第21話 商人の娘アリス

 夜の闇が深まる。時刻は深夜に差し掛かろうとしていた。

 四つの影が焚火たきびを囲む。

 鍋で沸かした湯を木製のおたまですくい、コップへと移し替える。湯気の立ち昇るコップを麒翔が手渡すと、バチバチと爆ぜる炎を青い瞳に映し、金髪の少女が「ありがとうございます」と礼を述べた。


「私は商人の娘アリスと申します。商人の都市ウエスポートから各地の特産品を仕入れるため、長旅の道中にあります」


 ウエスポートとは西方にある商人の国・大キャラバン共和国の都市で、最西端に建設された港湾こうわん都市でもある。西方と東方の中間――大陸の中央に位置するアルガントやラクレから見ると、かなりの距離が開いており、長旅を経て来たことがわかる。


「そして、私たちはラクレの街へ向かう途中、森へと迷い込み魔獣に襲われました」


 荷台の後方に残されていた無数の爪痕つめあとと、まき散らされた血痕けっこん麒翔きしょうは思い出す。その出血量は人一人に収まる量には見えなかった。


「君以外の人たちは?」


 アリスは悲しそうに首を振る。


「わかりません。お父さんは助けを求めに出て行きましたが、帰って来ませんでした。護衛も二人いたはずなのですが」


「君はずっと隠れていたの?」


「はい。隠れているように言われて。怖くてずっと」


 樽の中にずっと隠れていたのだと彼女は言った。


「でも、俺たちがここに到着してから大分経っていたと思うんだけど。どうして助けを求めなかったんだい」


 麒翔きしょうが疑問を口にすると、代わりに桜華が答えた。


「それはね、わたしたちが盗賊なんじゃないかって思ったんだって。ほら、こんな森の中に普通の人がいるはずないから」


 龍人族は縄張り争いの激しい種族である。強者は自分の縄張りを持つことができるが、弱者は縄張りを持つことができず、放浪生活を送る者も少なくない。そんな弱者の群れが腰を落ち着けられるのは、魔物の出る危険な山や森ぐらいなものである。そして劣悪な環境に置かれた彼らは、働き口を見つけることもできず、日銭を得るため仕方なく盗賊に身を落としていく。

 という話を生まれ故郷のアルガントで麒翔きしょうは聞いたことがあった。彼らは確実に勝てる人間だけを狙うのだそうだ。


「警戒すべきは魔獣だけじゃないってことか」


 獣王の森で平然と野営を始める。確かに、そんな命知らずな真似ができるのは龍人ぐらいだろう。ここが龍人族の領土であることを考えれば、彼女が警戒するのは当然であった。


「ごめんなさい」


 アリスは申し訳なさそうに肩を落とす。

 人間にとってこの森は死地も同然である。そのような環境に身を晒すことになった彼女の不安や絶望を思うと、麒翔きしょうは心が痛んだ。


「いやいやいや、気にすることないよ。盗賊に身を落とす群れはほとんどが小規模なものだし、三人でやって来た俺たちを警戒するのは当然だよ。むしろよく我慢したと思う。ずっと一人で怖かったろう」


 大袈裟に手を振って「君は悪くない」をアピールすると、ようやくそこでアリスが小さく笑った。異国の血がそう思わせるのだろうか。天使の微笑みに見えた。麒翔きしょうは少し舞い上がって、


「それより冷めないうちに飲みなよ。冷えた体が温まるからさ」


 コクリと頷くと、アリスは湯気の立ち昇るコップをフーフーやりだした。両手で持ったコップの水面には波紋が広がっている。


「びっくりしたよー。樽のフタが少し空いてて、覗こうとしたら人が出てくるんだもん」


 横合いから興奮した桜華の声が割り込んでくる。麒翔きしょうは呆れた調子で返す。


「そもそも何で水浴び中に、樽のフタ開けようとしてんだよ」

「だって隙間が気になったんだもん」

「びっくりしたのはアリスさんの方だろ。予測不能にもほどがある」

「はい、びっくりしちゃいました。でもこんなに良い人たちなら見つかって良かったです」


 白湯を口に含んだアリスが頬を赤らめて言った。

 一応、リラックスはできているのかな? と麒翔きしょうは正面に座るアリスの顔を見て思った。とにかく彼女を安心させてあげたいと思い、


「実は俺、アルガントで育ったんだ」


 人間に対して偏見へんけんがないことをアピールする目的で麒翔きしょうは言った。

 龍人族は「力こそ正義」を地で行く種族なので、他種族を見下す傾向にある。中でも特に、力が弱く小賢しい知恵ばかりが回る人間のことを侮り、蔑んでいる。半龍人も力が劣ると蔑まれるが、人間に対するそれは半龍人の比ではない。


「わぁ。アルガントですか。龍人の方でも人間の街で暮らすものなんですね」

「そうそう。翔くんは群れで生活したことのない珍しい龍人なのです」


 能天気な桜華のことである。人間に対する偏見は持っていないだろうと予想はしていたが、その片鱗さえ見せないので麒翔きしょうは秘かに安堵した。もっとも、アリスを助ける方向に話を持ってきたのは彼女なので、苦情を受け付けるつもりなど最初からないわけだが。

 アリスもラクレへ向かう前準備としてアルガントに数日滞在したそうである。しばらく、アルガント・トークで盛り上がる。


「んで、俺ん家は郊外にある丘の上にあるんだけど、城壁の外だから魔物が出るんだよ。いやぁ五歳の時に魔物と戦えって母さんに尻叩かれた時は死にかけたなぁ」


「ええ!? 厳しいお母さんですね。それでどうなったんですか」


「龍人の筋肉は特別でね。五歳児のものでも鍛えた人間の大人と同程度の力は出せるんだ。取っ組み合いの殴り合いの末、なんとか勝ったよ」


 話の合間にうまく相槌あいづちが挟まれ、クスクスとアリスが笑う。それからそれから、と聞き上手にせがまれて、麒翔きしょうは調子に乗って話し続けた。そしてふと気づく。一人会話に入ってきていない。


「うっ……」


 ちらりと視線を向けると公主様がえらく不機嫌そうにうつむいていた。ご立腹オーラが出ているように麒翔きしょうは感じる。会話に入れないのが不満なのだろうか。だが、桜華と二人で盛り上がっていても、あからさまに不機嫌な態度を取ることは今まで一度もなかった。


 ならば――と麒翔きしょうが口を開く前に、公主様の方から切り出した。


「その娘を護衛するつもりか?」


 言葉に圧が含まれている。言外に非難されていると感じた。

 嫌な感じが麒翔きしょうの首筋をチリチリと這う。


「ああ、本陣まで連れて行く。教師に事情を話せば馬車を貸して貰えるだろ。それでアルガントかラクレのどちらか希望する方に連れて行くつもりだ」


 アルガントの場合は少々日数が掛かるが仕方あるまい。ラクレの場合は夜通し走れば一日で到着する。

 場の雰囲気が変わったことを皆、肌で感じているようだ。桜華が心配そうに瞬きを繰り返して成り行きを見守っている。アリスも同様で不安な顔に逆戻りしてしまっている。公主様は今にも「却下だ」と言い出しそうな雰囲気である。


 横転した馬車を発見した際、生存者を探しに行くべきか迷った麒翔きしょうに「却下だ。迷っている時点で論外だ」と言い放った公主様の冷酷な判断が思い出される。


 もしかすると公主様は、一般的な龍人同様に人間に対して偏見があるのかもしれない。他の龍人とは異なる超然ちょうぜんとした物腰から、そのような些末さまつな事は気にしないというイメージを麒翔きしょうは勝手に描いていた。そんな淡い期待が崩れ落ちていく。


 その時、麒翔きしょうの心に広がったのは、公主様への怒りや失望ではなく、悲しみの感情だった。彼自身、半分は人間なのである。人間を否定されるということは、半分の自分を否定されるということ。「正妃にしてほしい」そう告げた彼女が今はすごく遠くへ行ってしまったように感じる。


 だが、そのことを口に出すのははばかられた。もしも本当に公主様が人間に対して嫌悪する気持ちを持っていた場合、二人の間に致命的な亀裂が入ってしまうような気がして、麒翔きしょうに二の足を踏ませたのである。


 本当に言いたいことは我慢して。代わりに、


「言っとくけど、反対されても俺はやるからな」


 返答次第では、別行動も辞さない構えである。

 公主様はその美しい顔をじっとこちらへ向けて、悲しそうに黒い瞳を揺らしている。何かを訴えようとするその表情にぐらっと心を持っていかれそうになるが、麒翔きしょうは視線をそらすことでその誘惑を絶った。


「わかった」


 ぽつりと公主様が言った。彼女はそれ以降、就寝の段になるまで一言もしゃべることはなかった。麒翔きしょうはすっきりしない気持ちを抱えたまま、寝ることになったのだった。




 ◇◇◇◇◇


 暗がりに帆の隙間から朝陽が差し込む。

 まぶたに光を感じて麒翔きしょうは目を覚ます。

 重たい瞼を擦ろうと、腕を伸ばそうとしたところで何か柔らかいものに指先が触れた。「んっ」という吐息といきが、閉じた瞼のすぐ先から聞こえた。何か柔らかな物に引っ掛かって腕を持ち上げることができない。まどろみの中でそう認識した麒翔きしょうは、少し強引にその障害物を押しのけようとした。


「んんっ」


 先ほどよりも大きく甘い吐息が耳に届いた。情欲じょうよくを煽るようななまめかしい女の声に夢現ゆめうつつ状態の麒翔きしょうは、何か不穏なものを感じ、半ば強制的に目を開けた。


 一点の曇りもなく美しい顔が眼前にあった。

 呼吸が止まった。


 え? なんで? という疑問が即座に浮かんだ。

 そしてすぐに昨夜寝る前に交わした会話を思い出す。

 無言を貫いていた公主様がようやくしゃべってくれたことで麒翔きしょうは少し舞い上がっていたことを付け加えておく。


「一緒に寝よう」

「は?」

「一緒に寝よう」

「なんでそうなるんだよ!? いつも唐突だな、おい!?」

「却下だ」

「まだ何も答えてねえよ!? てか、提案者の黒陽おまえが却下すんのかよ! 提案者側に拒否権あるとか無敵じゃねえか。どこの独裁者だよ」

「安心しろ。桜華も一緒に寝る」

「ええええ? わたしも!?」

「危険だからだ。何かあった時にすぐ対処できるよう固まって寝たほうがいい」

「そういうことかよ! 先に言え!」


 見張りが必要だろとか、魔獣相手なら一人でも十分対応できるだとか、男女が一緒に寝るのは貞操観念的にどうなんだとか、色々な押し問答の末。

 結局、公主様に押し切られる形で一緒に寝ることになった訳だが。


(なんでこんなに近いんだ?)


 隣り合って就寝した記憶はある。しかし、これほどの――顔を突き合わせるような――距離感ではなかったはずだ。流石に未婚の男女が抱き合って寝るなどということは許されない。相手が公主様ともなればなおさらである。

 と、そこではたと気付く。


(え? なんで俺たち抱き合ってんの?)


 公主様の細腕が麒翔きしょうの腰に回されている。毛布からはだけたつややかな太ももが絡めるように足の間に滑り込んできている。寝息を立てる薄桃色の唇は驚くほど近く、少し体を動かせば簡単に奪うことができるだろう。そして麒翔きしょうの左手は見事な曲線美を描く細やかな腰を抱き、反対の右手は、公主様のはだけた胸元へ伸び――


 血の気が引いた。

 断頭台にひざまずき、刑が執行される瞬間が脳裏を過る。

 眠気は一瞬で消え失せ、クリアな意識を取り戻す。

 同時、頭上に人の気配を感じた。

 身動きの取れない姿勢。目だけを動かして見上げる。

 頭上、五十センチ程の低い位置。そこで。


 ――悪魔が邪悪に笑んでいた。


 膝を折り、前傾姿勢でこちらを覗き込む悪魔と目が合った。ニヤニヤとすごく意地の悪い笑みを浮かべている。すっと目を細めて半目になると、その悪魔は心底楽しそうに口角を上げる。嗜虐的しぎゃくてきなその相貌そうぼうに、ぞっと背筋に冷たいものが走った。


「おはよう。昨夜はお楽しみだったようですね」


 プッと吹き出し笑い出す。それは悪魔ではなく桜華だった。麒翔きしょうは火山が噴火するんじゃないかってぐらいの膨大な熱量が顔面に集まるのを感じた。


「なっ、これはっ、そのっ」


 舌がもつれる。普段の軽口が出てこない。

 そもそも誤解なのであるが、状況的に言い訳のしようがない。

 赤面する麒翔きしょうの顔を覗き込みながら桜華がからかうように言う。


「耳まで真っ赤になってるよ」

「――――――っ」


 慌てて体を離そうとするも、がっしりと組まれた細腕に阻まれて身動きが取れない。女性とは思えないほどの万力まんりきでロックされている。「嘘だろ」と麒翔きしょうが絶望していると、その慌てふためく様子をつぶさに観察し、クスクスと笑っている者がいる。どうやら桜華は手を貸す気はないらしい。

 と、前触れなく万力の固定幅が一気に狭まった。背骨に激痛が走る。


「ぐぇぇぇぇえ」


 潰されたカエルみたいな声が出た。

 物理的に呼吸ができない。麒翔きしょうの胸部には龍衣の布越しに柔らかい物が押し付けられているが、正直それを堪能するどころではない。細身に見える公主様の筋力は、想像以上に洗練されている。なるほどこれが上院の首席。本物のエリートか。こんなところまで高性能ハイスペックなんだな。などと半分意識を失いかけながら麒翔きしょうは思う。


「あらら。陽ちゃんって抱き癖があるみたいだね。それも重度ヘビーなやつが」


 わかってるなら助けろよ。それは声にはならず、ヒューヒューと空気が吐き出されただけ。瀕死のカエルを面白おかしく観察していた桜華は、物憂げに吐息すると心底そう思ってますという風に心をこめて。


「良かった。わたし、陽ちゃんの隣じゃなくて」

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