02 花嫁になるのも体力勝負です。

 有無を言わさず養女に迎え入れられた、シルフィール・イヴェル嬢の婚礼準備はすみやかに執り行われた。

 ローズレイ公爵家と四大侯爵家との、百年に一度の婚姻は細かなしきたりが決められているらしい。


 その一つが、婚礼衣装だった。


 仕立屋が大急ぎで仕上げたドレスは見事で、華やかではあったのだが異質だった。

 シルフィールの華奢な肩を強調するのは、とろりと滑らかな質感の生地の身頃を首の後ろで留めるホルターネック。裾にかけてふんわりと広がるフリル。装飾として縫い留められた真珠。顔を覆うヴェール、長袋の袖口にあしらわれたレース、髪飾りに至るまで「黒」一色で統一されている。


 唯一の色味は、花嫁が捧げ持つブーケの赤薔薇だけだ。

 まるで影みたい。飾り立てられたシルフィールを見てシルヴィア嬢は言った。


 名義の上では姉妹となったとしても、当たり前だが両者の間に情のようなものが芽生えはしなかった。いちおう、シルフィールは私生児と偽って籍を入れることになったのだが、イヴェル家の血筋の特徴である紅茶色の髪も、湖のように碧い瞳もない。透き通る赤にミルクを入れて濁らせた薄茶の髪と、母譲りの濃灰色の瞳は、親近感を姉であるシルヴィアに抱かせるものではなかったようだ。


 シルヴィアは不満げにイヴェル夫人の手を引いて「わたしにも新しいドレスが欲しいわ」とおねだりしていた。

 これが正式な家族となったイヴェル家の人間との最後の会話だった。


 馬車が屋敷を出発したのは夕方だった。

 領地の北端にある海岸に、ローズレイから迎えが来るらしい。


 出発前、イヴェル侯爵も夫人も令嬢も、誰一人として見送りに姿を見せることはなかった。

 親しかった同僚にも会えなかった……なんでも、シルフィールを養女に迎え入れる際に死んだことにされたらしい。逃げられないよう忠実な使用人にのみ真実を告げ、見張りを付けられ、ほぼ監禁状態で婚礼の日まで過ごしてきた。


「……うぅ」


 道が悪いのか、揺れがきつくてシルフィールは吐き気を催していた。

 もしドレスを汚してしまったら――我慢しなくては。こみ上げるものをなんとか呑み込む。婚礼のしきたりとやらで、シルフィールは何一つ嫁ぎ先に持っていくことを許されなかった。持参金や婚礼の品ばかりか着替えさえない。所持品といえばいま着ているドレス一着と、ブーケだけだ。汚すわけにはいかない。


 御者に乱暴にドアを開けられ、足を縺れさせながらも外に飛び出す。

 馬車を下りたシルフィールを待っていたのは、公爵家からの出迎えにしては貧相な小舟なうえ、案内役は真っ白な長衣姿の男が一人だった。


 糸のように細い眼で、値踏みするように此方を見ている。


「シルフィール・イヴェル様。はるばるお越しくださり、ありがとうございます」


 恭しい仕草で手を取り、そのまま船を係留しているところまで導かれる。


「あっ」


 躓きかけたところを、支えられた。足元が暗いのでお気を付けください、と静かな夜に溶け込むような声音で男は言う。


 そのとき海風でシルフィールのヴェールがなびいて揺れた。


 潮のにおいに鼻を刺激され、俯いていた顔を上げれば、ぼんやりと、薄闇に沈んだ海の向こうに大きな影のようなものが見えた。


 ローズレイ領は、ぽつんと浮かぶあの島がほとんどだという――公爵の領地のわりに狭くはあるが、近海の豊富な資源や島内の鉱山でのみ採掘できる希少な鉱石など、王国でも主要な交易品の産出地となっている、と前知識として調べてはいた。

 シルフィールが舟に乗り込むのを見届けて、馬車は去っていった。



 それにしてもあっという間だった。

 最初から準備でもしていたのか、と思うほどにすみやかに養子縁組の手続きが済ませられ、予定を押さえていたらしい仕立屋がシルフィールの採寸を始めた。手紙が届いてから今日、送り出されるまで二週間もかからなかった。


 追い立てられるようにイヴェル領を離れることになったが、郷愁も何も感じない。

どうせ、会いたい人もいないのだし。


 シルフィールに家族はいない。

 物心ついたころには母は一人きりでシルフィールを育てていたし、その母が死んでからは「私に何かあったら侯爵家を訪ねなさい」という言いつけどおり、下働きとしてイヴェル侯爵邸でお仕えしてきた。


 古参のキッチンメイドから聞いたが、母もかつてイヴェル家のメイドだったらしい。


 ちゃぷん、と揺れる水面にシルフィールは手を伸ばした――いけない、手袋が濡れてしまった。でも肝心のドレスが吐瀉物にまみれなかったのだから、海水でちょっと指先が濡れたぐらいは許してほしい。


 船酔いするかもとは思っていたのだけれど、漕ぎ手の腕が良いのか、心地好いとさえ感じている。話しかけてくるわけでもなかったので、だんだん眠くなってきたくらいだ。


 ローズレイ公爵はこんな真夜中に結婚式を行うつもりなのだろうか。


 大体、シルフィールはローズレイ公爵のことを嫁入り前にもほとんど何も聞かされていなかった。詰め込み式の淑女教育を頭に叩きこむのに必死で、そこまで考える余裕がなかったとも言える。


 公爵、ということは偉い人なのだろう、とは思う。

 でもシルフィールにはイヴェル領が、あの屋敷から見える世界がすべてだった。たまに処分される前の新聞を斜め読みしてはいたが、ローズレイの名前は一度も見たことがなかった。


 顔も年齢も知らない謎の人物のもとで、これからシルフィールは暮らすのだ。


 婚礼の前に礼儀作法など、多少取り繕えるほどには教えてもらったが、すべて付け焼刃だ。不興を買って罰を受けるかもしれない――所詮は、急ごしらえ。偽物の令嬢なのだから。


 それに怪物とまで呼ばれるほどの人物なのだからよほど気難しく、怒りっぽく、残忍な――……がたん、と舟が揺れてシルフィールはハッとした。



 どうやら到着したらしい。

 うつらうつらしていたせいで、一瞬、自分がどこにいるのか理解できなかった――そしていまも、状況が呑み込めずにいる。


「わ……」


 揺らめく水面にぽつぽつと青色の光が浮かんでいる。

 目を凝らせば円形の葉の上に、ローズレイ領でしか採れない貴重な青光石で作った照明が据え付けられているのだと気づいた。


 港、のはずだが見上げればドーム状にくりぬかれた天井がある。洞窟の中、といったところだろう。振り返れば入り口のようなものが見える。


「【蕾姫】、こちらへ」


 一足先に舟を降りていた糸目の男が手を差し伸べている。桟橋に打ち寄せる波が砕け、白く泡立っていた。


 それにしても聞き慣れない呼び名だ。意味もわからない。


 よろめきながらも手を取り、シルフィールはローズレイ領の島――ヴェリテに上陸した。

 洞窟内の小規模な港――というよりは舟着き場と言った方がよさそうだ――の奥には大きな階段があった。その先に領主である公爵の城があると案内人は説明してくれた。

 それからしばらく、男のあとについて歩いていたのだが……。



「ぜえぜえ、ぜえ……あの、まだ、ですか……?」


 シルフィールは息切れがし始めていた。


 あの洞窟も城の一部だという話だったが、巨大な地下空洞の壁伝いに長い階段が築かれている。終点も見えないが、最下層の港も見えない。物珍しさに二百段目までは数えていたのだが、きりがないので数えるのはやめた。


 男はシルフィールの問いに答えてはくれず、黙々と遥か先を歩いている。此処で立ち止まったら置いて行かれてしまいそうだ。


 少しはこっちの状態も気にしてほしいのだけれど。

 ふわふわとボリュームたっぷりのドレスの裾も厄介だが、問題は靴だった。


 ヒールが細くて高い靴なんてメイドのときは履いたことがなかったし、婚礼衣装用のそれはおろしたばかりで足になじんでいない。上等なのは間違いないが、擦れた踵と小指がじくじくと痛みを訴え始めていた。


 外出嫌いで散歩さえも面倒がっていたシルヴィアなら、十段も上らないうちに音を上げていたに違いない。はあ、と息を吐いてシルフィールは遠ざかって点のようにしか見えなくなっていた男の背中を睨みつけた。


「……ぐうっ、おりゃあああ、負けてたまるか! こっちは下町育ちじゃいっ、見せたれド根性!」


 わしゃっとスカートを勢いよく捲り上げて、はるか遠くに見える男目掛けて駆けだした。

 痛い、痛いけどここまで来て置き去りにされたらあまりにも悔しすぎる。

 シルフィールには帰る場所もなければ引き返してイヴェル領に戻る手段もない。


 それならこんな苦行、さっさと終わらせた方が百倍マシだ。しとやかな令嬢ぶって温存していただけで、気力を振り絞れば薄情な男の背中にドロップキックするぐらいの余裕はあった。


「……お疲れさまでした。【蕾姫】は健脚ですね」


 どどど、とものすごい勢いで階段を駆け上がって来たシルフィールに驚いたのか、男は目を瞠って足を止めていた。細い目をさらに細めながら言う。


「もし途中で歩けなくなっているようでしたら、失礼ながら抱えさせていただこうかと思っていたのですが。要らぬ気遣いでしたね」

「……はは、どうも」


 ひ弱な令嬢としてはシルヴィアの反応(大げさに運命を嘆いて助けを待つ)が正しかったようだ。

 こちらへ、と男に促されてドアの前に立つ。

 古びた両開きのドアには十字の鎖が掛けられていた。取り出した鍵で鎖の中央に仕掛けられた錠を開け、慣れた手つきで絡まっていた鎖を解いていく。


「ずいぶん厳重なんですね」


 まるで何かを閉じ込めているかのようだ。


「ええ、決まりですので」


 淡々と開錠を終えた男がドアを開け放った。



「――ようこそ、ヴェリテ城へ」

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