第29話 「エレシア・イクノーシスには気を付けろ」

 膝を付いて崩れ落ちた黒陽に、もはや再び立ち上がれるだけの体力は残されていない。

 地面にいつくばるその無様なさまを嘲笑ちょうしょうするように、最後まで黒陽が警戒を怠ることのなかったその人物――アリスが愉快そうに笑い声をあげる。


「だから言ったではありませんか」


 一歩一歩を踏みしめるように歩を進め、アリスが哄笑こうしょうを覗かせる。


「エレシア・イクノーシスには気を付けろ」


 それは殺害予告に等しかった。

 おくすることなく黒陽は顔を上げ、迫り来る死神をにらみつける。


「犯人しか知りえない情報を知っていたから犯人なのだったか。ならば、おまえがエレシア・イクノーシスなのだとすれば、私たちに聞かせたあの話自体が犯人しか知りえない告白だった、と」


 眼前まで迫ったアリスが殺人鬼の顔で笑む。


「ええ、その通りですわ。そして都市伝説には続きがありますの。『エレシア・イクノーシスには気を付けろ』この言葉を聞いた者は、次の犠牲者になるとね!」


 多くの殺人を犯しておきながら全てを完璧に隠蔽いんぺいして逃げおおせた殺人鬼。そんな狡猾こうかつかつ慎重な犯人が自ら名乗り出るとしたら、それは生かして帰すつもりはないという絶対の意思表示である。


「くはっ」


 革ブーツのつま先が容赦なく黒陽の腹部へ突き刺さる。

 華奢きゃしゃな体が浮き、呼吸が一瞬止まる。

 アリスは両腕を組んで呆れたように吐息といきした。


「それにしても。まさかロクな装備もなしに、たった二人で暴風タートルを倒してしまうなんて驚きですわ。あれは冒険者協会の認定する終末等級の魔物だというのに。もっとも、今では満身創痍まんしんそういの身。ボロ雑巾ぞうきんのようですけれど」


「三人で、だ。間違えるな愚か者――くはっ」


 再度、革のブーツが腹部へ突き立てられた。続けざまに、黒陽の側頭部が何か棒のようなもので痛烈に殴打される。意識が飛びかけ、仰向けに地面へ転がった。


「その目、非常にムカつきますわ。少々、しつけが必要のようですね」


 倒れた脇腹に追い打ちの蹴りが入り、黒陽は唇を噛み締めその激痛に耐えた。その美しい顔を土足で踏みつけ、アリスが狂騒きょうそうを浮かべる。


「まったく。厄介な人ですよあなたは。最初からわたくしのことを警戒しているんですもの。しかもただ警戒するだけでなく、お友達に危害が加えられないように見張ってもいましたわね」


 赤黒い血のにじむ龍衣の右袖へと視線を落とし、アリスは頬に手を当てて「あら」と呟くと、頭を踏みしめていた足を右肩の付け根へと移動させた。そして――、一切いっさい躊躇ちゅうちょなく無慈悲に踏みつける。


「あああああああああっ」


 苦痛にあえぐ黒陽を愉悦ゆえつに見下ろし「右腕こちらはもう使い物にならないようですわね」と言って、再び黒陽の頭部を蹴り飛ばす。右に向いた頭部をつま先の力だけで強引に左へ向けられ、そのまま側頭部を踏みつけられる。


「もっとも。警戒の余り、殿方と一緒に寝ようなどと言い出した時は、つい笑ってしまいましたが」


 アリスが鼻で笑い、殴打した際にへし折れた木の棒を無造作に投げ捨てる。そして黒陽の側頭部を踏みつけるブーツのかかとに一層の力がこめられた。なぶるように地面へ押し付けられる。頭蓋ずがいにミシミシと不快な音が響く。黒陽は痛烈な痛みで飛びそうになる意識を必死に保ち、痛みに震える左腕を伸ばして側頭部を足蹴あしげにするブーツの足首を掴んだ。


「はあ?」


 アリスが汚物でも見るかのように眉をひそめる。その真意を悟られる前に吐息ブレスを放つ。


呪蝕ジュショク!」

「なっ――――」


 てのひらから射出された吐息ブレス――闇の波動がアリスの両足を吹き飛ばし、余剰エネルギーがそのまま突き抜けて背後の木々まで吹き飛ばす。轟音ごうおん。だが欠損したかに見えるその両足は、黒い霧となり周囲に漂っている。アリスは両足を失いながらも空中に浮いていた。


「このクソ女っ! まだこんな力が残ってやがったんですの」


 両足が欠損していたのは一秒にも満たない短い時間であった。黒い霧が集まり収束すると、元の健康的な美脚が姿を現す。どういう原理なのか、吹き飛ばされた衣服までもが修復されている。

 再び、黒陽の腹部に強烈な蹴りが叩き込まれた。上から踏みつけるような内臓を破裂はれつせしめんとする容赦のない蹴りが。執拗しつように何度も打ち据えられる。


「あああっ……あああああ」


 悲痛の叫びが薄桃色の唇から吐き出された。その美しい顔が苦悶に染まる様を、恍惚こうこつとした表情を浮かべて見下ろすアリス。


「ああ……いいですわ。その表情。わたくしイッてしまいそうですわ」


 両肩を抱いたアリスが身震いして見せる。青い瞳が陶然とうぜんと美しき獲物を見下ろす。


悲哀ひあい懇願こんがんしてごらんなさい。そうすれば優しくしてあげてもよくてよ」

「誰が貴様のような下衆に懇願などするものか。そのような醜態を晒すぐらいなら死んだほうがマシだ」

「あら、そうっ!」


 左肘の接合部へ思いっきりブーツのかかとが振り下ろされる。骨と靭帯じんたいが同時に絶叫をあげた。その接合を断ち切るように何度も何度も金床かなとこの鉄を打つように力強く踵が落ちてくる。


「ぐうっ……あうっ……はあああああっ」


 余りの痛みに涙が強制的に分泌ぶんぴつされる。無様に涙を流す自分が許せなくて、黒陽は恥辱ちじょくに顔を歪める。


「ああ、その顔。すごくいいわ。やっぱりあなたに決めた。高い魔術の適性があり、身体能力は一般的な龍人を大きく上回る。そして更に、顔はうっとりする程美しく、そしてその肢体したいは小娘とは思えないほどにみだらで淫猥いんわいに育っている。同性であるこのわたくしの情欲をそそるほどに!」


 おもむろにアリスがひざをつき、舌先で黒陽の涙をすくい取るように一舐めした。黒陽は不快に顔を背ける。その拒絶を意に介すことなく、仰向けに力なく横たわる黒陽の上へ覆いかぶさってくる。抵抗しようにも両腕は完全に破壊され動かすことができず、無防備な体を守るすべはない。


 するすると龍衣の帯を解かれた。


「なにをする。やめろ」


 えりの隙間を押し広げ、アリスの冷たい指先が差し込まれる。嫌悪に黒陽の体がビクンと跳ねる。そしてアリスは、細くくびれた腰から腹部に掛けてのラインをゆっくり愛撫するように撫でまわした。ゾクゾクと嫌悪による悪寒が黒陽の全身を駆け抜ける。白い肌をっていた指先は、その体温を確かめるようにおヘソの下辺りでその動きを止めた。アリスは惚けた顔を赤らめて、


「あなたの接吻はじめて貰うわね。大丈夫。すぐに良くなるから」

「――――っ!?」


 黒陽の唇を奪おうと、身を乗り出したアリスの顔が近づいてくる。僅かばかりの抵抗で顔を背けたが、ぐいっと顎を掴まれ戻された。狂騒に取り付かれたアリスの顔が間近に迫る。

 と、そこで黒陽は彼女の愛を受け入れるように大きく口を開いた。


「あら、かわいい。服従するなら可愛がって――」


 ゴゥ!!!

 大きく開いた口から闇の吐息ブレスが射出される。

 眼前に迫っていたアリスの顔面を吹き飛ばし、夜の闇へと闇の波動が打ち上げられる。だが、顔を吹き飛ばされ、首から上がない状態にも関わらず、アリスはまだ動いていた。もはや抵抗のできない黒陽の上へ馬乗りとなり、人間とは思えない力で首を締め上げられる。


「くぅ……まだ足りないか」


 吹き飛んだ顔は黒い霧となり、再び集結し、すでにその原型を取り戻しつつある。締め上げられる苦痛に逆らって、黒陽は首を頷くように下へ向けた。照準はアリスの胸部。もう一度、その体に向かって吐息ブレスを射出する。ゴゥ! 首を締め上げようとするアリスの腕ごと胸部を貫き、体の中心へ大穴を開ける。吹き飛ばされた肉片は蒸発するように黒い霧となる。キリがない。

 だが、黒陽は諦めることなく吐息ブレスを放ち続けた。


 ボゥ! ボゥ! ボゥ!

 膜の薄い液体を貫くような音が連続する。

 アリスの体には無数の風穴が空き、その再生が終わる前に次の穴が穿うがたれる。


「いい加減にしやがれ。このガキャアアアアアア!」


 再生を終えた顔の下半分だけが狂ったように怒鳴り散らした。馬乗りとなっていたアリスの穴だらけの体がそこで初めて後退の動きを見せる。体を後ろへ倒し、口から発射される吐息ブレスの射線上から外れると、そのまま転がるように離脱した。


 距離を取り、体を完全に再生させたアリスが毒づく。


「クソガキめ……おっと失礼。そうでしたわね。吐息ブレスは元来、龍が口から出す吐息といきを特技として継承したもの。本来の用途である口からの吐息ブレスに限ってのみ、集中力を高めるワードを口にしなくても出せるんでしたか。油断しましたわ」


 黒陽は指一本動かせない。夜空を見上げたまま、月見でもするかのように呟く。


「口からの吐息ブレスは優雅ではないからな。好んで使う者はいない」

「あらあら、余裕ですこと。ですが、今のあなたにこれ以上、何ができまして」

「殺すつもりならとっくに殺していたはずだ。つまり、貴様には目的がある。その目的を達成するまで私を殺すことはできない。そうだろう?」


 虚空から銀のナイフが出現する。逆手に銀のナイフを手にしたアリスは、長く淫猥いんわいな舌先で刃を情動的じょうどうてきに舐め回す。


「小賢しい知恵が回りますわね。でもその余裕気に入りませんわ。ええ、本当に腹が立ちます。殺せなくとも、いたぶることはできますのよ。あなたの体、存分に切り刻んで差し上げますわ」


 満身創痍まんしんそういの身を更に痛めつけられようとも、黒陽の目はまるで死んじゃいない。指一本動かせない身でありながら、不敵に笑ってみせる。


「ふふ。果たしてそんな時間が残されているかな。口元を拭ってみろ」


 いぶかしげに口元へ手をやる。そこでようやくアリスは己の異変に気が付いた。血だ。口元を拭った指に血が付着している。アリスは悔しそうに唇を歪める。


「くっ、これだから人間のもろい肉体は――ごふっ」


 吐血。鮮烈な赤が地面へ飛び散った。

 アリスの体が痙攣けいれんするように震えだす。

 そんな様子を目の端で捉えつつ、どこか他人事のように黒陽は言う。


「その魔術、無条件で体を再生できる訳ではないだろう? より正確に言うなら、体を闇と同化させることによって攻撃を防ぐ術式だ。誰だって闇それ自体を斬ることはできないからな。吐息ブレスや魔術が効かないのも同じ理屈。だが、闇に同化するという性質がある以上、その魔術は無敵ではない。今は月が出ているから、闇との同化率はせいぜい90~95%が限度。つまり、ダメージの5~10%はちゃんと反映されているということだ。その上、それは上級魔術に相当する秘術のようなもの。人間の身で乱用すれば、体にかかる負荷に耐えられないだろう。合わせて考えれば、私以上にその体は限界だろうな」


 口を押えた手を伝わって衣服を赤く染めていく。

 ボタボタと。吐血は止まらない。どんどん酷くなっている。

 その急激な症状の悪化は黒陽の推理を裏付けている。


「なぜそれを知って……げほっげほっ」


 アリスの命の灯が急速に弱まるのを感じながら、黒陽は夜空を見上げ、目をつむる。


「私に直接触れたのが間違いだったな。触れ合った肌を通して魔術式を逆探知、解析させて貰った」


「嘘よ! そんなことができるわけないわ……上院の首席だからとかそういう次元の話では………………いえ、もしそれが本当に可能なのだとしたら、ここで再起不能にしておかなくてはっ!」


 アリスの青い瞳に殺意が灯る。銀のナイフを構え、重い足を一歩前へ。

 もはや形勢は逆転しつつある。長期目線での勝負なら、致命傷を負っていない黒陽が確実に勝つだろう。だが、短期決戦の場合は全く逆の結果となる。アリスはまだ倒れていない。体はボロボロでも戦えるのだ。

 黒陽は目を開けた。その顔は瀕死ひんしの重傷を負う者の顔ではなかった。心底安らいだ。絶対の安堵を得た顔。


「残念。時間のようだ」

「何ですって。あなたを刻む体力ぐらいまだ残っていますわ」

「いいや。貴様の命はもう尽きる。私の主人ナイトが来たからな」


 地を蹴り、力強く跳躍する音。

 次いで、ヒュン――と背後から風切り音。

 その二つの音が、アリスの聞いた最後の音だった。

 そして黒陽の意識もまた、そこで途切れた。




 ◇◇◇◇◇


 薄く目を開ける。

 大好きな人の顔がすぐ近くにあった。


 痛みを通り越して感覚が麻痺まひしている。指一本動かせないどころか、声帯せいたいを震わせることすら叶わない。ただ温もりだけは感じた。大きな腕で力強く抱き留められ、大切に運ばれている。黒陽に負担を感じさせないよう慎重に、しかしそれでいて迅速に夜の森を駆けている。浮遊するような朦朧もうろうとする意識の中、それだけはなんとなく感じ取ることができた。


(ああ。桜華と同じように抱かれているのだな)


 彼は黒陽が薄目を開けていることに気が付くと、後ろに向かって何事かを叫んだ。その声は海の底から水面へ向けて発せられたのかと思うぐらい、遠くに遠くにぼんやり聞こえた。後方から叫び声が返る。黒陽の耳には届いているが、やはり、その音はぼんやりと曖昧で言葉のていを成していない。

 なんとなく、名前を呼ばれている気がした。

 黒陽は唇の動きだけで彼らの名前を呼んだ。


 大好きな人は、泣いていた。

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