10 病めるときも、健やかなるときも

 婚礼の儀のあと、ひとまず自室に送り届けられたシルフィールは泥のように眠り続けた。身体に蓄積した疲労が限界を迎えたのである。


 たっぷりほぼ一日ほど眠り続けたあとに、ようやく目を開けた。


「シルフィール様っ」


 身体を起こしたシルフィールに、アンが飛びついてきた。


「な、な、なに……⁉」


 状況が呑み込めず泣きじゃくるアンの背に手を回すと「寝すぎだよ」と冷ややかな声がかけられた。


「……ルイ様?」

「んー、その表情かお……警戒心が滲み出てる。悪かったってば、ちょっとはね、からかいすぎたかなって思ってはいるんだ。ごらんよ、あんたにたれた頬、まだ朱くなっているだろ?」

「いいえ、まったく。相変わらずお美しいお顔をなさっておいでですよ」


 痛かった、としきりに訴えてくるルイは無視して、シルフィールはまだぐすぐす鼻を鳴らしているメイドに「アン?」と声を掛けた。


「わたくし、シルフィール様が死んでしまったのでは、と心配でぇ……ひっく! ルイ様は欲望に忠実、百年の眠りから目覚めた直後など特に貪欲なケダモノみたいな方なのでっ……」

「おいおい、人聞きが悪いことを言うなよ」

「本当のことですものっ!」


 きっとアンがルイを睨んだ。使用人と主人という関係性であるとはいえ、この城においてはなんというか近しい感じがある。

 仮にシルフィールがシルヴィアにこのように気安い口をきいたら、折檻の後に荷物さえ取りに行く余裕を与えられず屋敷から放り出されていたことだろう。


「ていうかアン、せっかく俺の花嫁が目を醒まして、感動の対面だっていうのに……どうしておまえが熱い抱擁をしているのさ」

「まあ、そうやってまた疲労困憊の【蕾姫】様から精気を取ろうなんて算段ですのね……」


 野獣ですわ、とアンが呆れたようなまなざしを向けると、ルイはこほんと咳払いをした。その反応を見るとあながち外れていなかったらしい。


「アン。これは命令だ――この部屋から出ていけ」

「は……御意にございます。わたくし、アン・エムロード――薔薇のお言葉に従います」


 不服そうであったが、アンはシルフィールから離れた。ベッドを降りシルフィールとルイに一礼すると、ためらうことなく部屋を後にした。


「…………」


 気まずい沈黙の中でルイを見上げれば、ぱちっと眼が合った。

 靴を脱ぎ捨てると、よっこらせ、と断りなく寝台に上がって来る。まるで小動物か何かのように邪気なく愛らしい顔をして言った。


「これからあんたを俺の餌として可愛がってあげる。嬉しい? そう、それはよかった」

「何も言ってませんけど⁉」


 餌って。妻を餌って言ったが、この男。

 そのあたりからしても愛など微塵も感じられない――ただの捕食者と被捕食者、その覆らない一方的すぎる関係だ。このような魔窟に娘を嫁がせたい親などどこにもいないだろう。四大侯爵家で、嫁入りを押し付け合っていたのも納得である。今頃イヴェル家もほっとしていることだろう。

 もしくはひやひやしているのか――シルフィールが、イヴェル家のではないと知られるのではないか、と。


「何を考えている?」

「っ」


 す、と顎を持ち上げられ半ば強引に視線を合わせさせられた。濡れた血のような眸に見つめられると呼吸の仕方をも忘れそうになった。静まっていた心臓が、どくどくと激しく鼓動し始める。


「いえ……何も」

「まあいいけどさ。俺はあんたを可愛がってあげるよ? そこは安心していい、その代わりあんたの血と、精気が欲しい……もう知ってるだろう? 吸血も、精気をもらうときも痛みよりも快楽が勝る」


 ぎくりとした――見抜かれていたのだ、と知って頬がかあっと熱くなる。


 痛みや恐怖の先にある心地好さ、酩酊するようなふわふわとした感覚。それに溺れそうになっていた自分を指摘されてしまったことにシルフィールは動揺した。

 思わず後退ろうとしたが、すぐ寝台の背にぶつかった。


「さほど嫌がる必要はないはずだ――初めて会ったときや婚礼の儀よりも、ずっとはるかにくしてあげる……嬉しいよね? そう、わかるよ――顔に書いてあるから」

「そんなことな……んぅ!」


 口づけられたと気づくまで数拍かかった。ひんやりと冷たい唇が触れて、ぞくと背がしなる。


「……病めるときも、健やかなるときも、だっけ? くだらない――俺なら永遠をあげられる。愛してあげるよ、あんたが望むのならば」


 身体から力が抜けていく。まさにいま精気が抜けていっているのだ、となんとなくわかった――だってすごく……。


「へえ。気持ちいいんだ……可愛い」


 ちゅ、とキスが落とされた首筋を舌が触れ――濡れた肌につぷりと牙が立てられた。

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