第15話 あなたこそわたくしの良心
ベルカントも礼拝堂の真ん中に歩み出てくる。
エムレとベルカントが二人で向かい合う。
言われてみれば確かに目元が似ている。ベルカントのほうがひと回り体格がよく粗野な印象なのでわかりづらかったが、こうして見比べてみると切れ長の目が同じ形をしている。
「兄弟だったのですか」
ハディージャは確認のためにそう投げかけた。エムレがハディージャのほうを見ることなく「ああ」と肯定した。
「エゲメンの息子のハルクの息子のナージーの息子エムレ。それが俺の正式な名前だ」
こちらを振り向きもしない。
「言っただろう? 知られただけで石を投げられるような部族の出身だと。俺たちは自他ともに認める草原で一番の荒くれ部族だ」
ベルカントが大笑した。
「自他ともに認める草原で一番の荒くれ部族か。おもしろいことを言うな。俺も今度からそう名乗ろう」
しかし、彼はこうとも続けた。
「その荒くれ部族の中から
エムレはなおも兄をにらみ続けている。
「いい機会だ。帰ってこい、エムレ。もうお勉強はいいだろう。お前は一族で一番賢かった。この三年の留学生活でいろんなことを吸収できただろう。いいことだ。それを、俺の下で使え」
そんな兄の言葉に、エムレは即答した。
「断る」
「早いな」
「武力で世界を統一しようというやつがつくる世界なんてろくなものじゃない。静かに生きる一般人が静かに祈って暮らせる世界が俺の理想の世界だ」
「甘いことを言うようになったじゃねえか」
ベルカントが、「見ろ」と言って礼拝堂の中にいる砂漠の民を見回した。
「弱みを見せたらナメられる」
低い声を出す。
「虐げられていたのは俺たちのほうだぞ。忘れたわけじゃないよな。俺たちは辺境の荒くれ部族だ。そう言って見下しているのは誰だ? こいつらじゃねえか!」
ベルカントの大きな声が響いたので、みんなが再度緊張を高める。
「俺たちが先祖代々奴隷として使われてきた歴史は消えない」
まったく別の
「今度は俺が支配する。そして、俺が、俺たちが見下されない世界をつくる」
ベルカントの声は力強く、勇ましくすらあり、反論を許さない空気がある。
「来い、エムレ。俺がお前に新しい世界を見せてやる」
エムレは何も口に出さなかった。賛成とも反対とも言わなかった。
けれど、ハディージャには彼が悩んでいるのが伝わってきた。
この旅の中で何度も遭遇したではないか。
草原の民が見下されているところに。
ハディージャ自身、エムレと出会うまでは、どこかで草原の民は自分たち砂漠の民とは違う人種だという無意識の差別をしていたではないか。
でも、間違っている。
「その歴史は終わりませんよ」
ハディージャは勇気を振り絞った。
一歩、一歩と、ベルカントに近づいた。
「あなたの理屈で世界を統一しても、誰もあなたたちを認めないでしょう」
それは、ベルカントにとっては屈辱的なことなのかもしれないが――
「エムレさんが、教えてくださいました」
エムレの黒い瞳が、わずかに動いた。
「対話をすること。それこそが、わかり合うための道なのだと」
ベルカントは黙ってハディージャを見ていた。
「あなたが求めるのは流血や支配被支配関係の逆転ではなく対話や謝罪や賠償であるべきだとわたしは考えます。砂漠の民に草原の民を虐げてきた歴史があるのは事実。ですが、だからといって草原の民が砂漠の民を虐げることで帳尻を合わせようとしたら、争いは無限に続きますよ」
「あんたが砂の街の魔女ハディージャか」
ハディージャが返事をする前に、ベルカントはにこりと笑った。
「自分では論理的なことを言ってるつもりかもしれねえが、みんながおつむで考えたそういうきれいごとに従えるなら誰も苦労はしねえのさ」
こうして切り返されることで、自分もまた彼に話が通じない蛮族の王という邪悪な理想を投影していたことに気づく。
ハディージャにエムレが「やめろ」と言った。
「それはわかる。それができるなら俺も
ベルカントは、自分の胸に手を当てた。
「俺がここでもたもたしてる間にも、草原の民の女子供が砂漠で売り買いされてるってわけ。それを止め、救う、俺。正義の
「ベルカント」
優しい声が聞こえてきた。
「もうやめてちょうだい。ハディージャをいじめないで」
マルヤムのほうを見ると、彼女は落ち着いた表情をしていた。
「わたくしも、あなたと夢を見ていたかったわ」
ベルカントが笑みを消した。
「でも、帰ります。ダラヤに」
ハディージャの胸を、爽やかな風が吹き抜けていく。
「わたくしは、器の小さな女だから。世界を思うあなたの大きな理想より、ここまで迎えに来てくれたハディージャ一人の意思を尊重します」
つい「マルヤム様」と漏らしたハディージャに向かって、マルヤムが微笑みかけた。
「教主様の支配なんてぶっ潰してやる、と。わたくしも、思ったのだけれど。やり方はいろいろあるわね」
優しい優しい、甘い声だった。
「これからもいろいろ教えてね、ハディージャ。あなたこそわたくしの良心、わたくしの理想の女性で、わたくしの一番の従者です」
「マルヤム様……っ」
マルヤムに駆け寄った。
腕を伸ばした。
彼女も腕を伸ばしてくれた。
強く、強く、抱き締め合う。
マルヤムからはいつもの香のにおいがしなかった。ダラヤの街を離れた三日間で消えてしまったらしい。
それでもよかった。
帰ってきてくれるのなら、何でもやり直せる。
「――終わりだな」
ベルカントが口を開いたので、ハディージャは我に返ってマルヤムを離した。マルヤムを背後に追いやり、かばうように手を広げる。
「ここで、お別れだ」
彼はほんのり苦笑していた。
「お前と俺は道を
次の時、予想外の言葉が出てきた。
「マルヤムは返す。代わりにエムレを返してもらう」
エムレの顔を見た。
彼は冷静な顔をしていた。まるでこう言われるのを予期していたかのような落ち着いた顔だった。
「この場は一回引く。ダラヤの
ベルカントも、弟の顔を見た。
「なあ、エムレ」
エムレが、目を伏せた。
「お前は賢いから聞き分けてくれるよな?」
ベルカントの声が、どろり、とエムレにまとわりつくのが見えてきそうだった。
「お前が戻ってこなかったら、ここでマルヤムとハディージャを殺す」
「わかった」
エムレは迷わなかった。
「草原に帰る。俺の知識と経験を一族に還元すると誓う」
「よろしい」
ハディージャは血の気が引いていくのを感じた。
「エムレさん……っ」
名を呼ぶと、彼は優しい目でハディージャを見た。
「俺の代わりに馬を返しておいてくれ」
「そんなこと……っ」
声が震える。
みんなが見ているのに泣きそうになってしまう。
「一緒に帰ると言ったではありませんか。目的を果たせなくても二人で帰ると約束したではありませんか」
「目的は果たしただろう?」
涙が一粒こぼれた。
「マルヤム姫を取り戻した。お前の旅はここで終わりだ」
そして、彼は笑った。
「この三日間、楽しかった。思い出をありがとう、ハディージャ」
ベルカントが草原の民の男たちに向かって合図をした。
「行くぞ。この場は引く」
「承知」
男たちが、歩き出す。
「来い、エムレ」
兄に呼ばれて、エムレも歩き出した。
静かに静かに、彼らは礼拝堂から出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます