私の罪と彼の運の悪さ

@akinoirodori

懺悔.....

私はこれまでに大きな罪というものを犯してこなかった人間である。


そもそもの話、私はやましい行為をする際に”度胸”などという言葉を使う輩を嫌悪してやまない人間であり、それこそ、よそ様に迷惑をかけるような真似を全くしてはいけないと教わっていたし、それを馬鹿正直に守ってきたつもりだ。


頭の固い男と思うかもしれないが、私には他の人が行う多少のことには口出しをする権利などないとも思っているため、他の人にも自らのポリシーを押し付けるつもりも、それをとがめるつもりも毛頭ありはしない。




.....いや、そもそも私が本当に咎めるということをできる男であったのなら”あのような”ことを起こすことはなかったのは疑いようのないことなのだ。


私が人生で人生で築いてきた善行の数々でさえ、先日の大罪の一つによって偽善へ帰すのだろう。

そして正しくなくとも清く生きようとした私は、その際に完膚なきまでに死んだのだろう。



雨の日に駅前の倒れた自転車を立てたあの行いも、私のことを良く思わない上司と顔を合わせた際にも一つも挨拶を欠かすことのなかった行いも、全て。


いや、こうして過去の行いにしがみついて自らの罪を軽くしようとするこの身はどうの仕様もない偽善者であるのだろう。


清く生きようとした私は死んだのではなく、そのように生きているふりをした醜い己がいまになって露呈しただけのことなのだ。


私は今になってもあの時の正解というものがわからないのだ。

いや、もうすでに分かっているのだろう、だから私は君にこの話をして君も同じ選択をするだろうこと、そして私がおかしいわけではないということを確認して私は再度自己弁護がしたいのだ。

私はこの大罪を犯した罪を、誰しもがやるという言い訳でなかったことにしようとしているのだ。

私の選択、そこには人の苦悩が詰まっている気さえする。

貴方ならどうするのか、所詮第三者に過ぎない貴方の身でさえも私の判断に同情し、共感してくれることを願う。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先日、私は仕事帰りに総菜など夕食のおかずを買うために、近所にあるスーパーマーケットに立ち寄っていた。


仕事の帰りによく利用するお店で、常連客といっても過言ではないだろう。


その日はとても気温が高く、それに比例して店内もとても冷えていたのが悪かったのだろう、私はいつの間にか尋常ではない腹痛を覚えていたのだ。


幸いにも籠に商品を入れる前だったのですぐに籠を戻し、外にあるトイレへと速足で駆け込んだ。



そこからは腹痛との激戦であった。

歯を食いしばるほどの痛みを耐えながら、私は孤軍奮闘していたのだ。


トイレに入ってからどれほどの時が過ぎたであろうか、長いような短いような地獄の時を過ごしていたとき、計り知れぬ苦痛の脇で、ある音が耳に入った。


かつかつかつと早歩きで便所に入ってくる革靴の音だ。


誰かが入ってきたとは思ったものの、私はそっちに意識を向けることができる状態ではなかったために、無意識でその足音を追っていたのだろう。


かつかつかつかつと早いリズムを刻む音が洗面台を過ぎ、小便器のあたりに差し掛かっても止まる気配がないのを聞き取ると、痛みで鈍っていた思考が急速にクリアになり、瞬間的に引き延ばされた僅かな時間のうちに全てを悟った。



ガチャン!!


靴音の主が私の入っている個室のドアを開けようとしてカギに阻まれてしまったのだ。


私は知っていた、このスーパーの男便所には個室が”一つ”しかないことを。


私は感じていた、今入ってきたこの男はもうそろそろ限界が近づいているであろうことも。


一瞬で頭が真っ白になった、あの地獄の腹痛ですら脇に置いてきたかのような感覚に陥った。


ドン!トントン!


明らかに切羽詰まっているだろうノックの音が私の脳に響く。


ここは声を上げるべきなのだろうか?

私は悩んだが、積極的ではない性格もあってか声を上げることができなかった。


向こうも誰かが入っているだろうことはわかったらしいのだが、声をかけてきたり、再度ドアを叩くようなことはしなかった。

彼はドアの前でたまに身じろぎしながらも待っていた。


早々に終わらせなければいけないと感じた私だったが、腹に力を入れると増す激痛と痔の痛みに、なかなか決着をつけることも難しいというありさまだった。


そして、いくらかの時が立ったころ。

内心穏やかとはまるで言い難いほど荒れ狂っている我々とは違って、静寂に包まれた空間。




一つの小さな、しかしはっきりと聞こえる異音がトイレに響いた。


それからは決壊したダムのように、いや、雄たけびを上げながら突撃する軍団のように、耐えきれなかった音が”扉の向こう”から聞こえてきたのだ。



思えば我々は常に同じ感情を抱いていたのだろう、扉一枚隔てて天と地ほどの差もあるこの環境で、私たちはトイレに駆け込んでから今でさえも同じ感情を共有していたのだ。

ただ”したい”という原始的欲求に人間の理性を足した、とてもありふれた気持ちだ。


彼は動かなかった、私も動かなかった、いや、どちらも動けなかった、呼吸さえもできなかった、そしてそれは、とてもとても長い時のように感じられた。


もはや私にとってこの痛みから解放されようと腹に力を籠めることすらおこがましく感じさせられた。

なにか一つでも音を立てたならば、かつてないほどの嫉妬と怒りと絶望を抱いているであろう大妖が扉を破壊して私に襲い掛かるのではなかろうか、と私はその時心底恐怖していた。


しかしこの時点においては私には大罪と言うべき罪はなかったかもしれない、同じ境遇の腹痛持ちが運という極めて不平等で平等な事象によって救われ、救われなかった、ただそれだけの話なのだ。



静寂の中、最初に動いたのは彼であった。

座り込んでいたのだろう彼が立ち上がっていたと同時に私は自分の呼吸の音を聞くことができたのだ。


それからはあまりにも淡々としていた、彼は無言で立ち上がって掃除用具入れを開け、トイレットペーパーを取り出して始末を始めたのだ。

床をふく音、服をふいた音がかつてないほどに冴えていた私の耳に入ってきていた。

幾ばくかの時が経ち、彼は掃除を終えたようだった。

私はそれを望んでいたのだろう、早く終えて出て行ってくれと途方もなく思っていただろうココロに嘘をつくことはできなかった。

しかし、そううまくいくものかと思っている私がいたのもそれもまた真実である。


天は私の醜い心根を見抜いていたのだろうと今になって思う。

当時としては、閻魔が地の底より引きずり込もうとしてるとしか思えなかった。


彼は掃除を終えるとまた私の入っている個室の前に立ったのだ。

それが何を意味しているのか私の頭で思い当たるのに少しの時間を要した。

そもそも時間などというものはあの空間にあってないようなもの、正確にはほんの数秒だったのかもしれない。


それは極めて簡単な理屈なのだ。

拭ったトイレットペーパーを処分したい。

ただそれだけの話である。

ただ彼はトイレに流したいだけなのだ。


私はあまりの恐怖に絶望した。

かの妖は私に人道をとり自ら地獄の門を開けて食われるか、外道に落ちる代わりに生き残るか選べというのだ。

私は怖かった、もちろん扉の先に行くことも怖かったがそれよりも逃げ道を用意されていたのが怖かったのだ。

彼は催促などをすることはなかった、ただあまりにも不気味にそこに立っていたのだ。


私が自ら外道を進み、自ら加害者になることで助かるというあまりにも甘い罠を置いたのだ。

扉を開けないだけ。

これだけの選択が私の人生の全てを否定するのだ。


かくも悪魔というのは恐ろしいのか。

私はその気持ちであふれていた。

私は年甲斐もなく泣きそうになっていたのだ。


時間がどんどんと過ぎていくのがわかる。

私の括約筋は致命的なほどに動く気配がなく、私を決して許そうとはしないかのようであった。


今度もやはりまた先に動いたのは彼であった。

彼はカバンからくしゃくしゃとビニール袋を出してそれにゴミを入れたのだ。

そしてかつりかつりとここに入ってきた時よりも明らかにゆっくりとした足取りでトイレの外に向かい、そして一度立ち止まり、また歩き出して出て行ったのだ。


余りにもあっけなかった。

私を恐怖の底に落とした悪魔はあまりにもあっけなく私の前から姿を消してしまったのだ。

余りに悪辣な問いを出しておきながら、かの大悪魔は答えを聞くことなく去っていったのだ。


実に心底安堵した。


もはや邪魔なノイズと化していた腹痛がまた襲ってきて私はそちらに執心することになり、彼のことは頭の外に追いやってしまったのだ。


私が外道を選ぶよりも早く立ち去ってくれた彼のことを思い出したのは帰りの車の中でのことであった。


道路わきの光に時々照らされながら今日起きたことを考えていた。

そうやって今日おこった出来事を無気力に思い返していると、私はあまりにも重大なことに気づいてしまった。


彼は、徹頭徹尾私に迷惑をかけるまいと動いてたことを。

漏れそうになっているにもかかわらずひどい催促などはしなかったうえに、”こと”が起こっても彼は私を責めることは一切なかったのだ。


私の入っているトイレにトイレットペーパーを処分しに来た時であっても彼は催促をしなかったのだ。


それは私の善意を期待してのことであり、それを私は彼を大妖だの悪魔だのと心の中で恐れ、恨んでいたのだ。


最後の去り際、一度だけ立ち止まったのは扉越しの私を見て失望した目を向けたに違いないのだ。


人の善意を信じた人間を悪魔と言って裏切り、自己保身に走ってしまった大悪党は私であったのだ。


余りの後悔と自己嫌悪に私は衝動的にハンドルを切って死にたいと猛烈に感じてしまった。

しかし、それを実行できるほど度胸は私にはないのだ、そのどうしようもない己に対する不甲斐なさが大いに私をいらだたせて収まることはなかった。


私はたかが扉一枚で全ての善意を裏切ったどうしようも人間だという事実はそれからの私をむしばみ続けた。


~~~~~~~~~~


貴方が私と同じ選択をしたとしたのなら私は救われるのだ。

そして私のことを最低の外道であると罵るとしても私はまた救われるのだ。


行動の一つ一つから何かを読み取らなければ何か大事なことを取り逃してしまうことだってあるのだ。

そしてそれは取り返しのつかないことかもしれない。

大切な人の大切な気持ちにさえ気づかないかもしれない。

何事にもあらゆる視点というのは大切なのだ、善意を疑うといった視点もまた必要であることは疑いようがない。

私があなたに願うのは、善意を見分けられるようになること。

それがあれば、あなたは善意にこたえられるいい人間になれるだろうから。

























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