第33話 帰還

「はぁはぁ……もう駄目だ。一歩も動けねえ」


 石畳の街道に大の字に寝転がった麒翔きしょうが荒く息を吐きだしながら言った。

 荷台から手をひさしのようにして遠方を眺める桜華が同意する。ぴょんと荷台から飛び降り、仰向きの麒翔きしょうの真横へ降り立つ。


「わたしも、もう限界……立ってられないかも」


 彼女の小さな体が膝から崩れ落ちる。その小柄な体のあちこちには無数の噛み傷があり、赤と白の龍衣はその鮮血で赤くにじんでいる。それは麒翔きしょうも同じなのではあるが、体の痛みよりも、長距離をノンストップでしかも馬車を引きながら走り続けたことの方が余程辛くて苦しい。息が、酸素をいくら吸い込んでも肺が満足してくれない。真横で座り込んだ桜華を目の端で捉え、何とか息を整え絞り出す。


「だ、大丈夫か。結構、怪我してんな。俺も……、人のこと言えねえけど……」


 桜華をどこかのお姫様みたいに扱って、無傷で守り切ろうとしていた頃が、今となっては懐かしくすら感じる。傷だらけとなったお姫様は、いつもの溌剌はつらつとしたニッとした笑みを浮かべて、


「陽ちゃんに比べたらこのぐらい全然平気。わたしだって守られてばかりじゃないんだからね」


 ケラケラと楽しそうに笑うものだから、麒翔きしょうもつられて「違いない」と笑った。

 息が整うと、麒翔きしょうは上半身を起こして、再び前方へ視線を向けた。街道が平原を隔てるように伸びている。街道の右手、南東方向の地平線上に薄っすらとトゲトゲの黒いシルエットが見える。それは野営本陣に置かれた幕舎の陰影である。


「人間、やりゃなんとかなるもんだな。人間なの半分だけだけど」

「必要だったのはもう半分の龍人の力の方でしょ。人間側の翔くんは役に立ってないと思いまーす」


 麒翔きしょうが軽口を叩くと、桜華も軽口で返してきた。

 街道まで出れば安全である。魔獣は滅多に平原までは出てこない。普段通りの軽口が叩けるのはそのため。


「しっかし、馬車がなけりゃ詰んでたかもな。黒陽抱えての移動じゃ、魔獣の襲撃に耐えきれなかったかもしれねえ」


 馬車という安全地帯があったからこそ、公主様を守りながらここまで来ることができた。抱きかかえていたら、おそらく守り切れていなかったのではないかと麒翔きしょうは思う。それに戦闘のためにいちいち立ち止まるのも問題だ。もしも馬車がなかったら、まだ森の中で死闘を繰り広げていたことだろう。


「でも、馬車を見つけていなければ。違った結果になったかも……」

「ああ、そしたらアリスには出会ってないからな」

「…………」

「…………」


 沈黙。

 いたたまれない気持ちになり、麒翔きしょうはすっと立ち上がる。


「よし、あと少しだ。体に鞭打ってもう一走ひとはしりといくか!」

「早く陽ちゃんを元気にしなくちゃね」


 幕舎に戻れば緊急治療用の高級回復薬ハイポーションを使うことができる。龍人の高い自然治癒力と合わせれば三日で完治するだろう。


「急ぐ必要はない」


 帆の隙間から囁くような声がした。直立姿勢の公主様が、包帯で半分覆われた顔をぼんやりと遠方の野営本陣へ向けている。意識が戻ったのだ。ワサビを食べたわけでもないのに鼻にツンと刺激がくる。とっさに名を叫んでいた。


「黒陽!」


 その大声は、喜と哀の感情を混ぜ合わせ、そこに少しだけ涙を混ぜたような声色だった。余りの大声にビクッと肩を震わせた桜華が少し遅れて振り返る。


「陽ちゃん!」


 いつもと変わらぬ乏しい表情の上に、公主様は柔らかい笑みを浮かべた。

 麒翔きしょうと桜華は我先にと荷台へ飛び乗り、公主様の元へ駆けつける。そして、桜華がなんの躊躇ためらいも見せずに抱き着こうとしたものだから、


「ちょっと待て」

「ぐえっ」


 反射的にその襟首をがしっと掴み、引き剝がすように自分の方へと引き寄せた。


「ちょっと翔くん。何するの苦しい」

「バカか桜華おまえは! 黒陽は瀕死の重傷なんだぞ。殺す気か!?」


 うー、と唸る桜華のこめかみをぐりぐりとやりながら、麒翔きしょうは自分の言動に違和感を覚えた。考えること数秒――その間ずっと桜華はぐりぐりされている――、すぐにその正体に思い至る。


「なんで瀕死の重傷なのに歩き回ってんだよ!?」


 余りにも平然としていたため、麒翔きしょうまでもが――桜華ほどではないにしろ――無意識の内に「もう大丈夫」と思っていたらしい。大丈夫なわけがないというのに。が、深刻に捉えているのは彼だけのようで、当の公主様本人までもが、


「半日ほど休めたからな。歩けるほどには回復している」

「んなわけあるか!」


 麒翔きしょうはぐりぐりの刑から桜華を解放すると、空いた両手で公主様の華奢な体を持ち上げた。


「な、なにをする」

「抱いてほしかったんだろ」

「そんなこと言ってない!」


 頬を赤らめ必死に否定する公主様。どうやら昨晩の記憶はないようである。

 羽のように軽いその体をベッドに横たえ、麒翔きしょうは少し意地悪く笑った。


「いいか。起き上がる限り何度でも運んでやるからな。覚悟しとけ」

「むぅ……両腕が動かぬゆえ、起き上がるのは結構骨が折れるんだぞ」

「だったらずっと寝てろ。そして早く元気になってくれ」


 公主様の額に手を置いた桜華が首を傾げる。


「でも、もう元気そうだよ? 熱も引いたみたいだし」

「元気になるのはこれからだろ。まだ寝かせとかないと駄目だ」

「でもでも! 浅い傷はもう塞がってるよ」


 胸元の包帯をちらりとめくり、桜華が言った。そこでようやく公主様が包帯ぐるぐる巻きの半裸であることへと意識が向き、今更ながらに赤面する。ハヤブサよりも早く後ろを向く。


「そんな格好で外へ出て。羞恥心しゅうちしんってもんはないのか!」


 公主様はきょとんとしている。首を巡らせ、自身の状態を確かめると、そこで初めて気付いたかのように、


「龍衣を着ていたはずだが。脱がせたのか」

「治療のために仕方がなかったんだ。それに脱がしたのは俺じゃないぞ」


 少し言い訳がましい響きになってしまったが事実である。

 桜華はフォローするでもなく、口元に手を当ててクスクスと笑っている。


「あらら。身のこなしははやぶさ並みでも、肝心なところは象さん並みに反応が遅いのはどうしてなのかな? 半裸の陽ちゃん抱きしめて『抱いてほしかったんだろ』キリッ! とかやってた癖に。本当は気付いてたんじゃないの。翔くんのエッチ!」


 背中をバシンッと叩かれる。腰が入っている。かなり本気の一撃だ。焼けるように痛む背中を仰け反らせ、麒翔きしょうは赤面する顔を背けて言い返す。


「キリッ! なんてやってねーよ!」

「やってたよ。ねえ、陽ちゃん」

「ああ、男らしかった」


 息の合った波状攻撃はじょうこうげき麒翔きしょうは頭を抱えて絶叫した。


黒陽桜華おまえら、半日ですっかり元通りだなぁ!? 俺がどれだけ心配したと思ってんだ。日常に戻るにしても、もっとこう何かあるだろ!?」


 抱き合って涙を流し、お互いの無事を喜び合う。流石にそこまでは望めなくとも、もう少し真面目シリアスを継続してもいいんじゃないかと、麒翔きしょうは思う。途中まではいい感じだったのに、どうしてこうなった! と頭を抱えて自問していると、


「心配してくれていたのか?」


 後ろから問われ、その愚問に反発するように振り向いてしまう。


「当たり前だろ!!!」

「そうか」


 表情の乏しい公主様の顔に、いつになく柔らかい笑みが浮かんだ。それは女神様を思わせるような心の清らかな優しい微笑み。不純物の一切含まれない純然たる笑みに、麒翔きしょうは魂を引っ張られるように見入ってしまう。彼女も黒の瞳を潤ませて、じっとこちらを見つめている。二人の気持ちは通じ合っているかのように感じる。そんな夢のような時間は、


「はいはーい。二人の世界に入るのはそこまででーす。続きは夜に、二人っきりでお願いしまーす」


 桜華にぶち壊された。


「そうかそうか。シリアスな雰囲気がぶち壊れるのは桜華おまえの仕業だったか」


 俺としたことがうっかりしてたぜ。そう続ける彼の十本の指先は、それぞれが別々の意思を持っているかのようにワキワキとイヤらしい動きをしている。

 桜華の顔が青ざめる。彼女は後ずさりをしながら、


「ちょっと翔くん? それは何のつもりかな。生理的にすごく抵抗がある動きしてるんだけど」


「何って見たまんまだよ。くすぐり地獄の刑」


 悪い笑みを麒翔きしょうが浮かべると、身の危険を感じた桜華がぶるると震え、大急ぎでベッドの反対側へ回り込み、公主様へ助けを求めた。


「助けて、陽ちゃん。翔くんに犯される!」


 その拡大解釈に麒翔きしょうは鼻白み、その侵攻に迷いが生じる。彼がツッコむより先に公主様が「大丈夫だ」と言ってくれたので、てっきりフォローしてくれるものかと思いきや、


麒翔きしょうはきっと優しくしてくれる」


 などと真逆のフォローが入ったので、麒翔きしょうは今度こそ全力でツッコんだ。


「いやそこは否定してくれよ!?」


 こうして彼らは日常に帰還したのだった。

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