第30話 公主様の願い

 夜明け近く。

 打ち捨てられた帆馬車内部はようやく静けさを取り戻していた。


 手頃な木箱に腰を下ろし、麒翔きしょうかたわらで荒い息を繰り返す公主様から目を逸らす。彼女の寝るベッドは、荷台にあった大きな木箱三つを並べた上に、森から切り出し加工した板を並べて作成したものである。木材の上へ、毛布を二重に敷いてある。決して寝心地が良いとは言えないが、されど今、彼らの取れる選択肢の中で最善の出来ではあった。


 治療は桜華が行った。全身に包帯を巻き、折れた両腕には添え木を施した。麒翔きしょうはただ彼女に命じられるがまま、回復薬ポーションを用意したり、添え木に適していそうな枝を探したりと、右往左往するのが精一杯だった。


 治療を行うには多少なりとも清潔で落ち着いた場所が必要だった。だから麒翔きしょうたちは来た道を引き返し、三日目に野営した打ち捨てられた帆馬車のところまで、公主様を抱きかかえたまま戻って来たのである。


 吊るされたランプの灯が公主様の痛々しい姿を照らしている。包帯には血がにじみ、呼吸に上下する胸は苦しそうである。薄い毛布を挟んだその下には、包帯に巻かれた半裸の彼女が横たわっている。


 公主様の体は相当にひどい有様だった。皮膚は赤くただれ、内出血の跡が体中に数えきれないほど点在していた。中でも特に腹部が一番ひどかった。美しく可憐なその顔にはブーツの跡がはっきりと残り、複雑に折れ曲がった両腕は、ただぶら下がっているだけという無残なものだった。

 まるで拷問を受けたかのようなその惨状に、麒翔きしょうはどうしようもなく胸が張り裂けそうで、大声で叫びまわりたい衝動に駆られる。


(くそっ! もっと早く駆け付けられれば)


 それが意味のない仮定であることを麒翔きしょう自身が一番よくわかっている。暴風タートルを倒してすぐ、麒翔きしょうは全速力で駆けだした。誘導係の桜華を振り切る勢いで走り続けた。あれ以上早く駆けつけることは不可能だった。


(んなこたわかってる! けど、俺の能力不足がすべての原因だ)


 麒翔きしょうに遠距離攻撃手段があれば、状況は変わっていたかもしれない。例えば、公主様の使った[闇の鎖の束縛]のような拘束系の魔術を使えていれば、亀の進撃スピードを更にぐことが可能だったろう。そうすれば、公主様のダメージも更に軽減することができたはずである。しかし、剣術しか能のない滞空中の彼にできたのは、全てが終わるのをただ他人事のように見守ることだけ。


 もしもあの時、公主様が庇ってくれなかったら、桜華は死んでいたかもしれない。本当は自分が守らなければいけないはずなのに、何を差し置いてでも守ると決めていたはずなのに、その役目を果たすことができず、身代わりとなった少女は瀕死の重傷を負ってしまった。


「無能の極みだな」


 悔し涙が溢れてくる。過去にも辛酸しんさんを舐めてきた麒翔きしょうではあるが、自分の無力がこれほど恨めしかったことはない。どんなに辛い時でも泣いたことはなかった。それは泣きたい時に桜華が傍に居てくれたからというのもある。しかし今は、桜華が傍にいてくれてもこの辛さは消せそうにない。


 入口に下げられたれ幕が持ち上がり、桜華が荷台へ入ってくる。手には小樽とそのふちには手ぬぐいが掛けてある。水を絞ると、公主様の額に乗せられていた手ぬぐいと交換し、桜華が悲しそうに吐息した。


「熱、下がらないね」


 龍人は各種耐性――つまり、免疫力も相当強い。通常、熱が出ることなど滅多にないのだが、瀕死の重傷に陥ったためか公主様の額は高熱を発している。麒翔きしょうは大きくため息をつき、首を横に振った。


「今はこれ以上、どうすることもできない。夜が明けたら、速攻で教師たちのいる本陣へ戻るぞ。桜華おまえにも戦って貰うことになる」


 いつになく真面目な様子で桜華は首肯しゅこうする。

 普段は意地悪く笑っているその目も、今はただただひたすらに真剣だった。

 彼女は彼女で、麒翔きしょうと同じように負い目を感じているのかもしれない。


「すまん。全部俺のせいだ。それなのに俺は桜華おまえにひどいことを言った」


 ――桜華。てめえ何やってんだ。冗談抜きに死ぬぞ。

 暴風タートルに苦戦を強いられていた麒翔きしょうは、ノコノコと戦線に近づいて来た桜華に怒鳴ってしまった。それは犠牲となった公主様への悔恨かいこんと、その仇を取れない不甲斐ない自分への苛立ちからでた八つ当たりだったように思う。何の意図もなく桜華がそのような愚かな真似をするわけがないと、心の底ではわかっていたはずなのに。


「ん-? ひどいこと?」

「怒鳴っちまっただろ。本当に悪かった」

「ああ、あれねー。逆の立場ならわたしも怒ったと思うよ。陽ちゃんの犠牲をなんだと思ってるんだって」


 ガシリと心臓を鷲掴わしづみにされたような気がした。


 ――黒陽あいつが誰を庇ってああなったと思っている。


 喉元まで出かかり、呑み込んだ言葉。しかしそう思ったこと自体が罪であるような気がして。本当はそちらを謝りたかった。その全てを見通すように桜華はこちらを見つめている。


「一体、桜華おまえはどこまで見えてんだ」

「なんのこと?」


 普段の軽い調子こそないが、紡がれる言葉はいつも同じ。

 とぼけているのか、本気なのか。判断はつかない。まるで道化のようだと麒翔きしょうは思う時がある。


「うぅ……」


 熱に浮かされ公主様がうわごとを呻く。苦しそうに胸が上下し、かすかに身じろぎする。ずれかけた毛布を肩が隠れるようにそっと掛け直してあげると、桜華は悲しそうに吐息して、手近にあった小箱を見繕い腰を下ろした。丁度、麒翔きしょうから見て正面に座る格好となる。彼女はうつむき切り出しにくそうに逡巡しゅんじゅん、何かを悩む素振りを見せた後、ぎゅっと唇を噛み締めた。


「翔くん、あの子は……」


 あの子。桜華ははっきりとその名前を言わなかった。口に出したくなかったのかもしれない。一番仲が良かったのは桜華だったから。麒翔きしょうは即答する。


「ああ、俺が殺した」


 目をつぶれば、あの時の光景が鮮明に浮かぶ。


 血に染まった龍衣。不自然に折れ曲がった両腕。振り乱された黒髪が地面に血だまりのように広がっていた。人の在るべき姿には到底見えなかった。それはまるで壊れた操り人形マリオネットを投げ捨てたかのよう。


 そして次に、銀のナイフを振り上げ何事かを喚き散らすアリスが視界に入った。同時に「きざむ」という単語が耳に入った。瞬時にすべてを理解した。公主様を壊れた人形のように粗末に扱ったのはこいつだ。迷いは一切なかった。右肩から胴まで一刀の元に斬り捨てた。

 その時の光景を思い出すだけで、殺意が無限に湧き出るかのように感じる。


桜華おまえに聞いてた話より大分、黒陽の状態悪いよな。明らかにあいつの仕業だろ。まさか殺すべきではなかったとでも言いたいのか」

「ううん。違うよ。むしろ、わたしがこの手で殺してやりたいぐらい」


 温厚な桜華の口から、このような過激な言葉がでるのは珍しい。それだけ憤っているということなのかもしれない。気持ちは痛いほどわかる。麒翔きしょうも桜華も、あの女――アリスの芝居に騙されていた。人助けのつもりで親切に接したつもりでいた。それをこのような形で裏切られ、あまつさえ、大切な仲間をズタボロに痛めつけられた。平気でいられるはずがない。許せるはずがない。そして何より、アリスを信用してしまった自分が許せない。


「俺がもっと黒陽あいつのことを信じてやれりゃこうはならなかった。そんな気がしてならないんだ」


 アリスに冷たい態度を取る公主様を冷血だと思った。困っているアリスに手を差し伸べてもいいんじゃないかと不満に思った。じっと不機嫌そうに見つめてくる公主様を煩わしいとさえ感じてしまった。

 しかしそれらはすべて間違いで、公主様だけが常に正しかった。アリスの正体が暴かれず、あのまま一緒に行動を共にしていたら、より深刻な事態に陥っていたことだろう。気付かなかっただけで、彼女にはずっと助けられていた。


「わたしだって同じだよ。新しい女の子の出現で、焦って嫉妬してるんじゃないかって安易に考えて、陽ちゃんの本当の気持ちを理解する努力を怠った」


 公主様が自分の感情を言葉にして伝えることが苦手だということは、薄々わかっていた。こちらの方から手を差し伸べ、聞いてやることもできたはずなのに、麒翔きしょうはその努力を怠ってしまった。


黒陽あいつは口下手だから誤解されやすいんだ。もし次があるなら……その時はちゃんと聞いてやらないとな」


「うん。わたしたちお互いが少しずつズレてたんだと思う。口下手で不器用だったとしても、陽ちゃんだって相談することはできた。そしたら別の解決方法を思いつけたかもしれない。そしてわたしも、陽ちゃんにどこか遠慮してた。だからはっきり聞けなかった。お互い、言わなきゃ伝わらないのにね」


「そうだな。俺もそうだ。卑しい人間相手だから冷たいのかと思った。一般的な龍人の差別意識が黒陽あいつにもあるんだと勝手に決め付けてしまった。だから理由をはっきり聞くのが怖かったんだと思う」


 人間を否定されるということは、自分の半分を否定されるということだから。自分のことを好いてくれた公主様に否定されるのが怖かった。拒絶されるのが怖かった。だから聞くことができなかった。


「う……、あ……、麒翔きしょう……、……桜華、……」


 熱にうなされながら公主様が彼らの名を呼んだ。


「黒陽! 大丈夫か?」

「陽ちゃん!? わたしはここにいるよ」


 桜華が包帯の巻かれた右手を包み込むように両手で取った。公主様の耳元でその意識を引き戻そうと、麒翔きしょうは何度も彼女の名を呼び続ける。

 その呼びかけが届いたのか、公主様が薄く口を開いた。どんな小さな声でも聞き逃すまいと、麒翔きしょうと桜華は耳を寄せる。


「…………、私はちゃんと……、役に立てたか?」

「当たり前だろ。黒陽おまえがいなかったら全滅だ。感謝してもしきれねえ」

「そうだよ。陽ちゃんは命の恩人だよ」


 荒い息を繰り返し、公主様が言葉を絞り出す。


「桜華のことが好きなら好きで構わない。私も傍に置いてくれ」

「――――――!?」

「――――――!?」


 二人の顔が同時に凍り付いた。

 とんでもない勘違いをしている。麒翔きしょうは慌てた。


「黒陽。それは勘違いってもんだ。俺と桜華はそんな関係じゃない」


 桜華も慌てている。


「そうだよ、陽ちゃん。わたしたち本当にそんな関係じゃないんだよ」


 慌てふためく二人の様子が面白かったのか公主様は小さくそっと笑んだ。


「桜華は頭を撫でて貰えていた。私は頼まなければ撫でて貰えなかった。桜華は抱いて貰っていた。私は自力で動けなくなってようやく抱いて貰うことができた」


黒陽おまえ、そんな風に思って……」


 胸が締め上げられるように痛んだ。

 それは違う! 思いっきり叫びたかった。


 桜華の頭を撫でていたのは、長年の癖――条件反射のようなもの。そもそも頭を撫でられて喜ぶ犬みたいな奴は桜華ぐらいだと思っていた。高貴な公主様の頭を気軽に撫でるなど恐れ多いことである。

 そして桜華を抱いたのは、彼女の戦闘能力に疑問があったから。大切な友人を自分が守らなければ、その想いから自然と体が動いたのであって、断じて、恋愛的な優遇処置などではない。だが、公主様からは恋人同士そのように見えていた。


「本当は俺だって黒陽おまえを抱きたいよ。こんなにいい女、他にどこ探したっていないだろ。だけど、俺と黒陽おまえは身分も能力も違いすぎる。釣り合いが取れていないんだよ。だから俺は――」


 麒翔きしょうの肩にそっと桜華の手が置かれた。


「もう意識がないみたい」


 肩に置かれた手がぎゅっと強く握られ、皮膚に爪が食い込み麒翔きしょうの痛覚を刺激する。文句を言おうと振り返ると、桜華の真顔がそこにあった。普段が普段なだけにそのギャップはかなり怖い。


「問題の根っこはそこじゃないでしょ。翔くんが真に問題視してるのはそこじゃない。本当はわかってるんだよね。でも、向き合うことができない。怖いから」


 ズキリと頭が痛む。それは絶対に思い出したくない記憶。重石を乗せたフタで塞ぎ、二度と出てこないように封印した。心に巣くうトラウマという名のバケモノ。


「陽ちゃんは本気だよ」


 ――私はちゃんと役に立てたか?

 もしかすると彼女は、役に立てることを証明したくて頑張ったのかもしれない。こんなにボロボロになりながらも必死に戦って、どれだけの痛みに耐えたというのだろう。そしてその先に望んだものは、麒翔きしょうの傍に置いてもらいたい。ただそれだけのささやかなもの。


(平民風情の無能の傍に置いてほしいなんて、なんの冗談だってんだよ)


 だがそれだけに、その本気は十分すぎるほど伝わった。


「まだ過去を忘れられない? こんなに真っ直ぐな陽ちゃんも同じだと思う?」


 そして桜華は背中をバシンと叩いてきた。なんだか懐かしい感じがした。桜華の声がぼんやり耳に届く。


「言わなきゃ伝わらないこともある。今回学んだはずだよ?」


 麒翔きしょうの意識は三ヵ月前――入学式の日へと飛んでいた。

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