第16話 絶対に、諦めませんから

 幸運なことに、エムレが予約してくれた隊商宿ハーンには、ダラヤ行きの隊商キャラヴァンが滞在していた。

 この隊商キャラヴァンは、ダラヤの宮廷とのつながりも深い商人が取り仕切っていた。

 なんと、マルヤムとも顔見知りだったのだ。


 彼らがハディージャとマルヤムをダラヤに連れていってくれることになった。


 まるですべてが予定調和かのようだった。


 もしかしたら、エムレの想定どおりだったのかもしれない。

 彼はこれくらいのことをすべて見越した上で予定を組んでいたのかもしれなかった。


 どうしてあんなに親切だったのだろう。それともハディージャは関係なくて、兄のベルカントに対抗してのことだったのだろうか。


 らくだに乗って、砂の海をゆったりと行く。

 馬は隊商キャラヴァンの男たちに託した。

 ハディージャとマルヤムは、らくだに備えつけられた天蓋付きの鞍に乗せられて、ゆっくり移動していた。


「ベルカントはもともとダラヤにいた軍人奴隷だったのよ」


 マルヤムがとつとつと語り出した。


「草原の民は末っ子が家督を相続するのですって。だから長男のベルカントは出稼ぎのつもりで軍人奴隷になったそうなのね。でも、ダラヤはもう長い間戦争をしていないでしょう。それで、父上は、軍人奴隷に運河をつくる仕事を強制したのですって」


 軍人奴隷は戦場での華々しい戦闘を期待されて売買される奴隷だ。

 高額の報酬を与えられ、取り立てられれば武官として出世することもある。

 しかし、究極的なところでは、奴隷であることに変わりはない。主人の都合に振り回される。


 運河の造成は過酷な労働だ。灼熱の空の下、砂にまみれて一日じゅう働かされる。水はうまく流れないかもしれないし、流すことができても制御できずに溺死するかもしれない。


 ダラヤは確かに数年前に大運河を完成させていた。

 ハディージャも、多くの奴隷がその掘削のために犠牲になったという噂を耳にしていた。

 そこにベルカントもいたということか。


「毎日現場監督に鞭で打たれて。眉の傷もその時監督に棒で殴られてできたものだと聞いたわ。ベルカントの体にある傷は全部その工事の時にできたものだって」

「そうだったのですか……」

「わたくしが慰問に訪れた時ちょっと会話をしたことがあって、それで、お互いの存在を認識したの。ベルカントをこっそりダラヤから逃がしたのもわたくしなのよ」


 ハディージャは知らないことだった。マルヤムにも隠し事ができたのか。ずっと一緒にいるつもりだったが、昼休憩と夜寝る前は宮殿から離れているので、その隙にやられたのだろう。


 とにかく、そのマルヤムが教主と結婚するという話を聞きつけたのが、今回の事件を起こすきっかけだったということらしい。


「ごめんなさい、ハディージャ。わたくし、あなたに黙って、こんなこと。あなたにこんな迷惑をかけるつもりはなかったのに……あなたは不出来なわたくしを見捨ててくれるものだとばかり思っていたのに、まさかこんなことになるなんて……」


 ずいぶんと侮られたものだ。

 マルヤムが思うより、ハディージャはずっとマルヤムが好きなのだ。

 それを伝えきれなかったハディージャにも罪はあるような気がする。


「わたくし、なんて馬鹿だったのでしょう」


 天蓋から垂れる布に隠れていて、マルヤムの顔は見えない。


「わたくしの生活が異民族を奴隷にすることで成り立っているだなんて想像したこともなかったの。ベルカントにはたくさんのことを教わったわ。最初はびっくりしたけれど、今ではとても感謝しているのよ。そして、彼こそわたくしの世界を変えてくれる人なのだと思い込んでしまった」


 それから、ぽつりぽつりと付け足す。


「もっと彼といられたら、と思っていたわ。でも――」


 ハディージャの胸が、ずくりと痛んだ。


「このまま彼と逃げていっても、草原の民と砂漠の民の立場が入れ替わるだけで、根本的な部分で世界は変わらないのではないか、と思って……。ましてや、あなたにこんな苦労をさせてまで……。わたくし、本当に、本当に本当に、あなたにこれ以上迷惑をかけたくないと思っていたのに」

「滅相もございません」


 らくだはゆっくり歩き続ける。


「わたくしには、国主アミールの娘として、教主様の妻として、できることがあるのではないかしら。ねえ、ハディージャ。あなたはどう思う?」


 ハディージャはすぐには頷けなかった。


 三日前のハディージャだったら、そのとおり、と即答しただろう。


 でも、今は、ハディージャ自身が知ってしまった。


「本当に教主様とご結婚なさるのですか」


 そう問いかけると、マルヤムは、たっぷり間を置いてから、こう答えた。


「それが、この世界のためになるのなら」


 ハディージャは下唇を噛み締めた。声を漏らすまいと必死で我慢した。


 顔も知らない男と結婚するということがどんなことなのか、ハディージャは、理解した。


 自分だったら、エムレ以外の男と結婚することなど考えられないだろう。


 幸か不幸か、ハディージャは一介の魔術師だ。

 高位の官職を与えられているが、国主アミールの一族ではないので、高貴な身分というわけではない。

 一人娘なので父から相続したものもたくさんあるにはあるけれど、絶対にさらに子世代へと伝えなければならないものではなかった。

 したがって、ハディージャが独身を貫くのは、そんなに大きな問題にはならない。

 むしろ、つい最近まで、ハディージャは一生一人で生きていくつもりだったのだ。


 けれど、マルヤムは違う。

 マルヤムは、結婚しなければならない身の上だ。


 ベルカントのことを想いながら、今は見も知らぬ男のそばで暮らすのか。

 そんなの、もう一生、二度と笑えない。


「いやだわ、ハディージャ」


 マルヤムの声が震えている。


「どうしてあなたが泣くの。それも、わたくしの従者で一番強くてたくましかったあなたが」

「ご、ごめんなさい」


 涙があふれて止まらない。


「ごめんなさい、マルヤム様。ごめんなさい」

「大丈夫。大丈夫よ、ハディージャ」


 マルヤムの声も、鼻声になっていく。


「わたし……、わたし、ひとを愛するということがどんなことなのか、わかりました。恋を、してしまいました」

「そうなのね。教えてくれて、ありがとう」

「わたしがマルヤム様を連れ戻そうと思わなかったら、マルヤム様はあの男と一緒に草原へ行くなりジャームで暮らすなりしましたか」

「どうかしら。そうしたかもしれないけれど、たぶんずっともやもやを抱えたままだったのだろうし、そうでなくても時々無性にあなたが恋しくなってとてもつらかったわ」

「ありがとうございます。ありがとうございます……」


 こうして会話をすることもまた、エムレに助言してもらったからこそできたのだろう。


 すべてエムレのおかげだ。


 つらいのも。かなしいのも。さみしいのも。


 すべて、エムレのおかげなのだ。


「会いたい」


 ハディージャが呟いたら、マルヤムは明るい声で「いいではないの」と言った。


「彼、ダラヤの学院マドラサで学んでいたのでしょう?」


 彼女に言われて、気がついた。


「それも、三年も。それなら資格を取りに戻ってくるのではないかしら? 兄のベルカントだって本音を言えば勉強を続けさせたいのよ。学識者になれば奴隷の身分に落ちずとも街で仕事ができるのですから」

「……そうですね」


 ハディージャの涙が引っ込んだ。


「まだ諦めるのは早いですわね。エムレさんが一生ダラヤに戻ってこないとは決まっていませんものね」

「そうよ、その意気よ」


 それに、ベルカントも世界征服から手を引きそうにない。

 今回は草原に引いていったが、いつかダラヤにも攻め込んでくるかもしれない。

 むしろ、奴隷仲間を死に至らせ当人の顔面にも傷をつけたダラヤを特別に恨んでいるかもしれない。ダラヤに復讐に来るかもしれないのだ。


 だいたい、彼はマルヤムを諦められるだろうか。

 こんなに素晴らしく優しくて美しい姫君を一度奪っておいて、もう一度と思わないはずがない。

 教主と徹底的に戦って、教主を打ち倒してから改めて花嫁にと望むに違いない。


 その時に、エムレがベルカントのそばにいない、ということが、ありえるだろうか。


「わたし、もっと魔術の腕を磨きます」


 ハディージャは、決心した。


「ベルカントからエムレさんを奪い返してみせます。その時まで、絶対に、諦めませんから」



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