第1話 -7- 真理と真理

『言うのだ願いを。そしてその身を泉へ浸せ』

 声に波黒はぐろは考える。百の闘争と千の悲愴の末に至った目の前の死。それを見て思い浮かべる事。

白瀬しらせを……いや、この戦いで散った全ての命を、元の姿に」

『その手段は実行できない』

 意識が止まった。

 一息の沈黙の後、膝立ちのままずるずると皮が抉れることも意識せず泉へ近付く。そして、闇の底を覗き込み再び口を開いた。

「この戦いで失われた、全ての人々を……元に戻してくれ」

 確かに願いはあった。どうしても叶えたい願いはあったのだ。だがその為にこんなことをするべきじゃなかった。その必要はなかった。全ては最初から間違っていたのだ。愛する者をこの手で殺して、その心を最後に聞いて、願いを叶えてくれる物などいらなかったと絶望しながら悟ったのだ。故に言うべきは。

「死んだ者たちを返してくれ!」

『その機能は存在しない』

 泉から不変の返答が湧き出る。それを聞いて波黒の右手が指で地面を削り、爪が剥がれた箇所から赤を引いて、震えながら拳へ握られた。

「ふざけるな!!」

 怒声。泉へと感情を吐きかける。

「騙していたのかっ、私たちを。嘘だというのか、全てを願いが叶うとは、今さら!」

『否定。私は全ての願いを叶えることが出来る』

 波黒がさらなる言葉を続けようとしたときだ。

『願いとは、障害だ』

「……は?」

 思わず疑問符が零れる。

『お前の願いは”相手の心を暴きたい”だ』

 波黒の背中が不意に跳ねる。そして軋むほどに歯をかみしめながら沈黙した。

『その願いは”相手の心が分からない”という障害から生じる感情だ。分からないから自分の心を打ち明けられない。障害があるからその先の結果へと辿り着けないのだ』

 波黒は唇を噛み、拳を泉の淵の地面へ打ち付ける。

「そうだとしても、願いであることは確かだ。だから、皆が命を代償にして戦ったんだ。それが出来ないというのであれば——」

『願いを叶えることは経過を固定して結果を特定することではない。それは私には不可能だ。故に私は別の方法で願いを叶える』

 波黒の背筋へ寒気が再び刺さり、全身が震えだす。もたらされる言葉から思考がその先を推測して不安を導き、無意識が思考を止めて自我を守ろうとしている。

『人の心が分からない事が障害となって行動を阻み結果を阻害するならば、人の心を気にも留めない人間になればよい』

 泉は波黒の声で、彼女が絶対にしない凍った口調で声を出す。

『経済力を欲するならば、貧富の差に執着しない性格になればよい。病床の苦しみから逃れたいならば、どんな苦痛にも動じない精神を持てばよい。相手と互いに恋情を通じ合わせたいならば、全く感情が動じない心へ変えてしまえばよい』

 波黒は唇を青くして呼吸を細く乱しながら泉から後ずさる。

『人が求めるものは願望の成就ではない。その結果によって精神が安定に満たされることだ。しかしその為に力を自制せず世界へ害を与え続け、挙句に欲する未来が消滅したことへ呪いを叫ぶことは矛盾している。その性質を解消する方法はどの宇宙にも存在しない。ならば障害を世界から排除するのではなく、最初から現状に心を満たされる人間に自分自身が変化する方が効率的だ』

 自分の願望の為に世界を捻じ曲げようとする人間の傲慢さを糾弾しながら、泉は最も簡単な願いを叶える方法を無慈悲に説明する。

 それを聞きながら波黒は震える右手で半顔を覆った。指で覆った視界はしかし隙間から眼前にある泉を見せる。激しい耳鳴りと頭痛に見舞われ眩暈に襲われた。

 やがて顔に掛っていた右手は側頭部の髪を強く握り、波黒は俯く。

「それが……願いを叶える方法。世界を変えるのではなく、自分を自分で無くさせることが」

 それは真理だった。変えられない物を無理に変えようとするのではなく、変えられるものを変化させて心を満たす。願いを叶えることが心を満たす事であるならばそれはどうしようもなく妥当だ。

 反論は出来ない。何故か。それはまさしく波黒の願いにとって全く最適な方法であったからである。

 自分の気持ちを伝えたいから、白瀬の心の内を知ってしまいたい。禁忌であることは承知でも臆病がそれに蓋をして許されない行動を選んでしまった。

「けど、それは必要なかった……」

 白瀬の声にならなかった最後の言葉を思い返す。それこそは最初に自分が求めていたもの。なんとしても叶えたいと思ってしまった願いの答え。だとするならば、「全ての願いを叶える泉」など最初から必要なかったのだ。

 ただ一歩、相手の心へ踏み込む勇気があれば、自分を奮い立たせて心を強く持てばそれで納まっていた話である。

「私が変われば、私の願いは叶っていた」

 それもまた良い訳の余地のない真理だ。

 震え、歯を鳴らし、地面を失ったような眩暈に体を揺らされながら、手だけが力を込めてちぎらんばかりに髪を鷲掴みにして痛覚をもたらす。

 そして現実感を喪失しそうになりながらも、問うた。

「この体を泉へ沈めたら、私はどうなるんだ」

『死ぬ』

 間隙なく告げられる。

『そして”願いがかなった私”が新たにいずる。だが何の違いもない。性根は同じ、記憶も継続する、肉体は損傷を修復して元通りになる。後は”心が満たされた自分”という結果だけが残る』

「何も……何も変わることはない……」 

『そうだ。だから泉へその身を沈めろ。”願いがかなった自分”へと成り代わるのだ』

 黒い泉が語った役割と波黒の願いに本当に必要だったもの。これまでの激烈な戦いの記憶と呆れるほど単純な泉の性質のギャップに理性も感情も磨り潰されていく。

 真理と真理の狭間で、波黒の精神は臼に挽かれるように粉々になっていった。だが、その最後の最後で人間としての生存本能が抵抗を言葉にした。

「違わなくても、嫌だ。私が死ぬのは、違う。それは……申し訳が立たない。この手に掛けたすべての人間の存在に対して、その死を無為にすることだけは……人として、許してはいけない」

『その心配は成立しない』

「……?」

 混沌となった意識に疑問が生じる。

『その身は異界の力で百二十七人を殺したもの。人間はそんなふうに殺さない。その身は既に人にあらず。その身は既に——魔女』

「ニンゲンじゃ……ない?」

『然り。故に清算せよ。全ての罪を流しその身は消えて、新しい私が成り代わるのだ。そうして願いは叶えられ、何の問題も無く世界は続く』

「は、はは、あはは、ははは、ははは」

 唐突に笑声しょうせいが鳴った。波黒の声だ。

「ははは、ははは、ははは、ははは、ははは、ははは、ははは、ははは」

 喜びや悲しみではない、否、どのような感情も存在しない、肺から送られる空気が声帯の痙攣で規則的に発声されるだけの現象だった。

 波黒は俯いていた体を反り返らせ、膝立ちで真っ黒な夜を仰いでただ声を立てている。その眼は絶望の曇りすら消えて、黒瞳に夜空を写すだけの鏡になっていた。

 しばらくの間、声が響き続ける。そして、やはり唐突に途切れた。

 次いで波黒は動き出した。

 脱力した脚で立ち上がり、ふらふらと揺れながら靴底を引きずって歩いていく。

 そして、闇の泉の中へと一歩を踏み込んだ。


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相手の首を絞め合う系の百合ジャンル短編集 底道つかさ @jack1415

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