールが屋敷にいた頃は親しげに声を掛けてくれていたのにもう、違う。

 この屋敷には、味方がひとりもいないのだ。


 そして罪人は、刑場に引きずり出され処刑される――見せしめとして。


 目の前で開かれたドアの中に入ると、そこは食堂だった。何度かここで給仕をしたことがある。イヴェル侯爵家の三人と客人として二名――ローズレイ公爵とルイが席に着いていた。


 突き飛ばされるように前に押し出され、シルフィールは床の上に倒れ込んだ。すっかり感覚を失った左腕はぶらんと身体の横に垂れ下がるだけだ。


 顔を上げれば息を呑んだ表情のローズレイ公爵とルイが目に入った。慌てて顔を逸らし、ぎゅっとかたく目を瞑った。


「このまま餓死させるつもりでしたが、もしご必要であれば鞭で打殺うちころしましょうか。それで怒りを収めてもらえるのでしたら……」

「……ふざけるな」


 地の底を這うような唸り声が聞こえた――呪詛に塗れた怨嗟えんさの声が。


「俺は、おまえたちを許さない、許してなるものか」

「ルイ公子、あの、どうなされたのですか――? ああこの娘が目障りなのでしょう……たかだかメイドの娘風情です、ご自身で処分するのもお手間がかかりますしよろしければこちらで、ひぃっ……!」


 風を切る音と同時に、ごおと熱がすぐ耳の横を通り抜けるのを感じた。

 暑い――何かが燃えているようだ。


 勢いよく何かが爆ぜるような激しい轟きが背後から聞こえた。おそるおそる目を開けば、見慣れた食堂が何故か火の海になっていた。青い炎が轟轟と音を立てながら石の床を這いあがり、壁紙を焼いている。


「――俺の花嫁を、傷つけた罪を軽いと思わぬことだな……!」

「ルイ……?」


 血の色に染まった双眸で青い炎を操り、食堂を燃やしていたのはルイだった。


「シルフィール……可哀想に。酷いことをする」


 何が起きているのか呑み込めず呆気に取られていたシルフィールの前にかがみ込んだのはローズレイ公爵だった。


「公爵……?」

「お義父とうさま、だろう?」


 そう言ってローズレイ公爵はにっこり微笑んで見せた。それは、この惨状とはそぐわない穏やかな微笑だった。


「ルイ、その程度にしておきなさい。シルフィールが怖がっている」

「あ、あの……」


 焦げ臭いにおいがしてもおかしくないはずだが、食堂の中は全くと言っていいほど異臭はなかった。むしろ料理の香ばしい香りが漂い、空腹のシルフィールの胃を刺激する。

 シルフィールがぼんやりしたまま考えがまとまらない間に「君がちっとも帰ってこないから迎えに来たんだ」と公爵はこともなげに言った。


「ち……またあんたばっかりいい顔をしようとしてっ!」


 ふっと食堂をはいずり回り天井まで届きそうだった青い火が消えた。焦げ跡一つなく、何事もなかったかのように元の食堂の状態に戻っている。何が起きたのかわからずに目を瞬かせていると、ルイが「幻だよ」とひどく端的に説明した。

 それにしては、熱も感じたし、ひどく生々しい感覚がしたのだが――これも薔薇の一族が持つ力なのかもしれなかった。


「……あ」

「眠るといい。疲れただろう」


 そう言われると、何故だか瞼が重たくなってくる。眠い、前からそう思ってきたような気がしてきた。


「そうだね――あんたが目覚めた頃には全部終わっている」


 全部、終わる――なんのことだかわからないままに抗いがたい睡魔に呼ばれ、シルフィールの意識はゆるやかに混濁していった。

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