02 【蕾姫】の里帰り
「おや、【蕾姫】。何か困ったことでもあったかな」
ローズレイ公爵の書斎を訪ねると、珍しいことにルイがその場にいた。
一瞬目が合ったがぱちりと逸らされる。あれ――何か、違うな。何気なく彼を観察しているうちに違和感の正体に気付いた――そうだ、手首のリボンがないのだ。
あの式典の晩のようすではお互いに肌身離さず身に着けておくんだよ、とでも言いたげな勢いだったのだが、もう飽きてしまったのだろうか。
まあ、シルフィール自身失くしてしまったのだから言及する資格はない。長袖の下の左手首をぎゅっと押さえつけるように掴んだ。
「……あの、ローズレイ公爵」
「お
すかさず修正を入れられたので、仕方なく「お義父さま」とシルフィールは言い直した。それだけのことで嬉しそうに微笑んでくれるひとをいまだって自分は裏切っているのだ、と思うと胸が痛む。
騙しているという感覚は次第に薄れていったのに、ずいぶん親しくなりすぎたせいだろうか。申し訳ないという気持ちがふつふつと泡のように湧き上がってくる。
この不思議な城の生活に、彼ら薔薇の一族に――シルフィールはいつのまにか馴染んでしまっていた。
「里帰りを、させていただけないでしょうか……」
申し出るのに、かなりの勇気を要した。
いっそダメだと断ってくれたらいいのにと思う。そうすればシルフィールはまだここにいられる。驚いたようにルイが此方を見て――否、睨んでいた。
「シルフィール……私たちは君に何かひどいことをしてしまっただろうか」
「いえ、違うんです。火急の要件だと、父――イヴェル侯爵から呼び出しがありまして。母が、式典の後、イヴェル領に戻るなり寝込んでしまったそうなのです」
嘘だ。奥様はぴんぴんしているだろう。あり得るとしたら楽しそうに過ごしているシルフィールを見て卒倒してしまったとか、その程度の「ご病気」だ。どうしてメイド風情があんないい目を見ているのです、と体裁にこだわる夫を責め立てているさまが目に浮かぶようだった。
あなたがきちんとローズレイ家について調べていれば、こんなことにはならなかったのですよ、と。
「それは心配だね……だが、ルイは【蕾姫】からの供給が途絶えてしまうと百年を待たずして、再び眠りに就かざるを得なくなる」
「そう、ですよね……」
「俺なら構わないけど」
ローズレイ公爵の淡々とした拒否の意思表示に対し、ルイは待ったをかけた。
「あんたは帰って来るんだよね」
「……は、はい」
またひとつ。吐き出した
「行く前に、たくさん血と精気をくれたら……しばらくは大丈夫でしょ。だから行かせてやればいいんじゃないの」
「ルイ――しかし、いま彼女をイヴェルに帰すのは……」
「親父は黙ってて」
ぴしゃりとはねつけたので、公爵は「うっ」と呻きながら胸のあたりを押さえていた。「大丈夫ですか」とシルフィールが駆け寄り、屈みこんだ公爵の背をさすると、深く長い息を吐きながら言った。
「いや、少し感動してしまってね……ルイに父親扱いされるのが久しぶりすぎて」
「は……そう、なんですね」
酷く感動しているらしく、涙まで流していた。どれだけ――いや百年ぶりに息子に父親扱いされたのだとしたら、それほど嬉しいのも納得かもしれないが。
「そこの老害は放っておいて。シルフィー、行くよ」
むせび泣く公爵をぼうっと見ていると、大股で歩み寄って来たルイに、ぐい、と腕を掴まれ立たされた。足を縺れさせながら書斎を後にする。
「ど、どうしたんですか――ぃ⁉」
ぎ、とシルフィールの腕を掴む手に力が入った。骨が砕けるのではないかと思うほどに、痛い。
「ルイ……?」
「――あぁ、ごめん。逃げないよね、こうまでしなくても」
「逃げ、ません……私はルイの【蕾姫】ですから」
まだいまは、ではあるのだけれど――そんなことは言わないでおく。それほど彼は切羽詰まった表情をしている。ルイは足早に振り自らの部屋に向かうと、真っ暗な部屋の中にシルフィールを押し込めた。
がちゃん、と鍵のかかる鈍い音が暗闇に響いた。
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