第7話 力ある龍人の義務

 夕暮れ。


 学園のカリキュラムは大きく分けて一学期、二学期、三学期に加え、夏季特別実習、冬季特別実習に区切られている。特別実習とは、学園を離れて野外で活動する実践訓練のことで、実際に魔物を相手に戦い経験を積むことを目的とする。


 現在は一学期の授業が終了し、次の夏季特別実習への準備期間となっている。

 半日にも及ぶ夏季特別実習の説明会を終えて、麒翔きしょうは人気のない廊下を一人歩いていた。その顔は淫魔サキュバスに生気を吸い取られた男のように青白い。頬はけ、胡乱うろんな目は像を結べているのかすら怪しい有様。一日でこうも変われるものかとぼんやりした頭で考える。


「大丈夫だよ。相手にされないとわかればそのうち諦めるって」


 桜華おうかの言葉を信じて今は耐えるしかない。


 女子生徒からの熱烈なアタックは休み時間にまで執拗しつように繰り返された。その全てに断りを入れるのも一苦労。というか、断ったはずなのに諦めずにアタックしてくる娘までいる始末。


 女性不信が加速しそうである。


「これが毎日続いたら……持たないかもしれない」


 本校舎二階。大きく取られた窓から庭園を見下ろす。

 今日は止めておこうかと考え、すぐに頭をぶるんぶるんと振る。


 日々の研鑽けんさんおこたるわけにはいかない。吐息し、不甲斐ない自分を鼓舞こぶする。しかしその決意はすぐに霧散むさんした。


 昇降口に圧倒的な存在感を放つ少女が立っていた。下院に存在しないはずの赤と黒の龍衣に身を包むのは、才色兼備な公主様である。麒翔きしょうの姿を認めると、親の仇を見るような目で睨みつけてきた。


「げ、なんか怒ってる……」


 思わずそのまま回れ右してしまった。

 心当たりはあった。模擬戦で手を抜いていたことがバレたに違いない。


「待て」


 呼び止められ、麒翔きしょう諦観ていかんの境地で振り返る。

 いつの間に距離を詰めたのか、公主様の美しい顔が目の前にあった。彼女の背は頭一つ分小さい。挑むように見上げてくるのだが、間近で見ると、その美貌もあいまって黒い瞳に吸い込まれてしまいそうになる。魔性の女か。麒翔きしょうはそっと視線をそらした。


「何の用ですか」

「午前中の一戦。手を抜いていただろう?」


 はい、そうです。

 麒翔きしょうは心の中で謝罪した。が、口に出す度胸はなかった。


「侮られたことに思うところはある。が、ひとまずそれは水に流そう」

「え、いいの!?」


 思わずため口になってしまう。

 安堵したのもつか


「それよりも深刻なのは」


 公主様の顔がぐっと近くなる。背伸びをしたのだ。突然の接近に驚いた麒翔きしょうはとっさに身を引こうとしたが、龍衣のえりを掴まれ引き戻された。唇が触れあいそうな至近距離。麒翔きしょうの目を覗き込むように公主様は言う。


「なぜ女の好意から逃げる。なぜ女をはべらせようとしない」

「そ、そんなの俺の勝手でしょう」

「勝手ではない。迷える子羊メスを救うのは、力ある龍人の務めだ」


 心臓が痛いぐらいに鳴っている。

 この女は何を言ってるんだ。そんな疑問が吹き飛んでいくほどにバクバクと。


「平民出のおまえにはわからないかもしれないが、貴族階級の男たちは、何百何千という女たちを己の庇護下に置いている。なぜだかわかるか。それが優秀な男の義務であり、使命だからだ。ならばおまえにも同じ義務が生じる」


 なんでだよ! 滅茶苦茶だ! そう叫びたかった。


 しかし、魅了チャームにでもかかったかのように体を動かすことができない。

 黒く澄んだ大きな瞳が今にも泣きだしそうに潤んでいる。彼女が口を開くたびに吐き出される甘美な吐息が首筋にかかる。薄桃色の唇は薄っすら湿り気を帯び、誘うように開閉する。それらは彼女こそが本当の淫魔サキュバスなんじゃないかと思わせるほどに、淫靡いんび蠱惑こわくに溢れていた。


貴族あなたたちの理想なんて俺には関係ありません。押し付けないで下さい。迷惑です」


 辛うじて、麒翔きしょうはそれだけを絞り出すことができた。

 公主様の美しい顔がぐしゃっと歪んだように見えた。


「見損なったぞ。もっと気概のある男だと思っていた。ようやく見つけたと思ったのに。なぜそのような腑抜ふぬけたことを言う」

「ちょっと待って下さい。勝手に期待して勝手に失望されても困りますよ」

「失望するなという方が無茶だろう。それだけの力を持ちながら……なぜだ、なぜなんだ。救えるはずの命を見捨てる気か」


 滅茶苦茶な暴論に麒翔きしょうは鼻白んだ。

 そして目の前の端正な顔に、一筋の涙が流れていることに気が付いた。同時に激しく混乱した。


(なんだ? 俺が悪者なのか? そんなに悪いことしたか? え? なんで泣いてんの? てかなんで俺は責められてんの? 意味がわかんねー!?)


 人間の社会で生まれ育ち、人間との間に生まれた半龍人ハーフである麒翔きしょうには全く理解の及ばない話であった。だが同時に、半分は龍人の血も混じっている。麒翔きしょうの中の龍人としての本能は「おまえが間違っている」と告げている。だから余計に混乱してしまう。


 しかも暴力的なまでの美が目と鼻の先にあるのだ。

 理性にも限界というものがある。麒翔きしょうは情欲を押さえつけるように奥歯を噛み締め、


「俺からも一つ。公主様に忠告しておきますよ。もっと危機感を持った方がいい。特に男と相対する時は」

「話をそらすな。私は大事な話をしている」

「そうですか。では――」


 胸元を握り離さないでいる公主様の手首を反対に掴み、力を入れる。お互いの顔は近いままだ。


「多くの女をはべらせろ、か。ならばこれはキスをねだっているのですか?」

「なっ……!?」


 弾かれたように公主様の体が後方へ離れて行く。だが、今度は麒翔きしょうがその手を引っ張り返した。公主様の華奢きゃしゃ身体からだ麒翔きしょうの腕の中に戻ってくる。胸板むないたに鼻先を強打した公主様が頭一つ低い位置からにらみつけてきた。


「わかりましたか? こうなってからでは遅いのです」

「こ――っの!」


 掴んでいた手を振り払われると、逆の方から風を唸らせて平手が飛んできた。


 ――バチンッ!


 首を飛ばす勢いの衝撃が麒翔きしょうの頬を打ち抜いた。その強烈な一撃を見舞った小さな手は、中空で小刻みに震えている。白い頬には朱がさし、見開かれた目元にはこぼれんばかりの涙が溜まっている。薄桃色の唇は怒りに震えているようだった。


 最後にキッと一睨み利かせると、龍衣の裾をひるがえし、公主様はいずこかへ走り去った。一人残された麒翔きしょうは、痛む頬に手を当てる。


「ってぇ


 腰の入った良い平手だった。


「嫌われただろうな。でもその方がいい」


 所詮は平民と皇族、住む世界も価値観も違う。過度な期待を寄せられても重荷なだけだ。その期待に応えるだけの力は、残念ながら麒翔きしょうにはない。なにせ自分は落ちこぼれなのだから。


「本当の俺を知った時が、一番失望するだろうさ」




 ◇◇◇◇◇


 上院。学生寮。

 そこは下院の学生寮と大きく異なり、貴族の屋敷を思わせる豪奢な造りとなっている。寮の外観から内装に至るまでぜいの限りが尽くされ、付属の調度品はいずれも高級品である。


 天蓋てんがい付きのベッドに腰を下ろし、黒陽こくようは胸にそっと手を置いた。


(まだ、ドキドキしてる)


 いきなり抱き寄せるとは何と無礼な奴なんだろう。

 しかし、と黒陽こくようは首を振る。

 今まで自分の周りにはいなかったタイプだ。そして腕っぷしが恐ろしく強い。


 あの模擬戦、途中から攻勢が逆転した。


 理由はわかっている。打ち合った時に模擬刀から伝わってくる重量が、ある地点から一気に増した。おそらく《剣気》の質が自分より上なのだ。そしてそれは途中まで本気を出していなかったことを意味する。


 歳の近い皇族・貴族。将来を有望視される名家の男たちとも幾度となく剣を交えてきたが、終始優勢に事を進め、その全てに勝利してきた。劣勢に立たされた事など、今まで一度としてなかった。


 だからこそ期待してしまった。そしてだからこそ残念に思う。


「あれだけの力を持っているというのに……」


 男女比1:5。龍人の生まれてくる割合である。

 つまり、一人の男に対して五人の女が寄り添うことが妥当。ゆえに龍人は1~2人の男と4~5人の女で群れを構成するのだ。


 そして力のある者ほど、多くの女を養い、庇護ひごする義務が生じる。


 例えば、黒陽こくようの父――龍皇である黒煉こくれんの群れがある。その人口は、群れに所属する龍人女子だけで二万を超え、都に住む一般市民である他種族の男女まで合わせれば十万を超える。つまり、力のある龍人のようする群れとは、一つの都市そのものである。そして都市に暮らす人々は、皆全員、龍皇の庇護下に置かれる。


「力ある龍人は、多くの者を守らなければならない。だというのに」


 あの男は言った「貴族あなたたちの理想なんて俺には関係ありません。押し付けないで下さい。迷惑です」と。ようやく見つけたかもしれない運命の人の言葉だからこそ、心に突き刺さった。感情が揺さぶられた。


「これは押し付け……なのか?」


 幼少の頃より、皇族としての考え方を徹底的に叩き込まれてきた。個人の利益よりも群れの利益を優先するように育てられてきた。人の上に立つものの心構えを説かれ続けた。嫉妬は群れの足並みを乱す悪だと断じられた。


 それらは黒陽こくようの価値観の全てだった。


 だから押し付けという感覚がわからない。黒陽こくようの主張を理解できないという感覚そのものがわからない。


 ベッドに座ったまま、板張りの床に力なく視線を落とす。


「私は間違っているのだろうか……?」


 答えは返らない。

 置時計の秒針が動く音だけが一定のリズムを刻んでいるだけ。

 端正たんせい賛美さんびされるその顔は悲しそうに沈んでいる。


 ちらり、と寝台横の小テーブルへ視線を向ける。

 一枚の無記入の紙が置いてある。


「どうしよう……」


 決断できぬまま。無為に時は過ぎた。

 気が付けば日付が変わろうとしていた。


 黒陽こくようは力なく立ち上がると、龍衣の帯紐おびひもに手をかけた。


 龍衣の帯紐が解かれ、衣擦きぬずれの音を残して床へ落ちる。

 はだけた上衣うわぎぬの隙間から二つの白い乳房ちぶさが僅かに覗く。だらりと下げられたえりの隙間は腹部まで続き、形の良いヘソが顔を出している。乱れたその格好で、幽鬼ゆうきの如き足取りで黒陽こくようは窓へ近づいた。その先には夜の闇が広がっている。明かりのついた室内は外から見たら丸見えなのであるが、黒陽こくよう頓着とんちゃくせずに窓を開けた。ぼんやりと外を眺める。


 ――ヒュン。


 わずかに、ほんの微かにではあるが風切り音のようなモノが聞こえた。神経をませ、耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音。黒陽こくようはこの手の勘はすこぶる良い。


「また聞こえた」


 周囲の暗闇と一体化するように目をつぶる。

 大気の《気》が少しだけ乱れていることを感じ取る。


「これは下院の方角……そう、そういうこと」


 黒陽こくようは呟き、上衣を整え直すと帯紐を締め直した。

 そして特別許可を得て持ち込んでいた真剣二本を両手に取り、部屋を出た。


 運命が決するのだとすればそれは今夜なのではないか。

 妙な確信めいたものが彼女を突き動かしていた。

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