閑話 二人の距離

「そういやさ、吐息ブレスって口からも出せるもんなのか?」


 老朽化した椅子に背中を預け、両腕を頭の後ろへ組んだ気楽な姿勢で、麒翔きしょうが言った。大蛇の唐揚げ弁当をガツガツ食べていた桜華が、リスのように膨らんだ頬をもぐんもぐんと動かしながら応じる。


「そうだよー」

「ほう。だったら桜華、ちょっとやってみてくれ」

「親しき仲にも礼儀ありだよ。翔くんは人前でゲロを吐けるのかな?」

「うっ、吐息ブレスを口から出すのってゲロの感覚なんだな……」


 龍人文化に馴染みがない上、人間の都市・アルガントで生まれ育った麒翔きしょうにはその感覚がない。生まれついた才能のせいで吐息ブレスを放つことはできないが、仮に使えたとしてもやはりゲロという感覚にはならないような気がする。

 と、長机に向かって分厚い本と睨めっこしていた公主様が、羊皮紙に走らせていたペンの動きを止めて顔をあげた。


「近年では下品とされ、誰も使う者がいなくなったようだ」

「てことは、昔は使われていたってことか」

吐息ブレスというぐらいだからな。太古の昔は祖先である龍と同じく、口から吐くのが普通だったようだ」


 博識な公主様に麒翔きしょうは感心して頷いた。

 龍人は勉学よりも力を重視する種族である。それは学園のカリキュラムにおいて、座学が卒業に必要な総合成績に含まれていないことからも明らかである。だが、この才色兼備な公主様は、座学の方もばっちり優等生なのだ。彼女に聞けばなんでも答えてくれるような気さえする。


 そんな誰よりも優秀で頼もしい公主様は、なぜだか少しだけ不満そうに口を尖らせた。


「私には言ってくれないのか?」

「なにをだよ」

「あなたの頼みなら、口からの吐息ブレスを見せることぐらいわけないぞ」


 感情の乏しい顔に少しだけ赤味が差してある。

 もしかしたら、恥を忍んで言ってくれているのかもしれない。しかし、まさか本当に「ゲロを見せてくれ」などと頼むわけにもいかない。桜華になら冗談で言えなくもないが、高貴なる公主様にそのような無礼を働けるはずもない。


 婚約したからといって、彼女の気品を落とすような真似はしたくない。が、当の公主様本人はこの辺り、まったく頓着していないようなのだ。麒翔きしょうが頼めば、本気でなんでもしてくれそうな危うさがある。


 先日のことだ。手料理を食べたいとリクエストしたところ、お弁当を作ってきてくれた。それは見た目がワイルドなお弁当だった。男料理に近い目分量による大雑把な味付けで、茶色と白のコントラストに盛りつけはぐちゃぐちゃだった。誰に影響を受けたのかは一目瞭然だったが、味は良くて、普通においしかった。


 しかし、料理というものは見た目も評価に含まれるものなのだ。桜華にだったら気軽に文句を言えるのだが、公主様となるとそうはいかない。


 そしてこのことからもわかる通り、公主様はとても素直な性格で、信頼を置く人物からは多大な影響を受ける。味付けが大雑把で茶色に彩られていたのは、言わずもがな桜華の影響である。つまり、婚約までしたのだから、麒翔きしょうが頼めばなんだってしてくれそうな危うい雰囲気があるのだ。


 例えば、例えばだ。今この場でキスをしたいと言ったら、応じてくれるのではないかとさえ思う。膝枕をしてほしいと願えば、彼女の細やかな曲線に頭を乗せることができるかもしれない。抱き枕にしたいと言えば、きっと一緒に寝て――


 と、妄想に拍車がかかったところで麒翔きしょうは激しくかぶりを振った。そして、


「うおっ!?」


 公主様の顔が鼻先数センチのところにあった。

 チラリと視界に入っただけで胸が高鳴るほどの究極の美だ。神聖にして犯すべからず。聖域から距離を取ろうと反射的に仰け反ると、背もたれごとバランスを崩してバターンと後ろへ倒れた。完全に虚を突かれる形だったため、受け身は間に合わず、後頭部を痛烈に強打。麒翔きしょうの視界に星が飛ぶ。


「痛ってぇ……」

「大丈夫か?」


 公主様に助け起こされる形で麒翔きしょうは身を起こした。

 もの言いたげに公主様が上目にこちらを見上げている。麒翔きしょうがその無防備な頭をポンポンと撫でてあげると、それで満足したのか公主様はコクリと頷いた。そして――




 ◇◇◇◇◇


「あなたの頼みなら、口からの吐息ブレスを見せることぐらいわけないぞ」

「いや、必要ない」


 黒陽は「むう」と不満そうに唸った。


 初恋を知った黒陽は、完全に恋する乙女モードに入ってしまっている。

 麒翔きしょうの頼みならなんでも言うことを聞いてあげたいと思っているし、彼が喜ぶことなら率先してしてあげたいとも思っている。要するにべた惚れなわけだが、麒翔きしょうとの距離はなかなか縮まっていない。


 先日のことだ。手料理を食べたいと麒翔きしょうがリクエストしてくれたので、お弁当を作ってみることにした。黒陽は料理の経験がないので、桜華に指導してもらって一生懸命作った。それは白と茶色のワイルドな見た目のお弁当だったが、味は満足のいくものに仕上がったと思う。桜華のお墨付きももらった。

 だが、彼は桜華の作ったお弁当だと勘違いしてしまったようで、


「なぁ、桜華。料理っていうものは彩りも大事だと思うんだ」


 などと愚痴をこぼし、そしてそのお弁当が黒陽が作ったものであるとわかると、彼は真っ青になって、空を飛ぶんじゃないかってぐらい両腕をバタつかせ、


「いやいやいや、これはこれでうまそうだよな。やっぱり飯は腹に溜まってナンボだからな。うん、うまい! いやぁ本当に初めて作ったとは思えない出来栄えだなぁ」


 などと華麗に手の平を返した。


 文句を言われたことが不満なのではない。

 ぞんざいに扱われたとしても構わない。


 ただ、桜華と同じように扱ってほしいと黒陽は思う。自然体で麒翔きしょうと一緒にいたいのだ。その微妙な乙女心を彼はいつになったらわかってくれるのだろうか。


 口からの吐息ブレスを見せることだってそうだ。龍人女子は主人に尽くし、認められることを最上の喜びとする。だから、


「一言、やれと命じてくれればいいのだ。あなたは遠慮ばかりする」

「いや、流石にゲロを見せてくれとは言えねえよ」


 この調子である。

 無論、対価は支払ってもらわなければならないが、一言「よくやった」と褒めてくれればそれでいいのだ。その際、頭を撫でてもらえればなお良い。あるいは愛を一緒に囁いてもらえれば言うことはなしだ。ただし、何もしていないのに頭を撫でられるのは駄目だ。あくまで褒美として頭を撫でられるから嬉しいのである。


 価値観が違う、と言えばそれまでなのだろう。

 黒陽もそのことは薄々察している。

 けれど、心の底から湧き上がってくる好きというこの気持ちは、理屈では制御できそうもない。尽くし、そして褒められたいという龍人の本能もまた同様だ。


 そして何よりも黒陽が望んでいるのは、愛する人からの愛情表現である。甘い言葉で愛を囁いてもらうことこそが、女としての最上の喜びに違いないからだ。しかしこれは、麒翔きしょうの一番近くにいる桜華でさえしてもらえていない。まさに難題だ。


 とはいえ、麒翔きしょうの方から歩み寄りがなかったわけではない。

 先日も「デートをしないか」と誘われた。けれど、黒陽は幼い頃から群れの調和を大切にするように育てられてきた。だから彼女にとって、麒翔きしょうと桜華と三人でボロ小屋にいるこの時間は、かけがえのない大切な時間なのだ。そこにあえて亀裂を入れる必要性を感じないし、麒翔きしょうを独占したいとも思わない。そして何より、桜華を一人ぼっちにして悲しませたくなかった。


 そんなわけで二人はすれ違ってしまっていて、それゆえ二人の仲は思うように進展していない。


 そんな現状に黒陽は不満だった。

 二人でデートをする必要はないが、愛を囁いてはもらいたい。

 だけど彼は、人前でイチャイチャなんてできないという。


 そう。彼は照れ屋なのだ。それも筋金入りの。

 例え人前でなくとも、やっぱり愛を叫んではくれないだろう。


 だから黒陽は一計を案じた。

 彼に愛を叫ばせるための、とっておきの策だ。

 本当は主人を騙すような真似をしてはならない。

 だけどこれは、必要な処置だから。そう自分に言い聞かせる。


 と、考え事をしていたら、いつの間にか麒翔との距離が縮まっていた。鼻先数センチの距離に彼の顔がある。その急接近に驚いた彼は椅子から転げ落ちてしまったので、黒陽は手を差し伸べて助け起こした。


 すると、無言のままぶっきらぼうに頭をポンポンと撫でられた。60点。悪くはないが、言葉が足りない。だから黒陽はコクリと頷いて言った。


「乙女心は複雑なんだ。だから私は少しだけワガママになろうと思う」







 ……第三章へ続く。

 連載再開は四月下旬を予定しております。

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