第27話 死闘(前編)

 亀。そう巨大な――山のように大きな亀だ。

 なぜ亀が森に。誰もがそう思ったはずである。


 そもそもの問題として亀は獣ではない。つまり、定義からすれば魔獣ではなく、《妖気》を発し禍々しく鎮座ちんざするあれは魔物である。亀が森に存在するという違和感以前に、獣王の森に魔物が存在すること自体がまずありえない。もしも魔物が当たり前のように存在するのだとしたら獣王の森などとは呼ばれていない。

 しかも、今までの魔獣とは別格の《妖気》を放っている。その《妖気》の質は、明らかにこの森に現存していいレベルを大きく一脱している。あんな化け物が元来の住民だとすれば、森の生態系はとっくに破壊されていただろう。


 なにせ《妖気》の桁が、この森の魔獣と比べて軽く二つは違う。それが最上級を示す「終末しゅうまつ」等級に該当するであろうことは、容易に想像がついた。「終末」等級とは、国を傾けるだけの力を持つ規格外の化け物を指す。


 山のようにそびえ立つ巨体。その背に誇らしく鎮座ちんざする甲羅。背後に広がる変わり果てた森の景色。大質量で構成された巨体の通り道となったそこは深くえぐれて、地均じならしされたみたいにたいらとなっている。木の一本どころか草の一本すら生えていない。その力の凄まじさはそれだけで十分伝わる。

 と、思い出されるのは二本の車輪跡の残る黒土の道。


「って、あれはこいつが作ったのかよ」


 思わずツッコんだ麒翔きしょうだったが、対応を買って出た公主様はそんなに呑気にはしていなかった。素早く模擬刀を引き抜き、群青色の《剣気》をまとわせたそれを亀の頭部へ叩き込む。どう見ても弱点はそこしかない。迅速じんそくで的確な判断だった。だが――


 ――ガキィン


 鉄を打ちえるような重たい金属音と同時に公主様の模擬刀は易々やすやすと跳ね返された。


「くっ、なんて硬さだ。ならば! 冥府へいざなえ[死の鎌]」


 虚空こくうから出現した大鎌が亀の頭部を刈り取るように弧を描く。だが、結果は同じ。金属音と共に跳ね返された。


「ゲキャアアアアアアアアアアアァァ!」


 亀が怒りの咆哮ほうこうをあげた。

 手足と頭が引っ込み、金剛石こんごうせきのように硬質な殻にこもる。

 次の瞬間、巨体とは思えないスピードで回転を始めた。散らばっていた木片もくへんや大小様々な石、そして周囲の黒土を巻き上げ散らし、高速回転へと近づいていく。


 ――ごう

 突風が吹いた。

 麒翔きしょうは大きく後方へ跳躍。桜華を地面へ下ろした。


「悪いが距離を取って避難しといてくれ」

「ええ? でもわたしだって戦えるよ」

「駄目だ。見ただろ。あの黒陽の魔術が通用しないんだぞ」


 公主様は剣術だけでなく、吐息ブレスも魔術も超一流の本物の天才である。その攻撃が通用しないとなると、あの魔物の脅威度は二次関数的に跳ね上がる。おそらくあの魔物は、小さな街程度なら容易く更地にしてのけるだろう。


「なら、逃げようよ。翔くんだって危ないよ」


 現実的に考えれば逃走という選択肢が一番無難なのかもしれない。しかし、逃げ切れる保障がない上、仮に逃げ切れたとしても、三人はバラバラとなるだろう。その危機的状況は新しい脅威を生み、そしてその時は今度こそ手を差し伸べることができない。そしてなにより、


魔物あいつは敵対行動を取った黒陽を狙ってる。今逃げ出せば、そのヘイトの全てを押し付けることになる。それだけはできない」

「そんな……」


 桜華は絶句。それを了承と捉え、麒翔きしょうは高速回転を続ける甲羅へ向かって突進した。紫炎の《剣気》を模擬刀へ宿らせる。《気》を練る時間はあった。一撃で決める。腕を大きく振り上げ――


「――って、うっそだろぉ!?」


 回転運動に突如として直線運動が加わった。高速回転する硬質な甲羅はもはや触れる者を切り裂く刃である。その千手観音せんじゅかんのんも真っ青な刃の乱れ斬りが標的に定めたのは向かい来る麒翔きしょうだった。一切の躊躇ちゅうちょなく真っ直ぐに突っ込んで来る。

 公主様を狙っているとばかり思い込んでいたので完全に当てが外れた格好。ぎりぎりのところで麒翔きしょうは跳躍、空中へ脱出し難を逃れる。


「こっちに来んのかよ!? って、ちょっと待て」


 麒翔きしょうは最短距離で、つまり寄り道抜きに真っすぐ突撃したわけである。そんな麒翔きしょうに対して真正面から体当たりを敢行かんこうし、迎え撃ったということは、その進路上には必然、桜華がいるということ。

 圧倒的な暴力の塊が地面をえぐり巻き込みながら桜華へと迫る。

 桜華は龍人女子の中では優秀な方だが、従来の温厚な性格に加えて、実戦経験が圧倒的に足りていない。体は反射的に動けない。その瞳は驚きと恐怖に見開かれ、震える足は直立不動のまま地に根を下ろしている。悲鳴を出すこともできないまま、ただその時を待っている。


 ――ごう

 回転から生み出された強風が麒翔きしょうの耳を叩く。彼自身は空中にいる。何もすることはできない。遠距離攻撃手段を持たない無力な自分を呪いたくなる。


「拘束せよ[闇の鎖の束縛]」


 公主様が魔術を起動。台風の目となる甲羅の真下へ闇より深い陰影が出現し、いくつもの黒い鎖が夜空へ向かって飛び出してきた。漆黒の鎖は獲物を拘束しようと、高速回転を続ける甲羅へ殺到する。が、その災害級の攻撃を止めるには至らない。巻き付きにいった鎖はいくつにも両断され、散ってゆく。しかしそれでも効果はあった。進行スピードが若干減速したのである。


「桜華!」

「え?」


 迫り来る大質量の暴力。その軌道上から桜華の体が弾き出される。代わりにそこへ立っていたのは。


「陽ちゃん!?」


 桜華が悲痛な叫びをあげた。


 華奢な体が宙を舞った。正面からではなく甲羅の端に引っ掛けられるような形で斜めへ。錐揉きりもみしながら吹き飛んでいく。樹木を二本へし折り、三本目の大きな樹木に背中から叩きつけられ、そこでようやく停止。両足を投げ出す形で崩れ落ち、意識を失っているのか公主様は微動だにしない。その美しい顔には鮮血が滴り落ち、直撃を受けた右腕は関節を無視した不自然な形に曲がっている。


「て、てめえええええええええ」


 ――殺せ。

 龍人の本能が囁いた。


「ぜってーぶっ殺す」


 着地と同時、麒翔きしょうは跳ねるように走り出した。絶対に許さない。その一念だけが彼を掻き立てる。

 一方、公主様を跳ね飛ばし、しばらく直進運動を続けた巨大亀は、頭と両手両足をひょこっと出し、ゆっくり方向転換をしているところである。


「隙だらけなんだよ! くたばれ」


 《剣気》は通常発動可能な限界まで練り上げた。黒龍石を両断した津波のような《剣気》の本流が模擬刀を包む。

 巨大亀が頭を引っ込めた。鏡面のような装甲がどんでん返しの要領で、頭部を収納している穴を塞いだ。鉄壁の籠城を決め込むつもりである。ならば自慢の甲羅ごと叩き斬るまで。

 魔核の位置は《妖気》の密度でなんとなくわかる。ズバリ、甲羅の裏側、一番防御の硬い天辺付近。狙いはその一点のみ。

 腕を大きく振り上げ、跳躍。腰の捻りと全身のバネをフル活用し、渾身の一撃を放つ。


 ――ガギギギギギギィイ。


 不快な金属音が夜のとばりに響く。

 手応えはあった。だが――


「浅い……だと!?」


 甲羅に大きな亀裂が入っている。だが、その傷は中身――魔物本体にまで達していない。


「嘘だろ。装甲厚すぎだろ」


 舌打ちし、空中で悪態をついた瞬間、七光する鏡面のような甲羅がピカッと光った。光属性攻撃だということは直感でわかった。甲羅全体から放たれる広範囲攻撃。空中である。逃げ場はない。否、渾身の一撃を放った直後、防御を差し挟む余裕すらない。


 フラッシュが闇夜の森を眩しく照らした。一瞬だけすべての闇が払われる。


「ぐうっ」


 衝撃と閃光が全身を包む。

 左肩から着地――というより落下。光線によって熱せられた龍衣がプスプスと煙を立てている。全身に熱傷多数。高い熱耐性のある龍人の肉体を易々と貫通した上、ここまでのダメージを与えられるというのは正直信じられない。麒翔きしょうはぐっと歯を食いしばり、腕の力でなんとかその身を起こそうとする。


「くそ。まさかこんなところで模擬刀のハンデが効いてくるとは」


 並みの真剣を使えていれば、先ほどの一撃で確実に葬ることができていた。それがされなかったのは、武器ではなく玩具おもちゃで戦ったから。真剣と模擬刀の間にはそれだけの差がある。


 巨大な甲羅が再び高速スピンを始める。

 突風が吹き、黒土が舞い上がる。もう一度、さっきのアレが来る。さっさと起き上がらなければ一貫の終わり。脳裏に公主様の惨状が浮かんだ。清廉せいれんで気高く超然とした強者たらん公主様。その凛々しい姿が今では嘘のよう。無残に成り果て、痛々しく弱々しいものへと変わってしまった。


「くそが。ふざけやがって。ぜってー殺す」


 公主様のダメージに比べれば大したことはない。そう己に言い聞かせてその身を叱咤激励しったげきれいなんとか起こす。

 と、スピンしながら急接近する甲羅の一撃を横へ跳躍してぎりぎりかわす。先ほどの範囲攻撃がいつ来るかわからないため、縦の跳躍は危険であるとの判断。

 森を大きく削りながら直進を続けた巨大亀は、一度その動きを停止すると、再び頭をちょこんと出して麒翔きしょうの位置を確認し、すぐに引っ込めた。そして再び回転を開始する。どうやら、頭を狙われることを警戒しているようである。相手もただの馬鹿ではない。学習しているのだ。


 総じて回転が止まるのは突進終了後のほんの数瞬のみ。

 これでは攻撃を叩き込む隙がない。




 ◇◇◇◇◇


「……ちゃん………………よう……」


 誰かが遠くで誰かを呼んでいる。混濁こんだくする意識をまとめようと黒陽は努めた。


「…………陽…………ちゃん……」


 ――私を呼んでいるのか? これは誰の声だ。一体、誰が私を呼ぶ。ああ、眠たい。このまま夢の世界へ旅立てれば幸せかもしれない。もっと麒翔きしょうと会話をしてみたい。彼のことをもっと知りたい。ああ、会話と言えば桜華だ。彼女はしゃべることが得意で友人も多い。将来は、内政担当の外交官として活躍するだろう。私にはない才能だ。麒翔きしょうを支える頼もしい仲間となるだろう。では、私は何をもって貢献することができるのか。決まっている。この類稀たぐいまれなる多彩な特技を駆使し、戦闘面で彼を支えるのだ。そうだ。母・烙陽らくようのように軍事面を支えるのだ。それは温厚な桜華にはできないことだから。ああそうか。この声は――


「陽ちゃん、陽ちゃん」


 目を開けると泣き腫らした桜華の顔が逆さにあった。茶色の瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちている。黒陽の意識が戻ったことに気付くと、桜華は痛ましい黒陽の体を慈しむように優しく抱きしめた。どうやら桜華に抱きかかえられている格好らしい。涙がぽつぽつと額に落ちてくる。彼女は体を震わせてしゃくり上げるように泣いている。


「桜華は甘えん坊だな。つうっ」


 右腕に激痛が走った。見れば完全に折れてしまっている。


「ごめんね。わたしがぼーっとしてたから……」

「気にするな。私たちにとってあれが最善の選択だった」

「でも、でもわたしが動けていれば。避難していれば……」


 悲痛な言葉と共に大きな雫が額に落ちた。それは彼女の悔恨かいこんの涙。ああ、と黒陽は思う。自分の取った選択が桜華を悲しませてしまっている。それはとても申し訳なく思う。しかし後悔はしていない。あの選択は最善でなかったかもしれないが、正しい選択だったと確信している。激突の瞬間、[魔法障壁バリア]を展開してなお、このダメージなのだ。無防備の桜華が受けていれば確実に死んでいた。


「相互助力の考え。群れの基本だ」


 相互助力。同じ群れに属する者同士、助け合って生きていこうというもの。桜華はすでに黒陽の想定する群れの一員――しかも黒陽の中では、学園卒業後に群れを形成する際の初期メンバーとして勝手に内定されており、群れにとって極めて重要な存在だと考えられている――なので、命を懸けて守る価値がある。

 だが、そのような事情もうそうを桜華が知るよしもなく。どこまで伝わったのかは不明である。桜華にしては珍しく叫ぶような大声で、


「でも、陽ちゃんが死んじゃったら意味ないよ」


 桜華の泣き腫らした顔に、辛うじて動かすことのできる左腕を持っていく。


「私は私の使命を果たしただけだ。桜華が気に病むことではない。それにこうして生きている」


 なにより彼女は孤立していた黒陽に声を掛け、麒翔きしょうと再会させてくれた恩人でもある。その上、正妃を譲ってほしいという黒陽の無茶な願いまで聞き入れてくれた。龍人女子にとって正妃という位はとても重要であり、譲ってくれと頼まれても簡単に譲れるような軽いものではないのだ。


 その心は地母神じぼしんのように大らかで包容力があり、黒陽は彼女に尊敬の念すら抱いている。群れうんぬんを抜きにしてもやはり体を張って助けただろう。


 桜華はまだ納得できないらしく、いやいやと首を横に振る。

 目元に溜まった涙を親指で拭ってやり、黒陽は微笑を浮かべる。


「戦いはまだ終わっていない。頼みがあるんだ」

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