第一章 薔薇の婚姻

01 盗み聞きはやめておきましょう。

 シルフィールがイヴェル家に来てから十年目を迎えた春のことだった。

 

 持ち場である二階廊下の清掃を終え、ようやく休憩に入るというときにその騒動は起きた。


「撤回してください!」


 癇癪持ちのイヴェル夫人の怒鳴り声が屋敷に響き渡るのは日常茶飯事だったが、書斎からすすり泣くような気配がした。お母さま、となだめるのはこの家の一人娘であるシルヴィアだ。


「ソフィア、これは仕方ないことなんだ」とイヴェル侯爵は厳粛な声音で断言した。

「四大侯爵家の中で、未婚の娘がいるのはエテ家と我がイヴェル家のみ……まさか、エテの次女が隣国の伯爵と婚約が内定していたとは。くそっ、出し抜かれるなんて思いもしなかった」

「こんなことになるなら、うちのシルヴィも早く婚約させてしまえば良かったのです。貴方がぐずぐずしているからこんなことに……」


 ドアが半開きになっているせいでいかにも重大そうな会話が丸聞こえだった。

 シルフィールの他にも使用人たちが続々と興味津々といった面持ちで集まってきている。仲が良いメイドの一人がシルフィールより先に現場にいたので「どういう状況なの」と身振り手振りで尋ねてみた。


「さっき、執事が王室からの手紙を旦那様に渡したのよ」


 声を出さないようにしたシルフィールの配慮をも台無しにするような、鼻高々な大声で同僚は証言した。


「それを読んで、この騒ぎ。いったいなんだって言うのかしら」

「なんでもお嬢様が選ばれたんだと」


 すかさず噂好きの従僕が口を挟んだ。


「選ばれた、って何に?」

「【怪物公爵】の花嫁に、だよ!」


 その一声で使用人たちは押し黙った。落ち着かないようすで顔を見合わせている。シルフィールは耳慣れない単語に首を傾げた。


「怪物……? え、何?」

「誰ですか、そこにいるのは!」


 ばっと書斎のドアが開いた。

 思わず周囲を見回したが、逃げ遅れたのはシルフィールだけだった――昔から要領が悪いのだ。メイドみんながやっていることなのにお菓子をつまみ食いした、と料理番から咎められるのも、休憩に入ったばかりのときに奥様と目が合って用事を言いつけられるのも、たいていシルフィールなのだった。


 だからこれから起きるすべての物事は彼女の要領の悪さ、間の悪さから起きた出来事である。


 書斎の中に引っ立てられたシルフィールは罪人のように、そこにいたイヴェル侯爵夫妻、娘のシルヴィア・イヴェル嬢の前に立たされた。視線で侯爵は執事に退室するように促し、書斎にはイヴェル一家とシルフィールだけが残された。


 旦那様の執務室でもある書斎はシルフィールの担当外のため入室したこともほとんどない。物珍しさにきょろきょろと見回してしまう。


 大きな窓を背に書き物机が据えられ、左右の壁は一面の書架となっている。

 読書家である部屋の主の収集した書物がみっちりと埋められている……ように見えるのだが、ほとんどが前の侯爵であった彼の兄の持ち物で、その多くが既に処分されている。実際は空のケースがそれらしく陳列しているだけなのだ、と清掃担当のメイド仲間が話しているのを聞いた。


「シルフィール」


 分厚いじゅうたんの踏み心地の好さにうっとりしていたシルフィールを現実に引き戻したのはイヴェル夫人だった。背筋がぞわぞわする猫撫で声で呼びかけるのは、きまって何か面倒な用事を言いつける前触れだったので、思わず身構えてしまう。シルフィールがぼうっとしている間に、家族三人の間で何やら話し合いが持たれていたのは薄々察していた。


「あなたの働きには常々感謝していたのよ」と夫人はわざとらしく褒めちぎった。

「恐れ入ります」


 火の粉が飛んでくるのを恐れ、余計なことを言うまいと唇を噛んでいたシルフィールだったが、もしやお給金を上げてもらえるのでは、と淡い期待が頭をよぎった。心当たりはまったくないが奥様のご機嫌がよくなるような一手を打っていたのかもしれない。けちと名高いイヴェル家ではなく、どこかの心優しい伯爵家などでは勤続年数に応じて褒賞が得られるという制度もあると聞いたことがある。


「シルフィー、あなた文字は読めたわよね?」

「はい、奥様」


 差し出されたのは一通の手紙だった。読めということなのだろう。

 意図を理解しかねるものの、封蝋――薔薇に、何か棘の生えた長いものが巻き付いた複雑な印章だ――を引きちぎるようにして開けられていた封筒から便箋を取り出した。


 ――イヴェル侯爵家の息女とローズレイ公爵との婚姻を命ずる。


 要約も何も、その一文しかない。あとは右端の署名だけだ。確か、誰かが王室からの手紙だと言っていたっけ。


「まあ! お嬢様、ご婚約おめでとうございます!」


 シルヴィアが結婚するらしい。


 使用人仲間が話していたとおりではあったが、形式的にシルフィールは驚いた演技をしてみせた。ローズレイ公爵とやらがどんな人物なのかは存じ上げないが、国王の縁者であるならば良縁ではあるのだろう。それに国王が命じた、とあらばイヴェル家は拒むことも出来まい。


 もしかするとシルフィールにイヴェル嬢の花嫁支度を手伝わせるつもりなのかもしれない。本来なら侍女などの上級使用人が中心になって行うことだから異例の抜擢である。賃金上昇の夢が現実味を帯びてきた、と胸を高鳴らせていたときだった。


「嫌よ! わたしは結婚なんてしたくないっ」


 シルヴィアがいきなり、わっと泣き出した。


「お、お嬢様……?」

「【怪物】の花嫁になるくらいなら死んだ方がマシだわ!」

「ああ可哀想なシルヴィー、私はあなたをそんな目に遭わせたりなんかしない。お母さまが約束するわ」


 なんだろう、この安っぽい芝居は。呆れながらも母娘を見守る以外にシルフィールに出来ることはなかった。


 ――怪物公爵、ね。


 そういえば先ほどもそのような単語を聞いたような……そのローズレイ公爵とやらは【怪物】と呼ばれるほどに醜悪な見た目をしていたり、残虐非道であったりするのかもしれない。


 不本意な婚約、そして結婚。


 温室育ちのご令嬢にとって悲劇なのかもしれないが、シルフィールはお嬢さまと仲が良かったわけでもなければ特別よくしてもらった記憶もないので、所詮は他人事だった。娘の背を撫でながら宥めていたイヴェル夫人が「というわけですから」と言って、シルフィールに向き直るまでは。


「ローズレイ公爵とはあなたが代わりに結婚なさい」

「は……はい?」

「あなたを、養女として迎え入れます」

「あの奥様、申し訳ありませんが何をおっしゃっているのか、よく……」

「私からも頼む、どうか受け入れてくれないか」


 勢いよく跪いたイヴェル侯爵がシルフィールの両手をがしっと掴んだ。


「旦那様まで何をおっしゃっているんです? そのような真似はよしてください!」

「うちの家門から嫁がせれば、シルヴィアじゃなくても面目は保たれる、王命に背いたことにもならない!」


 なんと、侯爵家一同は我が子可愛さに使用人を身代わりに仕立てようという算段らしい。よほどその【怪物公爵】との結婚を忌避したい理由があるに違いない。


「ローズレイ領は王国北西部の島、ヴェリテ島一帯――海洋資源は豊富だし、鉱山からは貴重な宝石が採掘できるため領民は皆、恵まれた生活をしていると聞く。貧民も犯罪者も皆無だという噂だ」

「はあ……そのようなことが、可能なのでしょうか?」


 たとえ領主の采配で富の分配が行われているのだとしても、人と人とが暮らしていて争いが起きないなんてことは不可能のように思う。行きつけの古書店で立ち読みした程度の知識だが、しかし領地経営がそれほど上手くできるほどに有能な人物との婚姻を何故……イヴェル家は畏れているのか。


「百年に一度」

「えっ?」

「ローズレイ公爵家と、セゾニア王国との取り決めなのだ。四大侯爵家の中からローズレイに嫁ぐ娘を決める。その娘は【蕾姫】と呼ばれ……二度と、島の外には出られない」

「あの、それは、どういう……」

「手紙のやりとりも出来ない。ローズレイ領に出入りできるのは領民だけ――嫁いだ娘の生死すらわからない。そんな場所に娘を嫁がせたい親がいると思うか⁉」


 侯爵はシルフィールの手が腫れるほどに強く掴んでいる。逃がすまい、としているようにも思えた。


「あなた、身寄りがないでしょう? この家に来たのは以前、メイドをしていたあなたの母親が死んで、伝手を頼って来たのよね……イヴェル家には恩があるはずよ。そろそろ返す時が来たんじゃないかしら」


 ねっとりと絡みつくような夫人の声に肌が粟立った。


「大丈夫。あなたは利口な娘だし、公爵の妻としてうまくローズレイ家に取り入ればいまよりもずっといい暮らしが出来るはずよ」


 言いながらもイヴェル夫人はぐすぐすと鼻を鳴らして泣きじゃくるシルヴィアの背を撫で続けていた。



「それに――此処まで聞いたあなたに拒むことを私たちが許すと思って?」

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