第20話 馬車に入ったら仲間が増えた(お風呂回)

 本格的な夜へと入り、闇が深まってから随分と経つ。

 寝静まった森から聞こえてくるのは、虫の音色だけ。


 この森の魔獣は昼行性ちゅうこうせいのものが多いようで、三日目の現在まで夜に襲われたことはない。とはいえ、油断はならないので麒翔きしょうは常に警戒を怠らないように努めてきた。


 が、今日に限ってはその注意力も散漫さんまんである。


「あー、見えてたよな。あのトラップ。桜華の口車に乗せられたぜ……」


 焚火たきびに薪をくべながら麒翔きしょうは一人愚痴をこぼした。

 打ち捨てられた帆馬車の中から、桜華が反論する。


「人のせいにしないでよー。うまいうまいってバクバク食べたの翔くんでしょ」


 その通りである。麒翔きしょうは口をつぐみ、お腹をさする。すでに三度、便意をもよおしている。幾分楽にはなったものの、まだ本調子にはほど遠い。


 ちらりと声のした帆馬車へ視線を向ける。

 麒翔きしょうの座る焚火からおおよそ五メートル。少し手を伸ばせば届く距離。

 荷台に張られた帆の隙間から、ランプの明かりが漏れている。

 中の人が動くと光源が遮られ、闇に落ちる橙色の光が明滅めいめつする。なまじ中で行われているイベントを知っているだけに、その明滅は妙になまめかしく見えた。


「覗いたら駄目だからね。絶対駄目だからね!」

「なんだそれはフリか?」

「なワケないでしょ!」


 かなり本気マジトーンの拒絶が返ってくる。とはいえ、もちろん麒翔きしょうも本気で言った訳ではない。意趣返いしゅがえしのつもりで軽口を叩く。


「嫌よ嫌よも好きのうち、じゃなかったのか?」

「うー、ブーメランが返ってきたぁ」


 すると、今度は帆の隙間から公主様の声が漏れてきた。


「本当だ。嫌だと言いつつ桜華の顔が――ふぐっ、むぐぐぐー」

「ちょっと陽ちゃん何言いだすの!」


 ばしゃばしゃと水がこぼれるような音がする。麒翔きしょうはお腹だけでなく頭も痛くなってきた。ため息をつき呆れたような口調で、


「何をはしゃいでんだ。その中で寝るんだからあんまり濡らすなよ」


 現在、彼女たちは水風呂に入っている。帆馬車の中に残されていた空樽を一つ拝借して、小川で汲んだ水を注ぎ、臨時の水風呂とした。森の中での野宿だから体を拭けるだけでも上等なのだが、水風呂にまで入れるというのはまさに僥倖ぎょうこうであった。

 ちなみに麒翔きしょうはすでに小川で直接水浴びを済ませてある。


「それにしても陽ちゃんのお胸はどうしてこんなに育ってるのかな」

「こら、桜華。触ったら――んっ」


 妙に艶めかしい声が聞こえてきて、瞬間的に理性のタガが外れかける。強く目をつむり、湧きあがった煩悩を収めようと努める。が、


「龍人って無駄なお肉はつかないはずなのに、陽ちゃんだけずるーい」

「だから、鷲掴わしづかみにするなと言っている。桜華!」


 望んでもいない余計な情報が送り込まれるたびに、淫猥いんわいな妄想に拍車がかかる。蠱惑的こわくてきな公主様の肢体が脳内に投影され、薄桃色の唇が悩ましげに吐息する映像が流れる。白い肌に絡みつく長く艶やかな黒髪。細いウエストからおヘソを上り、胸元の膨らみにまで妄想が差し掛かったところで、麒翔きしょうは慌ててかぶりを振った。


(落ち着け。落ち着くんだ。理性を保て)


 ただでさえ古今東西、あらゆる美を詰め込んだ完成系。美の化身たる公主様と一晩を共にするのである。雲上人たる彼女が近くにいるだけでも、理性を保つのは骨が折れる。だというのに、こんなところで体の芯に熱が灯れば、今夜という峠を越せなくなってしまうかもしれない。


 この二日間。何とか理性を保ってきた。ここまできて失敗する訳にはいかない。命が掛かっている。


 呼吸を整え、白湯をひとくち口に含む。


「あーわかった! 翔くんが見たかったのは陽ちゃんの裸でしょー。このパーフェクトボディに興味のない男の子なんていないよね」


 ブフォーっと口に含んだ白湯が霧となって噴出される。激しく咳き込み、


「桜華、てめえ。煽ってんのかコラ!?」

「攻撃は最大の防御ってゆーでしょ?」

「諸刃の剣だってこと。教えてやろうか?」

「あーやっぱり陽ちゃんの裸目当てだー!」

「ちげえよ!」

「え……違うの? それじゃあ、わたしの体を……」


 目を潤ませ、怯えたフリをする桜華の顔が目に浮かぶ。


 小さな角。

 黒い羽。


 小悪魔の格好をした桜華は、頭の中に展開された想像の中で、後ろを向いてチロリと舌を出している。安い挑発かに見えるが、それはまさに悪魔的な罠である。


「誰が桜華おまえの貧相な体になんて興味があるかよ」


 挑発に乗っかってやってもいいのだが、公主様が一緒にいる以上、あまり無茶なことはできない。万が一にでも、何かの間違いで公主様の裸を見るようなハプニングが起これば、龍皇陛下の怒りを買いかねない。断頭台送りとなった自分の姿を想像して、麒翔きしょうはぶるっと身を震わせる。


 帆馬車の中から一瞬、息を呑むような気配が伝わってくる。次いで、


「つまり貧相じゃない陽ちゃんの体には興味があるんだ。へー、そうなんだー」

「そういう意味じゃねえよ!」

「だって陽ちゃんのことは否定してないじゃん」

「いや否定はしただろ?!」


 挑発に乗って馬車に近づいてはならない。

 荷台を揺らして脅かしてやろうなどという愚かな考えは捨て去らなければならない。いつもの軽いノリで事に当たれば、きっとよくないことが起こる。


麒翔きしょう。桜華が怒っているぞ。謝った方がいい」

「お、怒ってないよ。陽ちゃんも変なこと言わないで!」

「そうか? 顔が少し怖い」

「そんなことないよ。わたしは笑顔だよ?」

「そうだろうか? 顔から表情が消えている。無だ」

「もー! 陽ちゃん余計なこと言わないで!」


 だが、公主様がもたらしてくれた反撃の好機となる情報を当の麒翔きしょう本人は聞いちゃいなかった。


「俺は貝。俺は貝。心を閉ざして殻にこもる。俺は貝。俺は貝」


 耳を塞いで念仏を唱えるようにブツブツと繰り返している。

 悪魔おうかの声が届かないように。うずくまって殻を閉じるように身を縮こまらせる。


 そうして数分が過ぎた頃だろうか。焚火の薪がバチンと大きな音を立てた。

 驚いて縮こまらせていた体を起こした、その時。


「きゃああっ」

「何者だ」


 ガタン。ばしゃん。と、争うような物音。


 助けに行くべきか、様子を見るべきか。麒翔きしょうは二択を迫られた。

 だが、助けに行って何事もなかった場合、断頭台送りの可能性がある。

 一方、様子を見る方が無難な選択肢であるように思えるが、帆馬車から聞こえてきた争うような物音は、非常事態であることを示唆しさしている。


 かなり本気で迷ったが、しかし見捨てる訳にもいかず、重い腰を上げて帆馬車へと駆け寄る。


「おい、どうした。大丈夫か!?」

「あー! 大丈夫だから翔くんは来ないで! エッチ!!」


 あんまりな言われように麒翔きしょうは少し傷ついた。この世の理不尽と無常を同時に感じ、肩を落としてとぼとぼと戻る。


 十分後。

 荷台の帆をかき分けて人影が姿を現した。順番に、桜華、公主様――そして見知らぬ少女。


「は?」


 一人増えている。

 同い年ぐらいの金髪の少女だ。しかも美人。そこそこ良い服を着ている。

 だが、見るからに龍人ではない。髪の色や顔立ちが違う。あれは西方のそれも商人の服。とすると、あれは人間か。しかし、なぜ人間がこんなところに。先刻、帆馬車の中を確認した時にはいなかったはずだ。


 どこから現れた?


 この世界には帆馬車に入ると仲間が補充されるシステムなんてあったか? と、混乱する頭で考える。もちろん答えはノーである。

 桜華は困ったように公主様と視線を合わせてから、人差し指を立てて身を乗り出すポーズを取る。


「旅は道連れ世は情けってゆーじゃない?」

「はああああああああああああああああ?」

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